自分を呼ぶ幼い声。
 少し震えるこの声は泣き出す一歩手前だ、と頭の片隅にあった記憶が教えてくれる。
 懐かしさを感じながら条件反射で振り返ればそこには幼い頃の美陽の姿があった。
 小さな手が美雨の袖をきゅっと握る。
 見るとその袖から覗いている自身の手もまた小さなものだった。そういえば目線も変わらない。幼い美陽の姿同様、美雨の姿もまた幼いのだろう。
 自身の小さな手で袖を掴んでいた大きさの変わらない美陽のそれを握り返してやれば、今にも泣き出してしまいそうだった瞳が一転して輝いた。
「――――――」
 美陽の唇が何かを紡ぎ、嬉しそうに笑んだ。
 大きくなってからも変わることの無かったその屈託のない笑顔があまりにも眩しくて、美雨は微かに目を細めた。




「ん……」
 気だるげに息を吐き、寝返りを打つ。ゆっくりと瞼が開き、美雨は目を覚ました。
「あ、お目覚めになりましたか?」
 声のした方を振り向くとにこやかに笑うカヤの姿が目に入る。と同時に彼女の後ろの壁に掛かった時計が視界の端に映り、その針が指し示す数字に目を丸くした。
「え」
 時計は正午を大きく過ぎ、すでに二時を回っていた。確かに昨夜はベッドに入ってからなかなか寝付けず、ようやく眠れたのは明け方近くになってからではあったが、まさかここまで寝坊するとは思わなかった。
「一度お声はかけたのですけど、随分ぐっすりと眠っていらしたので。きっとこれまでの疲れが出たのですわ」
「ごめんさない、すぐに起きるから」
 慌ててベッドから降りようとする美雨を見て、カヤは愉快そうに笑った。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですわ。他の皆様もゆっくり寝かせてあげてと仰ってましたから」
 それにしてもこれは流石に寝過ぎである。一日の半分以上過ぎてしまっているのだ、これから何か行動するというのはなかなか難しいだろう。
「ミウ様はいつも頑張り過ぎですもの。少しくらい休んだって罰は当たりませんわ」
 そう言いながらカヤはとりあえず掛布から出てベッドの縁に腰掛けていた美雨に冷たい水の入ったコップを差し出した。
「ありがとう」
「兄様にミウ様がお目覚めになった事だけ伝えてきますね」
「うん」
 部屋を出て行くカヤの後ろ姿を見やりながら、美雨は起き抜けのぼんやりとした頭で思った。

―― なんか懐かしい夢を見た気がするな ――

 あまりはっきりとは覚えていないが、美陽が出てきた気がする。郷愁のようなものが胸に残っているのはその所為だろうか。
 美雨はベッドから降りると、そばに置いてあった水差しから水盆に半分くらい水を張り、その場で顔を軽く洗った。アルフレア神殿の付近にはオアシスが点在しているからまだいいほうではあるが、砂地の多いこの大陸では水は貴重なものでこうして節約して使うのが常識らしい。
 滴る水を拭い、それからカヤが用意してくれていた着替えに袖を通したところで彼女が戻ってきた。
「今日はもう出かけることはないそうなので、祷りの時間までゆっくり休息を取っていいそうですわ」
「分かった」
「あ、お食事は如何しますか?」
 そう聞かれて忘れていた空腹感が急に訴え出した。考えれば夕べから何も食べずにこの時間だ、お腹が空いて当たり前だろう。
「今からでもいいのかな?」
「もちろんですわ。お部屋で召し上がりますか?それとも食堂に行かれます?」
「それじゃあ食堂で」
「では軽く髪を整えてから参りましょう」
 にこりと笑んだカヤに手早く髪を梳かれ、身なりを整えた美雨は食堂へと向かった。




 食堂で遅い昼食を摂っているとふっと頭上に影が落ちた。
「ゆっくり休めたか」
 美雨が見上げると覗き込むようにしていたディオンと目が合った。
「はい、すみませんでした」
「気にするな。疲れが出ただけだろう。たまには休まねば体が持たないぞ」
 カヤと同じようなことを言われて思わず彼女をちらりと見ると、うんうんと首を大きく縦に振って同意を示していた。
 小さく肩を竦めてディオンに視線を戻すと、彼の首筋に汗が流れているのが目に入った。よくよく見れば金色の髪も少し濡れている。
 その視線に気付いたのか、ディオンは腕でぐいっと汗を拭いながら言った。
「さっきまでクートと手合せをしていたからな。こんな姿ですまない」
「手合せ?」
「ああ。腕が落ちては護衛が務まらないだろう」
 なるほど、と美雨は言葉には出さずに納得する。誓いの中にもあった盾と剣という言葉。それはそのまま彼らの役割だった。
 ここまで半分ほどの旅程を終えてきたが、その道中や様々な場所で護衛としての役目を担っていたのは主にディオンとクートの二人だ。ちなみにマティアスは一行の中心としてのまとめ役、レイリーは薬師として心身のサポートである。
「クートは?」
「あいつなら……行くところがあるからとさっきそこで別れた」
 珍しく言い淀んだディオンに美雨は首を傾げた。共に手合せをしていたはずのクートの姿が見えなかったので尋ねただけだったので言及するつもりなど更々ないが、何処となく居心地が悪そうにしているディオンを見ると少し気になってしまう。
「何か用でもあったか?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「そうか」
 相変わらずぶっきら棒な物言いであるが、とても優しい人だという事は十分に分かっているからだろう。いつもクートの態度に不満を表しているカヤもディオンに対しては何も言う事はない。
「ミウ」
 名を呼ばれて見上げると、ディオンと目が合った。
「食事を終えた後、少し時間はあるか?」
 今日はもう何処かへ行くこともないし、部屋に戻って本でも読んでいようと思っていただけである。特に優先することでもないので美雨はこくりと頷いた。
「それなら少し俺と歩かないか」
「でも外には行かないって」
「ああ、それは聞いてる。でも神殿の周りくらいなら問題ないだろう」
 確かに武に長けたディオンがついているのなら大きな心配はいらないと思えた。
「マティアスには言っておく。食べ終わる頃にまた迎えに来る」
 そう言ってディオンは美雨の返事も聞かぬうちに踵を返し、食堂を後にした。
「珍しいですわね、ディオン様がこんな風にお誘いになるのは」
 彼が出て行った後でカヤがぽつりと口にした。彼女もそう思う程度には強引な誘い方だったのだ。
「でもずっと神殿の中にいるのも退屈でしょうし、いい気分転換になるといいですわね」
「……カヤは気分転換、出来てる?」
 神殿内で過ごす時間が長いのはおそらくカヤの方である。時折、四神官の誰かがこうやって連れ出してくれているが、そういう時に彼女が共に来ることはない。
 気になって尋ねてみると、カヤは少し驚いたような顔をした後で嬉しそうに破顔した。
「ご心配下さってありがとうございます。実はミウ様がお出かけしている間、お散歩したり、兄様のところでお喋りしたりしてますの。だから平気ですわ」
「そう」
 それならよかった、と心の内で安堵する。カヤに促され、再び食事に手を付けた美雨をディオンが迎えに来たのはそれから半時ほど経った後の事だった。




「わ……」
 目の前に広がる光景に改めて感嘆の息を零す美雨の隣でディオンはそっと目を細めた。
 ふかふかとした砂の感触が物珍しいのか、美雨は下を見て何度か足踏みしている。こうして時折見せる無防備な表情は彼女の凛とした雰囲気を和らげ、年相応に見せている。
「ミウが育った国にはこういった場所はないと聞いた」
「美陽から?」
「ああ」
 短く返答すると美雨は視線を砂漠に戻しながら言った。
「あるにはあるんですが、身近な所ではなかったので」
「そうか」
 ぷつりと途切れた会話にディオンは小さく息を吐いた。
 マティアスのように話術に優れた者ならこんな風に沈黙することもないのだろうが、如何せん口下手な自分には到底無理な話だ。
 けれど、二人の間に流れる静けさは何処か心地良くもあった。このまま穏やかな時間を過ごしていたいが、ディオンは美雨を連れ出した目的を果たす為、後ろ髪を引かれつつも口を開いた。
「……クートとは上手くやれているか?」
 聞いたところで美雨が胸の内を話すことはないと分かっているが、それでもディオンは彼女に尋ねた。傍目からも美雨とクートの関係が良好なものでないのは明らかであり、ずっと気になっていたのだ。
「はい」
 一瞬の間を置いて美雨はそう答えた。その横顔からは何の感情も読み取れない。

―― やはり頼ってはもらえない、か ――

 ディオンは落胆しつつもクートの擁護に回った。
「闇は人の心を蝕む。あいつはそれに少し中てられただけで、心根は優しい男なんだ。だから」
 悪く思わないでやってくれ、と続けようとした時、横からふっと息が零れた音が聞こえた。
「マティアスも同じこと言ってました。でも本当に大丈夫ですから」
「そう、か」
「はい」
 再び訪れた沈黙の中、ディオンはそっと上空を仰ぎ見た。
 マティアスも同じことを言っていた、と美雨は言った。その時もきっと彼女は同じことを答えたのだろう。
 どんよりと重たい暗雲が広がる空には相変わらず一切の光りは見つけられない。その奥にあるはずの光を隠し、誰にも見せないようにしている様はまるで美雨の心のようだ。

―― 俺ではミウの心の奥には触れられないのだろうか…… ――

 そんなことを思いながら視線を美雨に戻せば、彼女は何処か遠くを眺めるようにぼんやりとしていた。
 半ば無理やり唇を奪い、求婚の真似事までしたことなど忘れてしまったのか、普段は警戒心が強いクセにいま自分の隣で無防備にしている美雨にほんの少し苛立ちが込み上げる。
「……ミウ」
 呼ぶ声に振り仰ぐ美雨の頬にちゅ、と音を立てて口付ける。彼女の柔らかな唇の端が自分のそれに触れたのはもちろんわざとだ。
 驚きに目を丸くしている美雨に、ディオンは艶やかに微笑んだ。
「あなたに求婚したことを忘れたか? あまり俺の前で無防備でいてくれるな」
「っ」
 そのことをようやく思い出したのか、それとも少しは意識してくれたのか、美雨は息を飲んで俯いた。その様子にほんの少し満足すると同時に己の狭量さに呆れてしまう。
「そろそろ戻ろう」
 美雨の返答を待たずに彼女の手をとったディオンは、二人の時間を惜しむようにゆっくりと神殿への帰路についた。






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