外に繋がっているとは思いもしなかったのだろう、開いた扉の隙間から吹き込んだ風に美雨の目が眇められた。
「おいで」
 マティアスは彼女の小さな白い手を引き、ゆっくりと扉の向こう側へ連れ出す。そこからさらに数段上がると大きな鐘が現れ、そしてその先、眼下に広がる景色に彼女の口から微かな声が漏れ聞こえた。
 手を繋いでいることも忘れているのか、美雨がふらりと足を一歩前に出す。
「あまり前に出ると危ないよ」
 風が強く、遮るものがあまりないので大人の男でも煽られることがたまにある。もちろん柵はついているが、古いものなのであまり体重はかけられない。
 しかし、その声も聞こえていないのか、美雨は左から右へゆっくりと顔を動かし、初めて見る景色を興味深そうに眺めている。普段とは違う少し子供っぽい様子に昨夜のことが思い出され、ふっと笑みを零した。
 あれほど頑なな娘が見せた一瞬の気の緩み。それは思いの外嬉しいものだった。思わずからかいたくなってしまったのも仕方がない。
 もしもあの時、カヤが戻って来なければ美雨はこの手に身を預けていただろうか、という考えが頭を過ったが、マティアスはすぐにそれを否定した。

―― あれは気が緩んだだけであって、気を許したわけじゃない ――

 儀式でセラを消費し、心身ともに少しだけ弱っていたところにたまたま自分がそばに居ただけだ。きっと他の誰かであっても同じようにしていただろう。
 そんなことを思いながら、まだ市街地を眺めている美雨を見やり、マティアスはその後ろ姿に声をかける。
「いい眺めだろう?」
 繋がれていない左手で風になびく髪を押さえながら美雨が振り向き、こくりと頷く。
「私のお気に入りの場所なんだ」
「……どうして私を?」
「どうしてだと思う?」
 質問に質問を返してにこりと微笑むと美雨は返答に困ったように少し視線を下げた。
 こうして彼女を度々困らせるのは別に意地悪をしているわけではなく、意図があってのことだ。それと気付かれないようにマティアスは美雨を言葉や態度で翻弄する。
 ふふっ、とマティアスの口元に違った笑みが乗った。
「神殿から出してあげられないお詫びだよ。外の空気に触れたいかなと思って。それにこうしてどんな街か分かるだけでも君の知識の足しになるし、巫女と土地を繋げることにもなるからね」
 そう言ってマティアスは視線を街に向けた。白を基調とした家々が広がる美しい街並みは、夏の太陽の下ではその光を受けてそれこそ眩しいくらいに輝く。
 見下ろすようにしていた視線を少しずつ上げ、その先に捉えたものにマティアスの眉が微かに顰められた。
「ミウ、向こう側のずっと奥にある建物、見える?」
 その方向を指差すと、美雨の視線がそちらに動いた。
「あの大きい建物ですか?」
「そう」
 遠近感で小さく見えるが、周りの建物から比べてみればその大きさは比較にならないのが分かる。
「あれが王宮だよ」
「あれが……」
 それまで興味深そうにしていた美雨の声がやや曇った気がした。風に撒かれる彼女の黒髪をそっと撫でつけ、マティアスはその横顔を覗き込んだ。
「ミウ、気が進まないのなら無理して行くことはないんだよ?」
「………」
「王命は巫女には通じない。ミウが嫌だと言うなら何をおいても私が断ってくる」
 美雨の頬を包むようにして手を添える。風に晒された頬は少しひんやりとしていた。
「ミウが望まないことは私も望まない」
 ハッとしたように美雨は息を呑み、それから一度視線を下げた。その瞬間、闇夜のような彼女の瞳がほんの少し揺らいだのをマティアスは見逃さなかった。
 だが、再び上がった彼女の視線に揺らぎはもうなく、今度は逸らすことなく真っ直ぐにマティアスの目を見据えてきた。
「自分に出来ることは何でもするって、巫女になる時に決めましたから。私が望むとか望まないとかは関係ないです」
「……ミウ…」
 きっぱりとした態度はまるでマティアスの心配を拒絶するかのようだ。二十歳にもなっていない娘が放つ人を寄せようとしない雰囲気。それがやけに悲しく感じられた。
「分かったよ。でも一つだけ約束して」
 諦めのため息を吐いたマティアスは美雨の目を見て言った。
「本当に嫌なことは嫌だと言って」
「………」
「いいね?」
 否と言わせぬように少し強く言葉を重ねると、答えに渋っていた美雨が小さく頷く。その様子を見てマティアスは思った。
 彼女は自分が傷付くことを厭わない人間だ、と。
 物事の全てを身の内に抱え込み、多少の無理を押しても自分一人で熟さなくてはいけないと思い込んでいる。そういう人間は総じて自分の傷に無頓着な者が多い。
 そうなるに至った経緯には元来の性質もあるだろうが、おそらくディオンの一件で知り得たあの "鍵" も関係しているのだろう。

―― 深追いすれば余計に閉ざされる、か…… ――

 マティアスは黒に近い彼女の瞳をじっと見つめ、ふっと表情を和らげた。美雨の心底を追及するには今はまだ時期尚早だと判断する。
「……ずいぶんと冷えてしまったね。そろそろ戻ろうか」
 頬から手を離し、いつもの笑みを口元に浮かべる。
 繋いでいた手を引き寄せて扉の方へ誘導すると、美雨は何も言わず素直についてきた。だがその顔は俯けられてしまっていて、彼女の表情を読むことは叶わなかった。




 巫女になると決めた時、覚悟を決めた。大変なことでも辛いことでもそれが自分に出来得ることなら何でもする、と。
 だからマティアスに言った通り、望むも望まないも関係ない。気が進まなかろうと嫌だろうと、必要なことならそれを熟すだけだ。
 望まないことでも少し我慢するだけで出来るのならすればいいし、それに伴う負荷は自分が背負えばいいだけ。この世界に来る前からもうずっとそうして生きてきたのだから、そのことに不満なんてない。
 それなのにその覚悟が少しだけ揺らいでしまった。

"ミウが望まないことは私も望まない"

 そう言った彼の真剣な眼差しが頭から離れてくれない。
 マティアスが言った言葉は自分が我慢をすることで彼に負荷がかかってしまうようにも聞こえる。自分の行動で誰かに迷惑をかけるのはそれこそ望むところではない。
 とはいえ、やれるはずのことをやらずに放り出すことも出来ない。

―― 考えれば考えるほど分からなくなってしまう…… ――

 口に運んだティーカップを両手で持ち直し、膝の上に置いた。その口元から小さなため息が零れ落ち、それを聞いたカヤが振り返った。
「どうかされましたか?」
「え、あ、ううん。何でもないの」
 そう言うとカヤは少しだけ寂しそうに笑んだ。
 彼女はいつもそうだった。美雨が何でもない、と言うとほんの少しだけ寂しそうに眉を下げて笑い、そうですか、とだけ答える。その表情を見るたび、申し訳なく思ってしまう。
 先ほどのマティアスの時もそうだ。余計な心配を掛けさせたくないという思いから出た言葉だったのに、どうして彼らはそんな風に寂しそうな顔をするのだろう。
 美雨にはそれが分からず、結局何も言えなくなって口を噤んだ。
 いつもこうして黙り込んでしまい、そしていつもそれを壊してくれるのはカヤだった。彼女は何事もなかったように微笑み、明るい声でその微妙な空気を取り払ってくれる。今のように。
「そういえば兄様とどちらに行かれていたのですか?」
「展望台……じゃなくて鐘塔、かな。大きな鐘があったから。散歩にって連れて行ってくれたの」
 見晴らしのいいあの場所には大きな鐘が吊るされていた。昨日、儀式の前に響いた鐘の音はあれだったのだろう。
「そうでしたか。お茶の用意をして戻ったら兄様もミウ様もいなかったので気になってしまって」
「ごめんなさい」
「いいえ、お気になさらないで下さい。どうせ兄様が無理を言ったのでしょうし」
 そう言ってカヤは屈託なく笑った。
「そんなことは……」
 ない、とも言えない。美雨の返事を聞く前にあの場所に連れて行かれたのは確かだ。だが気分転換になったのも確かである。
「この街の雰囲気もこの目で見られたし、連れて行って貰えてよかった」
 そう言い直すとカヤが再びにこりと笑った。
「そうですか」
「王宮も遠目にだけど見てきたわ」
 カヤも朝の話を聞いていたので、その流れで世間話程度に報告してみる。
「間近で見るときっと圧倒されますよ。中はとても煌びやかですし」
「行ったことがあるの?」
「ええ、随分前のことですけれど」
 ふうん、と相槌を打ちながら、美雨は内心で疑問を抱いた。
 王宮といえば非常に格式高いもので、それ故、その中に入れるのはそれに見合った位を持った極僅かの者だけ、というイメージがある。
 とすると、カヤも由緒ある家柄の出なのだろうか。普段は屈託ない笑顔でそばに居てくれているからあまり感じたことはないが、こうして思い返して見れば彼女の言葉遣いや所作は優雅で品がある。
 カヤが本当にいい所のお嬢様なのだとしたら、こんな風に世話をさせてしまっているのが忍びない。そんなことを思いながらじっとカヤの動きを見ていると、彼女が少しはにかんだように笑った。
「どうなさったのですか?そんなにじっと見られて」
「あ……ご、ごめん」
「いいのですけれど、なんだか少し恥ずかしくなってしまいましたわ」
 そう言って口元に手を当てて笑っているカヤを見て、本当に可愛らしい女性だ、と美雨は思った。
 以前、美陽と重なったように見えたのを思い出す。それはきっとこの笑顔の所為だ。自分にはない素直な笑顔を見せる彼女たちが眩しくて堪らない。
 無意識のうちに美雨は目を細めた。まるで太陽を目にした時のように眩しげに。






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