その日の夜明け、ふと目を覚ました美雨はむくりと体を起こした。風が強く吹き付けているのか、ガタガタと揺れる窓に雨が叩き付けられる音がする。
 そんな不協和音を奏でる雨音の中、鈴の音が聞こえた気がして辺りを見回してみたが、ランプの消えた部屋の中は真っ暗な闇が広がっているだけだ。
 気のせいか、と首を傾げた時、美雨の耳に再び音が飛び込んできた。

『――――――――』

 確かに聞こえた。今度は気のせいなんかじゃない。
 美雨はもう一度、部屋の中を見回した。けれどやはり何処にも何も見えない。
 頭の奥に響いてくる澄んだ音は、よく聞けば鈴の音ではなく誰かの声のようだった。ふとその声に聞き覚えがある、と感じたのと同時に美雨は思い出した。
 巫女になる為に初めて臨んだ清めの儀。その儀式が終わった後、祷り場を出る直前に自分だけが聞いた声。
 その声が今、再び聞こえている。それはとても大切な意味を持つように思えるのだが、どうしても言葉を言葉として理解出来ない。
 美雨の中に焦燥感が生まれた。
「誰?どこにいるの?」
 誰もいない虚空に向かって尋ねてみるが、切なくなるほど綺麗な声音が返って来るだけ。
「ねえ、答えて。誰なの?何て言ってるの?」


『―――――――い』


 言葉が、聞こえた気がした。




「……様、ミウ様」
 優しく揺り起こされ、美雨はハッと目を開けた。
「おはようございます、ミウ様。そろそろ朝食のお時間ですよ」
「………」
 ベッドから上体を起こした美雨は目の前にあるカヤの顔を見、それからぐるりと部屋の中に視線を巡らせた。

―― 夢……? ――

 目が覚めたと思ったのは気のせいだったのだろうか。だが、夢だと思うにはやけに生々しいというか、それほどに現実味があった。
 呆然と部屋を見回す美雨を不審に思ったのか、カヤが心配そうな顔をして覗き込んできた。
「ミウ様?お加減が悪いのですか?」
「え?あ、ううん……」
 自分でもよく分かっていないこの状況で上手く説明も出来ず、歯切れの悪い返事を返しながらふと思った。
 部屋の中を見回したあの時、カヤの姿はあっただろうか。
 暗くて気付かなかっただけなのかもしれないが、あの時自分が発した声はそれなりに大きかったと思うし、敏感な彼女が起きなかったというのも気にかかる。
「……あの、今朝方って」
「ああ、すごい雨風でしたわね」
 美雨の問いかけを勘違いしたカヤがため息交じりに言った。
 だが、その答えで彼女にはあの雨音は聞こえていて美雨の声は聞こえていなかった、ということが分かった。ならばやはりあれは夢だったのだろうか。
「もしかしてその所為であまり眠れなかったのですか?」
「あ、うん、少し」
 そう答えると、起こしてしまったことを悪く思っているのか、カヤが申し訳なさそうに眉を下げた。
「でしたらもう少しお休み下さいませ」
「大丈夫よ」
 そう言って首を振ると美雨はベッドから降りて鏡台に向った。まだ心配そうにしているカヤに少しだけ寝癖のついた髪を梳いてもらい、見てくれを整える間も美雨の頭の中では先ほどのことが思い返されていた。
 夢か、それともうつつか。
 ひどく曖昧なはずなのに、美雨の心にはあの時感じた焦燥感がはっきりと残っていた。それに喪失感も。

―― 何て言ってたんだろう…… ――

 最後に聞こえた言葉は記憶に留まっていない。けれど泣きたくなるほどの喪失感が胸を締めつけたのを覚えている。
 思い出しただけで苦しくなり、美雨はぎゅっと胸元を握り締めた。
「ミウ様?やはりお加減が……」
 髪を梳いてくれていた櫛が止まったことに気付いて前を見ると、鏡に映ったカヤが心配そうな表情でこちらを見ていた。美雨は慌てて握り締めていた手を離す。
「ごめんなさい、何でもないの」
「……何かあったらすぐに仰って下さいね?」
「ありがとう」
 身支度を整えた美雨は訳の分からない苦しさの答えを見出せないまま、カヤと共に食堂へ向かった。そこにはすでに四神官と、この神殿に仕える神官が数名顔を並べていた。
 すれ違う彼らと朝の挨拶を交しているとおもむろにレイリーが席を立ち、こちらへ近付いてきた。
「どうかしましたか?」
「え?」
 気遣わしげな表情で覗き込むようにして彼が問う。
「顔色があまり良くないようですが」
「あ……いえ…」
 皆に心配されるほど疲れた顔をしていたのだろうか、と美雨は思わず自分の頬を手で擦った。
 すると不意に目の前に影が落ち、顔を上げる間もなくコツン、と額にレイリーのそれがぶつかった。息がかかるほど近い距離にある端正な顔に、美雨は体を硬直させる。
「熱は……ないようですね」
 美雨の気など知らぬ様子でレイリーはホッとしたように額を離した。
「少し疲れが溜まったのでしょう。あとで薬湯を用意しておきますね」
「……はい」
 内心では非常に戸惑っているのだが、美雨の表情は相変わらずで、いつもと同じ冷静な風に見えた。
「それじゃあ今日は夜まで休んでいるといいよ」
 そう言って彼女の肩をさり気なく引き寄せたのはマティアスだった。奪うように優しく美雨を抱き寄せるその様子を見てレイリーが苦笑を浮かべた。
「でも街に行かないと」
「昨日も言ったでしょ?まずは私達で街の様子を見てくるから、安全を確認するまで君はここにいて。ね?」
 有無を言わさぬ笑みを浮かべるマティアスに、美雨はこくりと頷いた。
 それから朝食を摂り終えた美雨達は、神殿に残る者と街の様子を見に行く者で別れ、それぞれの時間を過ごすこととなった。




 見えない月が真上に上がる頃、深い鐘の音が神殿に鳴り響く。
 壁の要所要所にランプが下げられ、ゆらゆらと揺れる明かりが照らす廊下を美雨はトゥーレを先頭に四神官に囲まれながら歩いていた。
 薄暗いといってもそれほどではなく、今まで旅をしてきた中で見れば明るい方だ。他の神殿や礼拝堂と比べ、何処か俗っぽい雰囲気がするように思えるのはその所為だろうか。
「緊張してる?」
 美雨の手を取り、隣に並んで歩くマティアスの問いに彼女は小さく首を振った。本当は少し緊張しているのだが、それを口にはしたくない。
 すると彼の手がすっと伸び、頬に触れた。
「いつも通りで大丈夫だよ」
 その言葉に自分の虚栄が見透かされていることに気付き、美雨は恥ずかしくなって思わず視線を逸らした。錫杖を持った手に力が入り、シャラン、と音を立てる。
「こちらです」
 前を歩くトゥーレが足を止め、祷り場に到着したことを知らせる。扉の前に立っていた二人の神官が恭しく頭を下げ、それから重たい音を立てながらその扉を開いた。
 ゼノフィーダ神殿にも負けず劣らずの大きなステンドグラスを正面に据えた広い室内は一言でいえば豪奢だった。
 立派な女神像が置かれ、壁には無数のランプ。遠目では分かりにくいが、壁にも意匠が凝らしてあり、ここでもまた今までの神殿とはかなり趣が違うように思えた。
「巫女様、どうぞ中央へ」
 祷り場の中を眺めていた美雨はトゥーレの声にハッとし、祷り場の真ん中へ足を進めた。四神官は部屋の四隅へ、トゥーレは扉の前、つまり美雨の真後ろへと移動する。
 祷り場の中はシンと静まり返り、呼吸の音がやけに大きく聞こえる。美雨は一度大きく息を吸い込むと、手にしていた錫杖を打ち鳴らした。
 錫杖の涼やかな鈴の音が、あの時の声を思い起こす。

『――――――――』

 その言葉を覚えてもいないくせに胸が締め付けられ、涙が零れそうになる。
 大切な何かを失ったような、悲しくて、切なくて、狂おしいほどの喪失感が体中に広がっていく。

―― 舞に集中しなきゃ…… ――

 まずはいま目の前にあることを成し遂げなければならない。美雨は考えることを止めて心を落ち着かせると舞に意識を戻した。
 第二部とでもいうべきだろうか、いま舞っているのはティスカ神殿の時とは少し違った舞である。緊張をしている素振りなど一片も見せず、滑らかに、軽やかに美雨は舞った。
 その中で不思議な感覚を覚えていた。
 ティスカ神殿の時も感じていたことなのだが、それがより顕著に分かるようになっている。身の内側がじんわりと温かくなるような、何とも言えない感覚。きっとこれがこの地のセラがこの身に取り込まれているということなのだろう。
 温かな腕に抱かれているような心地の中、美雨は舞を締め括った。
 シャラン、と音を立てた錫杖の先についている石が淡く光を湛える。それと共鳴するように美雨に付けられた神具の石も光を放った。
 パラパラと散る光の欠片を見つめていると、先程の温かさが嘘のように体の芯がすっと冷えた。まるで自分の中の何かが溶け出しているみたいだ。
 今までの経験から次に起こり得る事柄に備えはしたが、やはり襲い掛かって来た倦怠感には抗えず、美雨は錫杖を支えにしたままズルズルと崩れ落ちた。
 床にへたり込む体を優しく支えられ、美雨は重たい瞼を開ける。儀式は上手くいったのか、それだけが気がかりだ。
 マティアスはそんな美雨の心を読んだように、優しい眼差しを向けて言った。
「心配しなくていいよ。今はゆっくりとお休み」
 マティアスのひんやりとした大きな手に目の前を塞がれ、その暗闇の中に美雨の意識は落ちていく。
 くたりとした彼女の肩をしっかりと支え、マティアスは膝裏に腕を差し込んでその体を軽々と抱き上げる。そして閉じられた美雨の眦にそっと口付けを落とした。






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