今夜、祈りの儀が終わればアルフレア神殿での勤めも終わりだ。
 ようやく慣れてきた頃かと思っていたが、昨夜の務めは正直ボロボロだったと思う。
 祷りは心を込めてこそ成されるものだというのに、気を抜けばすぐにでも集中力が散ってしまいそうだった。それでも何とかやり切れたのはあの時、レイリーが半ば強引にでも休ませてくれたおかげだろう。
「ミウ、そろそろ戻るぞ」
 礼拝堂の隅の椅子に腰掛けていた美雨は呼びかけられたクートの声でハッと我に返った。
「あ……はい」
 そう言って立ち上がり、クートと共に出口へ向かった美雨は退室する間際にもう一度、誰もいない礼拝堂を振り返った。エリゼオと名乗った青年のことがどうしても頭から離れず、また現れるかもしれない、と礼拝堂に来てみたが、彼が再び美雨の前に姿を現すことはなかった。
「ミウ」
「いま行きます」
 クートに促され、美雨は何かを振り切るようにして礼拝堂をあとにした。
 四神殿の一つというだけあってここもまた迷いそうなほど広い。その内部を迷いのない足取りで歩くクートの背を追いながら、美雨はその後ろ姿をそっと見つめた。
 彼の妹の心に残った大きな傷。それがクートの中に蟠る一番の理由。それをすでに美雨が知っているということに気付いた時、彼はどうするだろうか。
 そんなことを思ってすぐに美雨は彼の背中から自分の足元へと視線を落とした。
 考えなくても分かる。話したくなくて黙していた事柄を他人の口から勝手に聞き及んでいたなんて、自分がその立場だったら絶対に嫌な気持ちになる。そうして、ようやく少しは和らいだかと思えたこの距離も、きっとあっという間に離れてしまうのだろう。
 それを思えば余計に誰にも言う気になれず、美雨は重苦しい気持ちを吐き出すように小さく息を吐いた。
 その時、二人が向かう先の廊下から一人の神官が歩いてきた。クートに用があったらしく、彼の前で足を止め、軽く頭を下げてから何やら話し始めた。その途中、不意にクートが美雨の方を振り返り、言った。
「先に戻ってて。また夜に迎えに行く」
「分かりました」
 一般の民が自由に出入りできるのは礼拝堂までで神殿内部は立ち入れない区域だ。それ故、美雨が一人で歩いていても問題はない。クートを呼び止めた神官に会釈を返し、美雨は部屋に向かって歩き出した。
 ひっそりとした廊下をしばらく進んだ後、いくつもある曲がり角のひとつからパタパタと小さな足音を立てて数人の子供が走って来た。神殿内部にいるということは併設されている孤児院の子供たちだろう。
 すぐ横を無邪気に駆けて行く子供たちとは反対に、美雨の足はピタリと歩みを止めた。
「今の……」
 ぽつりと呟いた声をかき消す元気な足音が遠のき、美雨は緩慢な動きで子供たちが出てきた曲がり角を見つめた。

"あまり勝手に動き回るなよ"

 神殿に着く前と、神殿についてからもう一度、念を押すように言われた言葉が一瞬頭を過ったが、美雨の足はそれに反してふらりと動き出していた。
 何故、そちらに行こうと思ったのか分からない。けれど、美雨は歩みを緩めることなく一度も立ち入ったことの無い廊下の奥へと進んで行った。
 廊下の突き当たりに見えた古びた扉は子供たちが締め忘れたのか、ほんの少し開いたままだ。そこから温かな風と、それに乗って微かな歌声が聞こえた。
「……っ…」
 美雨は息を飲んだ。
 先程すれ違った子供たちも口遊んでいた歌。耳にとても馴染みのある、幼い頃に二人でよく口遊んだあの歌。
 無意識に駆け出し、古木の扉に手を掛ける。

―― 美陽……!! ――

 心の中で強く叫びながら勢いよく開けた。
 少し開けた砂地の庭。子供が遊んだ後片付けをしていたのか、腕に籠を抱えた一人の女性がゆっくりと振り向いた。
「あ……」
 思わず落胆の声が漏れた。そこにいたのは想い描いた顔ではなく、見知らぬ女性だったからだ。
 冷静に考えれば分かることだった。
 この世界に美陽は居ない。
 思い違いと人違いをしてしまったことに羞恥が込み上げる。美雨は被ったストールを指先で引っ張り、顔を隠すように俯き、それからふと違和感を覚えた。

―― それならなんで、あの歌…… ――

 あれは元の世界の歌だ。何故、それをこの女性が知っているのか。
 そう思った瞬間、ドサッと何かが落ちる音がして反射的に顔を上げると、目の前の女性が持っていた籠を取り落とし、驚愕の表情で口元に手を当てていた。
 何だろうと思うより早く、女性が叫ぶように言った。
「ミハル様……!!」
 落とした籠など目にも入らず、一目散に駆け出した彼女は目の前まで来るとその腕を広げて美雨の体にきつく抱きついた。よろめくほどの勢いと、それ以上に呼ばれた名前に驚いた。
「え……」
「ミハル様……ミハル様…」
 美雨よりもやや低めな身長の体で必死にしがみつきながら、女性は何度も同じ名を口にした。泣いているのか、声は掠れ、細い肩は震えている。
「ミハル様……やっとお戻りに……ずっと、ずっと待っておりました…」
 もう何処にも行かせまいと言わんばかりの力で縋り付く女性に美雨は戸惑い、狼狽えた。
 美陽がいかに巫女として望まれ、民からの信頼も厚かったかということは今までの旅の中で身に染みて感じていたが、これほどまでに慕う者は初めてだ。まして今は禁忌の双子として知れ渡っているはずなのに。
 その時、不意にエゼリオの言葉が頭を過った。

"彼の妹は光の巫女、つまり貴女の妹に仕えていたのですよ"

 そう思って目の前の女性を見れば彼の髪の色にとてもよく似ていることに気付く。
 それに先程の歌。
 美陽がよく口遊んでいたあの歌。簡単な歌とはいえ、それを覚えられるほど近くに居た者。

―― もしかして……この人… ――

 美雨の心臓がドクリと跳ねた。
 前巫女が、美陽が消えて心を病んでしまった、クートの妹。
「あ、の……私は…」
 美陽じゃない。
 やけに乾く喉から絞り出した声でそう続けようとした矢先、焦りを含んだ大きな声が庭に響いた。
「何してんだ!!」
 しがみつかれたまま声のする方を振り仰げば、入って来た扉のすぐそばにクートの姿が見えた。美雨の置かれている状況を認めたクートの瞳は怒りの色に染まっている。
 はじき出した考えが合っていたかどうかなど、聞かずとも彼の射殺さんばかりの強い視線が全てを物語っている。
 言葉が喉の奥に張り付き、ヒュ、と息が止まった。




 昨日、体調を崩してから美雨の様子が少し妙な感じがする。何が、とはハッキリ言い難いが、先ほども礼拝堂でいつになく気も漫ろな様子だったし、誰かを探しているような雰囲気でもあった。
 クートは半歩後ろを歩く美雨の姿を肩越しにちらりと見やった。
 にこりもと笑わない彼女は何においても優秀で、いつも年不相応なほど冷静沈着だった。こちらがいくら敵愾心を向けようと、それを返してくることもない。巫女として文句なしの人物だが、クートにはそれが余計に憎らしく思えていた。
 優秀なのだから手を貸す必要などない。妹を苦しめる原因を作ったのだから優しくしてやる必要もない。そう思っていた。否、思おうとしていた。
 けれど顔見世の時、ストールをきゅっと握り締めた美雨の手が小さく震えているのに気付いた瞬間、頑なだった思いがほんの少し解れていった。
 優秀なのは陰で努力をしていたから。敵愾心を向けても返さないのは己に非がある、と甘受しているから。そんなこと本当はとうに知っていた。分かっていたけど、分かりたくなかった。意固地になっていた感情をどうやって正しい位置に戻せばいいのかが分からなかっただけだった。
 随分と勝手な話だが、そんな美雨が自分以外の言葉や態度で俯くところなど見たくはなく、クートは思わず声を掛けていた。
 自分の一言に顔を上げ、真っ直ぐに先を見つめる美雨の横顔。そして背筋を伸ばしたまま頭を下げる姿は凛として美しかった。躊躇いながらも頭を垂れ、祈りを捧げる民衆も、きっとそう思ったことだろう。
 熾火のように残る蟠りのせいで美雨を前にすると未だに素直になれないが、心の奥底では彼女が巫女だと認めてもいるのかもしれない。

―― 我ながら勝手なことだな ――

 そんなことを思い返していると前から歩いてきた見知った神官に呼び止められた。クートは美雨を振り返り、先に戻るように言ってその背中を見送った。
 ネレムからの伝言を受けて神官と別れると、今度は孤児院の子供たちがパタパタと走って来た。年長らしき子の会釈に笑顔を返してやりながらふと思う。
 今夜の祈りの儀が恙無く終われば、早ければ明日、遅くても明後日にはここを発つことになるだろう。そうなればまたしばらくはラウラの顔を見ることも出来なくなる。今のうちに少しでもラウラの元に居てやろう、とクートは孤児院のある場所へと向かった。
 長い石造りの廊下を歩き、角を曲がると、孤児院の庭へと続く扉が開け放されていることに気付いた。先程の子供たちか、と思いながら近付いて行けば不意にラウラの叫ぶような呼び声が聞こえた。
「ミハル様!!」
 その名前にクートの心臓が嫌な音を立てる。知らず走り出した先で見た光景は予想していた一番最悪な状況だった。

―― なんで……!! ――

 何度も美陽の名を呼びながら美雨に縋りつくラウラ。それを見た瞬間、クートは目の前が真っ赤に染まったような錯覚を覚えた。
「何してんだ!!」
 自分でも抑えられないほどの怒りが込み上げてくる。あまりの剣幕に美雨が怯えたのが分かったが、そんなこと気にかけている余裕はなかった。
 ツカツカと足早に二人に近寄ると、美雨に縋りついていたラウラの手を無理やり離し、そのまま自身の背に隠した。その間にも美雨から視線は外さず、今までにないくらいの形相で睨み付ける。
「兄さん?」
 呼ばれて後ろを振り向けば頬を紅潮させたラウラが居た。美陽が居なくなってから見ることの無かった笑顔を浮かべて。
「兄さん、ミハル様が戻ってらしたわ!もしかして新しい巫女様ってミハル様の事だったの?先触れで届いた書簡にはそんな事……ああ、でもそんなことどうでもいいわ、ミハル様が戻って来て下さったんだもの」
「ラウラ……」
 美陽が戻って来たのだと思い込んでいるラウラはそのことで頭がいっぱいなようで、クートの様子がおかしいことに気付かない。弾む声で心底嬉しそうに言うラウラの姿があまりにも痛々しく、クートは思わず口籠った。
 ここで目の前にいるのは美陽ではないのだと言ってしまえば、ぬか喜びどころか再びどん底に突き落とすことになる。ようやく少し笑うようになったラウラからもう一度笑顔を奪うことにななりかねないのだ。
「ミハル様、よく戻って来て下さいました。本当にずっとずっとお待ちしていたんですよ」
 背の後ろから出て来ようとするラウラを片手で押し留め、宥めるようにクートは言った。
「ラウラ、ミハル・・・は最後の祈りの儀を控えているんだ。少し休ませてやらないと。な?」
「あっ、申し訳ありません!! 嬉しくてつい……」
 眉を下げ、あからさまに残念そうな顔をするラウラからスッと視線をずらし、やや困惑したような表情の美雨に話を合わせろ、と目で訴える。
「……私も……驚かせてごめん、なさい…」
「いえ、こうしてお顔を見られただけで十分です。今夜の儀、無事お務めを終えられますようお祈りします」
 そう言ってにこりと笑うラウラの頭をポンと叩く。
「お前もまだ本調子じゃないんだからさっさと戻れ。俺はこのままミハルを送って来るから」
「兄さん、ミハル様をお願いね」
「……ああ」
 昔のような笑顔を見られた嬉しさと、それ以上に腹の底で渦巻く怒りが複雑に混ざり合い、頷いたその声は微かに震えていた。






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