眠るように意識を失った美雨が目覚めたのは、儀式が終わってから一時間ほど経った頃だった。
「……ん…」
 まだ少し気怠さを残す体を起こし、こめかみ辺りに手を当てる。
 いつでも薄暗い所為で今が何時なのかよく分からない。ぼんやりと灯されているランプの明かりを頼りに時計を見ようと視線を上げた時、部屋の扉が静かに開いた。
「ああ、目が覚めた?」
「マティアス……」
 こんな時間に四神官が部屋に来るのは珍しい。そう思っていたのが分かったのか、彼はいつもの笑みを浮かべて言った。
「カヤが湯浴みに行っている間の代理だよ。それより喉、乾いてないかい?そろそろ起きる頃かと思って冷たい水を持ってきたんだ」
 言われてみれば確かに喉がカラカラだ。無意識に喉元に手を持っていった美雨を見て彼は肯定ととったようだ。持っていたトレーをテーブルに置き、水差しからグラスに水を注ぐとベッドの上に座る美雨のそばまでやって来た。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 手渡されたグラスを受け取り、美雨はぺこりと頭を下げた。そのまま口を付けるとひんやりとした水が喉を通り、乾いた体を潤していく。
 それを見ながらマティアスがベッドのそばにあった椅子に腰を掛けた。
「具合はどう?」
「少し怠いくらいなので、大丈夫だと思います」
「良かった。でもまだ頬に色が戻っていないし、もう少し休んだ方がいいね」
 そう言ってマティアスは少し身を乗り出し、伸ばした手の甲で美雨の頬をすっと撫でた。起き抜けでまだぼんやりしていた為に逃げ遅れた美雨の肩がぴくりと反応する。
「……あの…」
「ん?」
 そこはかとなく漂う甘い雰囲気から逃れたくて口を開いてみたが、微笑みを深めた彼の眼差しに負け、視線を手元に落とす。
「……舞は?」
 顔を俯かせたまま問うと、マティアスがふっと笑った気配を感じた。
「上手くいったよ。心配しなくていいと言っただろう?」
 美雨の口から安堵の息が零れる。不意にマティアスの手がふわりと頭を撫でた。
「とても綺麗だった。良く出来たね」
「………」
 もうすぐ成人だというのにまるで子供のような扱いである。だというのに何故か分からないが、それが少しだけ心地良くもあった。
 大きな手が頭を撫でる感触に気が緩んだのか、無意識のうちに目を閉じかけた時、コンコン、と控えめなノックが聞こえた。その瞬間、美雨は弾かれたように顔を上げ、マティアスから距離を置いた。
 一瞬、驚いたように目を丸くしたマティアスだったが、すぐにクスッと悪戯っぽい笑みを零した。その笑みにぎくりとする。
「兄様、ありがとう……あ!ミウ様、お目覚めになったのですね」
 部屋に入ってきたカヤは美雨が起きていることに気付き、安堵したように表情を緩めた。
「お加減はいかがですか?」
「あ……うん…平気」
 気恥ずかしさと、何とも言えない後ろめたさのようなものが込み上げてくる。どんな顔をしていいのか分からず、美雨はさり気なく視線を逸らして曖昧に頷いた。
「さて、カヤも帰ってきたことだし、私も部屋に戻ろうかな」
 狼狽える美雨とは正反対にマティアスは変わらぬ笑みを浮かべたまま立ち上がった。
「それじゃあ、あとは頼んだよ。もしも眠れないようならそこにレイリーから貰ってきた薬湯があるから飲ませてあげて」
「分かりました。兄様、ありがとう」
 カヤに笑顔で頷き、マティアスは扉へと向かう。ふと、ドアノブに手をかけた彼がおもむろに振り向いた。
「ミウ」
 名を呼ばれて反射的にそちらを見れば、悪戯な笑みを口元に浮かべたマティアスと視線が混じった。
「また、ね」
「……っ…」
 思わずかあっと頬が熱くなり、顔を俯ける。そんな彼女の様子を見て満足したのか、マティアスはおやすみ、と告げて部屋を出て行った。
「………」
 やはりマティアスは先ほどの気の緩みに気付いていたのだ。恥ずかしさが込み上げ、両手で顔を覆う。

―― マティアスって……やっぱり苦手… ――

 悪戯っぽく笑ったあの青灰色の瞳が頭から離れない。
「ミウ様?どうかされました?」
「……ううん、何でもない」
 何だかすごく疲れを感じ、美雨は小さくため息を吐いた。
「ごめんなさい、もう少し寝るね」
「あ、どうぞゆっくりとお休み下さいませ。灯り、もう少し絞りますね」
「大丈夫。明るくても眠れるから気にしないで」
「かしこまりました。お休みなさいませ」
「おやすみなさい」
 若干いつもより口早に告げて布団の中に潜り込み、目を瞑って頭の中からマティアスの影を追い払う。
 音を立てないように気を配っているカヤの気配を感じながら、再び微睡の中に戻っていった。




 翌日、幾分すっきりした様子で目を覚ました美雨はいつもと同じようにカヤに髪を梳いてもらい、皆が待つ食堂へと向かった。馴染みつつある朝の風景だ。
 朝食を摂った後、美雨はマティアスに今後のことを尋ねた。
「今日は街に行くんでしょうか?」
「いや、街には出なくていいよ。やっぱり少し治安が悪くなってるみたいでね。閉じ込めるみたいで申し訳ないんだけど、神殿にいてくれないかな」
「分かりました」
 安全を確認するまでは神殿にいろ、と昨日言われていたが、彼らが実際に見て否と判断したようだ。
 北の大陸で初めて顔見世に街に行った時のことはまだハッキリと覚えている。本音を言えば人前に出るのは少し怖い。だから街には出なくていいと言われて少しホッとした。
「ただ、王宮から呼ばれているんだ」
「……王宮?」
 予想もしない、そして自分とは全く関わりのない単語に理解するのが一瞬遅れた。緩慢に顔を上げ、正面に座るマティアスを見る。
「そう、王宮」
 驚く美雨を余所に、マティアスは事も無げに言った。
「陛下から書簡が届いてね。務めを終えた後、余の元に参ぜよ、だってさ」
「……陛下って、まさか……国王陛下…ですか…?」
「そうだよ」
 頷くマティアスを見て、美雨は唖然とする。国王だの王宮だの、雲の上の話で全く頭がついていかない。
「もちろん嫌なら断るから安心して。王命が断れないのはこの国に住む者の話。ここでは巫女の意志が最優先されて然るべきだから」
 そう言ってマティアスはにこりと笑みを向けるが、あまりにも突然過ぎて困り果ててしまった。
 美雨が嫌だと言えばきっと彼らはそれを汲んでくれるだろう。無理強いをするような人はここにはいない。だが、巫女の意志が最優先とはいえ、やはり王命を断るのはあまり良くないのではないか、と思う。
 しばらく逡巡した後、美雨は答えた。
「いえ、行きます」
「……分かった。それじゃあ、先触れを出しておくね」
 美雨の答えを聞き、マティアスが少しだけ眉を下げて笑んだ。その様子がいつもと少しだけ違うように見えた気がした。
 何となく気になって他の三人と話を続けている彼の横顔をじっと見つめていたが、ふと、重大なことに気付いた。
「あの……私、この世界の作法とかよく分からないんですけど」
「ミウは普段から礼儀正しいから、気にすることはないよ」
「え、でも」
 この世界の、というよりも向こうの世界での作法すら怪しい。王に会うというのにそんな簡単でいいのだろうか。
 そう思っているとそれまで黙っていたクートが口を挟んだ。
「ミハルの時は歓待されていたからあれでよかったかもしれないけど、今回は違うだろ」
 ぼそりと呟くように意見した彼に皆の視線が集まる。
「どうせ王宮に行くのはここでの勤めが終わった後なんだから、それまでに作法の一つでも教えてやった方がいいんじゃないか」
「んー……まあ、挨拶の所作とかなら覚えといて損はないか」
 クートの意見にマティアスは綺麗な黒髪を揺らして肩を竦める。
 彼らの話を聞きながら、美雨はクートの言った言葉に意識をやっていた。

―― 美陽も行ったんだ…… ――

 そのことに半分安堵し、そしてその倍、不安になった。
 クートの言う通り、国中、世界中から期待を込められていた美陽の時と今は全く違う。だからこそ王宮から呼ばれたのも意味が違うのではないだろうか、と訝しんでしまう。
 その時、ぽんっと頭の上に手が置かれた。見上げるとマティアスが柔く笑っている。心配ないよ、と言っているみたいだった。
「明日からの空いた時間で簡単な作法を教えてあげるね」
「お願いします」
 大きな手が優しく髪を梳くように頭を撫でる。それが昨夜のことを髣髴させ、美雨は恥ずかしくなって顔を伏せた。
「それじゃあ、これで決まりだ。とりあえず今日は夜まで休息としよう」
 マティアスは話を締めると静かに立ち上がった。そしてそのまま美雨が座っている椅子の背もたれに手を添える。
「部屋まで送るよ」
「あ、はい」
 促されて席を立つと、美雨は皆に向かって小さく会釈をし、彼と一緒に歩き出す。カヤも一緒に来るのかと思っていたら彼女はお茶の用意を、と言って美雨達から離れ、厨房へ向かって行った。
 昨日も舞が始まる夜半までゆっくりさせてもらっていたのに、今日もとなると幾分暇を持て余す。どうしようかと考えながら廊下を歩いていると、不意に彼の足がぴたりと止まった。
「どうかしたんですか?」
「少し散歩に行こうか。付き合ってくれる?」
「え?」
 答える間もなく、マティアスは美雨の手を引いて来た道を戻り始めた。途中、違う角を曲がり、上へと続く螺旋状の階段を上っていく。何階分上ったのだろうか、息が上がり始めた頃、ようやく彼の足が止まった。
 少し古びた扉の前に立ったマティアスは一度美雨の手を離し、両手でゆっくりとそれを押し開けた。






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