裏庭というのか中庭というのか、ともかくあの場から連れ出された美雨は足早に歩くクートに半ば引き摺られるようにして廊下を進んで行った。すれ違う神官達が何事かと振り返るが、それに気を払う余裕などない。
 しばらく歩いた先で痺れるほど強く掴まれていた手首が唐突に離された。と、同時に肩を乱暴に掴まれ、叩き付けるかのように壁に押し付けられた。
「っ」
 冷たく硬い壁に強かに背中を打ち、痛みに一瞬息が詰まる。しかし、そんな美雨の様子などお構いなしにクートは荒げた声で問い詰めた。
「何故あの場所に行った?! 勝手に動き回るなと言ったはずだ! なのになんで、よりにもよってラウラの前に……!」
 射抜くような強い視線で見られたことは何度もあったが、それまでのどんな表情も可愛く思えるほど、今の彼の瞳に浮かぶ怒りは凄まじかった。
 口早に捲し立てるクートの指が肌に食い込む。ギリ、と骨が軋む音が聞こえそうなほど肩を掴まれ、痛みに反射的に眉が寄った。

――痛い……けど…――

 叩き付けられた背中よりも、掴まれた肩よりも、心の奥底が鈍く痛む。目の前で真正面から怒鳴り付けるクートの顔が自分よりも痛そうに歪められていたからだ。
「ごめん、なさい」
 何も言えず、美雨はただ謝った。
 あの場所に行ったのはあの歌が聞こえたから。歌っているのが美陽だと思ったから。気が付いたら行先も分からぬまま廊下を走っていた。
 その先にあんな場所があることも、ましてや、そこにクートの妹がいるなんて知る由もなかった。
 でもそれは言い訳だ。
 勝手な行動をするな、と前もって何度も忠告を受け、一瞬でもそれを思い出したにも関わらず無視したのは自分だ。だから、と言い訳をせずに謝ればそれがまたクートの逆鱗に触れてしまったようだ。
「っ……いつもいつも涼しい顔をして……お前達の所為でラウラがどれだけ…!!」
「痛っ」
 強さを増した指が更に肩に食い込み、思わず美雨の口から声が漏れ出る。
「クート!」
 その時、緊迫した声が聞こえ、肩にかかっていた圧力が唐突に消えた。
 ぎゅっと顰めた目をそっと開いた先に見えたのは真っ白な神官服とゆるく結んだ濡羽色の髪。マティアスが美雨を庇うようにして二人の間に割り込んでいた。
「何をやっているんだ。君の怒鳴り声、ずっと先まで聞こえていたよ」
「どけ、あんたに関係ない」
「どかないよ。今の君をミウに近付ける訳にはいかない」
 いつもより低く厳しい声のマティアスに食って掛かるが彼も引かず、双方睨み合いが続く。一秒一秒が長く感じられる中、再び口火を切ったのはクートの舌打ちだった。
「……言われなくたって近付かねえよ」
 マティアスの背が隠していたお陰でクートの表情は見えなかったが、憎しみがありありと感じ取れるようなその言葉に美雨の肩がビクリと竦んだ。
「クート」
「"禁忌の双子"、"不吉の象徴"。はっ……やっぱり忌み嫌われるだけのことはあるんだな」
「……クート」
「お前らの所為で………お前さえ、来なければ……!!」
 マティアスの制止を無視し、クートがそう叫んだ瞬間、廊下に乾いた音が響いた。
「いい加減にしなさい」
 目の前に立つマティアスが振り切った手を下ろしながら冷えた声で言うと、クートは忌々しげに彼を睨み、口を閉ざした。
「少し頭を冷やして来なさい。ミウには私から説明しておく。いいね?」
「……好きにすれば。ついでに二度とラウラに近付かないように言い含めておいてくれよ」
 吐き捨てるように言い放ってクートは二人に背を向けた。
「……ごめん、なさい…」
 口から零れた掠れた声が聞こえたのか、クートは一度だけ足を止め、しかし振り向くことはしないまま歩き去って行った。
 クートの背中から逸らした視線に映ったのは、知らず自身の服を握り締めて小さく震えていた己の手だった。




 あれからマティアスに連れられて部屋に戻ってきた美雨の顔を見てカヤが悲鳴を上げた。つい数日前に見た光景とそっくりだな、などとこの状況にそぐわないことをぼんやりと思う。
「カヤ、少しだけミウと二人で話がしたい。その間に彼女のお茶でも用意しておいてくれるかな」
「……分かりました」
 マティアスのいつになく真面目な声にカヤも何か感じ取ったらしく、すぐに冷静さを取り戻して言われた通り従った。パタン、と扉が閉まる音が遠くに聞こえる。
「ミウ、大丈夫かい?」
 美雨を座らせた椅子の足元に跪き、マティアスは彼女の手をそっと握って俯きがちになっていた顔を覗き込んだ。指先はひんやりと冷たく、頬は何処となく蒼褪めているようにも見える。
 美雨が小さく頷くと、彼は静かに微笑んだ。
「なんとなく予想はついてるけど、何があったか聞かせてくれる?」
「……はい」
 今になって震えそうになる声をグッと堪え、美雨はぽつりぽつりと事の顛末を話した。
 すれ違った子供たちが歌っていたのが幼い頃に美陽とよく口遊んでいた歌だった事、思わず彼らが来た道の奥に向かってしまった事、同じ歌が聞こえた先にラウラと呼ばれた女性がいた事、その女性が美雨を美陽だと勘違いした事、そしてそこにクートが現れてマティアスも知るあの場面になった事、全てを話した。
「なるほどね、やっぱりそうか」
 美雨の話を聞き終えたマティアスはふう、とため息を吐いた。
「あの……ラウラさんという女性はクートの…」
「妹だよ」
 やはりそうだったのか、と美雨は膝の上に置いた手をキュッと握り締めた。
「前にクートにも事情があるって言ったこと、覚えているかい?」
 港で言われたことだとすぐに思い当たり、コクリと頷く。
「今の一件がその根幹だよ。本当はクートから話してほしかったのだけれど……こうなっては仕方がないね」
 そう言い淀んだマティアスは少し困ったように微笑んだ。
「……ミハルが巫女となってから、ラウラは今のカヤのように侍女として仕えていたんだ」
 静かに話し始めたマティアスの言葉を美雨は黙って聞いた。
「出会ってすぐに二人は打ち解けた。ラウラはミハルのことを姉のように慕っていたし、ミハルもまたラウラをとても頼りにしていた。だからか、彼女はミハルが突然居なくなったことに他の誰よりも動揺した。ミハルを守ることが出来なかったと嘆き、自分を責め、次第に心を病んでいった」
「………」
「それで元々居たこの神殿に戻り、孤児院の手伝いをしながら療養していたんだ。そこにミハルそっくりの君が現れて、君をミハルだと思ったんだろうね」
「……そう、だったんですね」
 先ほどの様子を思い出し、美雨は視線を落とした。
「彼らは幼い時に事故で親を亡くした孤児でね、クートは唯一の肉親であるラウラのことを誰よりも大切にしていた。だから彼女の心を病む原因となってしまった君達が許せないと思ってしまったんだろう」
 それで今までの彼の態度に合点がいった。大切にしてきた妹がそんな目に遭っていたのなら、その原因を憎んで然るべきだ。
「でもね、ミウ」
 黙り込んだまま視線を上げれば、優しい顔をしたマティアスと目が合った。苦手だったはずの青灰色の瞳が今はひどく安心出来た。
「これは君の所為じゃない。君は何も悪くないんだ。確かにミハルが消えたことがラウラの心を病む原因になったのかもしれない。でもそれはミハルが悪いわけでも、君が悪いわけでもない」
 マティアスはそう言ってくれたが、美雨にはどうしてもそうは思えなかった。自分が呼び戻しさえしなければラウラは今でも美陽のそばで笑っていられたはずなのだから。

"お前さえ、来なければ"

 クートの憎しみの籠った言葉が耳の奥で木霊する。
 膝の上でギュッと握り締められた美雨の手をマティアスのそれが優しく包み直した。
「クートはやり場のない苛立ちを君にぶつけてしまっただけ。ミハルも君も、誰からも責められる謂れなんてないんだよ」
「………」
 マティアスはきっと本心から言ってくれているのだろう。けれど、そう思っていない人のほうが多いことを知っている。そして自分自身もまた、そう思うことなど出来なかった。
 真っすぐな黒髪がハラリと落ち、俯いた美雨の表情を隠す。
「ミウ、下を向かないで」
 立ち上がったマティアスはそう言いながら美雨の頬に落ちた髪をそっと耳に掛け、そのまま添えた手で上を向かせた。
 青灰の瞳と視線が交わった瞬間、優しい腕が美雨の体を抱き寄せた。
「私がそばにいるから。ずっと、君のそばにいるから」
 幼子に言い聞かせるような穏やかな声が頭上から降ってくる。
 血の気の引いた体には他者の体温はひどく温かく、けれど今の冷え切った心にはその温かさが辛かった。




 美雨の細い肩を抱き寄せ、マティアスは彼女の髪に鼻先を埋めた。カヤが丁寧に手入れをしているからか、柔らかな香りがふわりと広がる。

"そばにいる"

 何度も言った言葉。
 しかし、そのどれもが彼女には届いていなかった。今もまた、美雨の心には届かない。
 普段ならこうして抱き締めれば暴れたりはしないものの、居心地が悪そうに身じろぐくらいはするものだが、それすらもしないということは彼女の思考がここではない何処かへ向いているということ。
 また自分を責めているのだろう、とマティアスは思った。神殿を出立する際、アヴァード様から言われた言葉が蘇る。
「あの娘はミハルがいなくなったことを自分が元の世界へ呼び戻したからだと思うておる。それ故、罪悪感や責任感を強く感じておるようじゃ。あれ以上、思い詰める事がないように気を付けてやっておくれ」
 すべては必然という神殿の教えに異を唱えるつもりはないが、今回ばかりは折が悪かったと言いたくなる。ようやくクートの頑なさが多少なりとも和らいだと思ったところだったのだ。これでは元の木阿弥どころか悪化の一途を辿ることになる。
「ミウ」
 柔らかな髪からほんの少し顔を上げてその名を呼ぶが、美雨の視線は伏せられたままだ。
「今日はもうこのまま休んでいなさい……と言いたいところだけど、ごめんね、ここでの最後の儀式があるからそうもいかないんだ。カヤには準備をいつもより遅く始めるように伝えておくから、少しでも休んで出来るだけ心を落ち着かせて」
 そう言って優しく頭を撫でてやれば、ようやく夜色の瞳がこちらを見上げた。
 年不相応なほど冷静な美雨の瞳に浮かぶのは動揺か、罪悪感か。それは普段からは考えられないほどに弱々しい眼差しだった。
 マティアスはゆっくりと顔を近付け、その眦にそっと口付けた。
「どうか一人で抱え込まないで」
「………」
 何か言おうとしたのか、美雨の唇がほんの少し開いたが、言葉ごと飲み込むようにすぐにキュッと結ばれてしまった。
 それを見たマティアスはふっと寂し気な笑みを浮かべ、名残惜しむように髪をひと撫でしてから彼女の体を放した。
「それじゃあ、またあとで迎えに来るよ」
 これ以上ここにいても美雨の気は休まらないだろうと思い、マティアスはそう告げて部屋を出た。それに彼女の他にもう一人、話をしなければならない者がいる。
 廊下を進むマティアスの表情にいつもの柔らかさはなく、その瞳は鋭く厳しいものへと変わっていた。






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