ネレムに教えてもらった部屋はクートも良く知っている場所だった。
 彼の足は迷うことなく冷たい床の上を蹴っていく。何度か見知った顔触れとすれ違ったが皆、彼が何処へ向かっているのか分かっているのだろう、誰も声をかけて来る者はいなかった。
 そんな彼らを横目にそのまま奥へと進んで行けば外へと続く扉があった。少し古びたそれへと手を伸ばすと、キィ、と金属の擦れる音と共にまだ温かな風が流れ込む。
 庭を隔てたその奥にあったのは三棟の建物。そのうちの一番小ぢんまりとした建物の方へとクートは歩いて行った。
 ふう、とひとつ息を吐き、心を落ち着かせてから軽く握った指の背で扉を叩くと、しばらくして返事と共にカチャリと開かれた。
「……ただいま」
 自分と同じ赤みがかった金色の瞳が見る見るうちに驚きに染まっていく。そんな彼女に優しく微笑みかけると飛び付くように勢いよく抱きつかれた。
「兄さん!」
「久し振り」
 しっかりとその腕で抱き締めてやれば、前よりもまた少し痩せた彼女の体に胸が痛んだ。クートはそれを隠すように彼女の頭をポンポンと撫でた。
「そんな抱きついてこられたら顔が見えない」
 ぎゅうぎゅうと細い腕で抱きついてくる様子に苦笑すると、ようやく彼女が少し離れて顔を上げた。
「お帰りなさい、兄さん」
「ただいま、ラウラ」
 もう一度そう言い、クートは笑みを浮かべる。
 けれど、ラウラから返ってきたのは悲しみが色濃く残る微笑みだけだった。屈託なく笑っていたあの頃の笑顔は何処にもない。
 笑うことが出来なくなっていた当初を思えばかなりマシになってきているとは思う。だが、それでも十六の娘が浮かべる微笑みにしてはあまりにも翳があり過ぎた。
 クートはぎゅっとラウラを抱き締め、彼女に見えないように唇を噛み締めた。
「部屋、入ってもいい?久し振りに会えたんだし、俺が居なかった間の話、聞かせて」
 暗く濁っていく気持ちを押し込め、感情を切り替えるとクートは再び優しい笑みを浮かべて言った。
「え、でも……新しい巫女様、は…?」
 新たな巫女が現れたことはラウラも知っているのだろう、戸惑いながらの言葉にクートの眉がぴくりと寄ったが、彼女がそれに気付く前にまた元の笑みに戻っていた。
「さっき着いたばかりだから今は部屋で休まれているよ。ネレム様との話もまだ少し時間があるから」
「そっか」
「お前が気になるならまた後で来るけど」
「ううん、私ももう少し兄さんと居たい」
「ん」
 甘えるようなラウラの頭をひと撫でし、クートは彼女が使っている離れの部屋へと入っていった。
 ここは元々、隣に建てられている孤児院の院長が使っていた部屋だったが、今はネレムが院長を兼任している為、空いていたこの部屋をラウラに宛がってくれたのだろう。生活するためのものはすでに揃っており、質素だが綺麗に整頓され、落ち着く雰囲気だった。
 ベッドに腰掛けて部屋の中を眺めているとラウラが湯気の立ち上るカップを差し出した。それを受け取ったクートの隣に彼女が腰掛ける。
「元気にしてたか?」
「うん。皆、すごく良くしてくれてる。今は孤児院の手伝いもさせてもらってるの」
「そっか」
「兄さんは?怪我はない?」
「大丈夫だよ」
「よかった」
 ホッと安堵の息を零すラウラに、クートは冗談めかして言った。
「それよりラウラ、お前また痩せただろ。それ以上細くなってどうすんだ。まだ好き嫌いしてんのか」
「してないよ。もう子供じゃないんだから」
 ラウラはクートが心配していることに気付いていながらも、それ以上心配させないように、と同じように軽口で返してくる。
「どうだか」
 そう言ってクートは笑った。

―― 癒えたわけじゃない……でも… ――

 笑みを浮かべられるようになってきたこともあり、自分が思っていたよりも安定しているラウラの雰囲気に心の底から安堵した。このまま何事もなく平穏に過ごしていれば、あるいは忘れられるかもしれない、と。
「兄さんも……少し痩せたね」
 そんなことを考えていた時、不意にラウラの手が頬に触れた。
 労わるような温かい手のひら。
 自分が一番傷付いているだろうにそれでも尚、優しさを失わない彼女に、そしてそんな彼女を守ってやれなかった己の不甲斐無さに、クートはぎゅっと拳を握った。
「……お前は人の心配なんてしてなくていいよ。俺なら大丈夫だから。な?」
 心の中の憤りを上手に隠し、クートはそう言ってラウラの額を軽く小突いた。ネレムに言われた通り、情けない顔など彼女に見せる訳にはいかない。
「……うん」
 何処か納得しない様子のラウラだったが、クートはそのまま話を逸らし、それから夕食の時間まで穏やかに他愛ない話をし続けた。
 アルフレア神殿に留まっていられるのは今夜と出発の日を除けば七日間だ。そのあとはまたしばらく会いに来ることすら出来なくなる。
 たったの七日。その数日の間だけでもラウラの側に居てやりたかった。




「少しは疲れが取れましたかな?」
 部屋に入って早々、にこやかな笑みを浮かべてそう言ったネレムに、美雨はこくりと頷いた。
「はい、ありがとうございました」
 ゆっくりと湯に浸からせてもらったお陰で、馬車移動で強張ってしまった筋肉をいくらか解すことが出来たし、食事も終えて腹も満たされている。
「それはよかった。ああ、どうぞこちらへお掛け下さい」
「失礼します」
 ネレムが指し示す椅子に腰掛け、美雨は真正面に座った彼と対峙した。
「さて、早速ですが、ここでの予定をお話しましょうか」
「はい」
 同じような説明で聞き飽きているかもしれませんが、とネレムは前置きをしてから話し始めた。
「巫女様のお役目については大体がこれまでの二つの神殿と同じですね。ここ、アルフレア神殿で祷りの舞を捧げて頂きます。祈祷は月が昇る真夜中に、日中は巫女様のお好きなようにお過ごし下さい」
「外に出ても構いませんか?」
 王都の時は出ることを控えさせられていたが、ここではどうなのだろう、と美雨は率直に尋ねた。
「ええ、もちろん構いませんよ。楽観視は出来ませんが、王都でも暴動はなかったと伺っておりますし、彼らがついていれば大丈夫でしょう」
 椅子に座った美雨の後ろに並んでいる四神官にちらりと視線を投げ、信頼しているということがよく分かる笑みを浮かべた。
「ただ、ご存じの通り、ここら一帯は四方が砂で囲まれています。風も強く、時折ひどい砂嵐も起きる。道標を失えば慣れた者でも迷ってしまうことがあります。ですから、外へ出られる際は必ず誰か共の者をお付け下さい」
「分かりました」
 美雨はネレムの言葉に素直に頷き答えた。以前、一度夜中に抜け出たことがあったが、あの時の彼らやカヤの様子を見てしまえば、もう一人で勝手に出かけようという気など起きなかった。
 その時のことを思い出していると、ふとネレムがこちらをじっと見つめていることに気付いた。
 これまでの旅の中で向けられた不躾な視線とは違い、ネレムのそれは嫌な感じはしなかった。懐かしむような、そんな視線だった。
「あの……何か?」
 けれど嫌な感じではないものの、どこか居た堪れない気持ちにさせられる。恐る恐る尋ねてみると、ネレムは柔らかく目を細めた。
「ああ、申し訳ありません。ミハル様と本当に似ておられるので、つい」
「………」
 ネレムの目は決して双子を忌み嫌うようなものではない。嘘を言っているような雰囲気でもない。けれど、それだけではないように思う。何処か哀憫の情が浮かんでいるように感じたのは気のせいだろうか。
 内心で首を傾げる美雨を余所に、窓の外へと視線を移したネレムは独り言のように言った。
「ミハル様の後にこの世界に来られたのが貴方であったのは、やはりレゼルが導かれた運命だったのでしょうね」
「………」
 何かを含んだような彼の言葉が気にはなったが、美雨はそれ以上問うことは出来ずに開きかけた口を閉ざした。
「ネレム様、そろそろ」
 シンとなったその場を切り上げようとクートが口を挟むと、ネレムはそうですね、と言って美雨に向き直った。
「明日からまたお役目もありますし、今日くらいはゆっくりと休まれるといい」
「はい」
 頷いた美雨の上にふっと影がかかった。
 何かと思って見上げるとすぐ真後ろにクートが立っており、美雨の座る椅子の背凭れに手を置いていた。彼女が立ち上がるのに椅子を引いてくれようとしたのだろう。エスコートされるままに立ち上がり、目の前にいるネレムに頭を下げた。
「明日からよろしくお願いします」
「それはこちらが言うべき言葉ですね。巫女様、どうか貴方のお力をお貸し下さい」
 一瞬浮かべた苦笑はすぐに真面目な表情へと変わり、ネレムはそのまま美雨に正式な礼を執って頭を下げた。
「……はい」
 ネレムの真っ直ぐな言葉に小さく頷いた美雨は、横に下ろしていた手を静かにきゅっと握り締めた。
「行くぞ」
 そう言ってクートの手の平が背中に触れた。ちらりと彼を見上げた後、こくりと頷いてそのまま部屋を退出した。
 廊下へ出るとすぐに背中に触れていた手は離れ、クートは斜め前を歩き始めた。静かな廊下をクートと二人で歩いていると足音だけがやけに大きく響く気がする。他の皆はまだ部屋に残っているようだ。
 それほど遠くもない距離を歩き、自身に割り当てられた部屋の前まで辿り着くと、クートは扉を開けようとした手をふと止めた。
「……昨日俺が言った事、覚えてるか?」
「え?」
 何のことだっただろうか、と記憶を掘り起こしているとクートは苛立ったように小さくため息を零した。
「神殿の中だろうとあまりウロウロするなと言った」
 そういえばそんなことを彼から言われていたのを思い出す。余計なことはするな、巫女の役目だけ考えていろ、と彼は言っていた。
「いいな」
 念を押すクートの感情を抑えるような夕焼け色の瞳を見つめ返し、美雨はこくりと頷いた。それに満足したのか、彼はすっと視線を逸らすと止めていた手を動かし、扉を開けた。
 部屋に入ったのを確認してそのまま踵を返したクートの背中に、美雨は何の気もなく声を掛けていた。
「あの」
 歩き出していたクートの足がピタリと止まり、振り返った。 呼び止めたはいいが、特にこれといった用事があったわけではない。何故声を掛けたのか、自分の行動に自分自身驚きを隠せない。
「あ……お休み、なさい」
 当たり障りのない挨拶で誤魔化そうと口にしてみたが、ものすごく取って付けたような感じになってしまった。シンと静まり返った空気がひどく気まずい。
 少し離れた二人の間に流れる沈黙に堪え切れなくなって顔を俯けた時、ぽつりとクートの声が聞こえた。
「………早く休め」
 彼はそれだけ言うと、振り返ることもなく立ち去って行った。
 その背中を見送りながら美雨は胸をそっと押さえた。ただ一言、他愛もない言葉を交わしただけなのに、それが何故か胸の奥にじわりと滲む。
 クートの背中が見えなくなった廊下の先をしばらく見つめた後、美雨は扉をそっと閉めた。






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