ティスカ神殿での七日間の舞は無事に終え、美雨達は翌一日を神殿内で静かに過ごした。
 力を使った後にやってくる倦怠感は相変わらず不思議なことに、しばらくすると何事もなかったかのように楽になった。それに一日何もせずにゆっくり休めたおかげで慣れない旅の疲れも出発の朝を迎えた頃にはすっかり軽くなっていた。
「巫女様、この先も道中お気を付けてお進み下さい。ご無事を祈っております」
「ありがとうございます。お世話になりました」
 ティスカ神殿に仕えている神官達が馬車に荷を積んでくれている間、美雨は見送りに出てきたアウリと挨拶を交わす。
「それにしても」
 ふと、アウリが思い出したように言った。彼の視線が少し離れた場所にいたディオンに行き、それからまた美雨に戻ってくる。その目は少し面白そうに笑んでいた。
「一度決めると梃子でも動かない頑固者も巫女様には敵わないようですな」
「え?」
「シーリアへ向かう、と昨夜、ディオンから聞きました」
 何のことかと思って首を傾げた美雨だったが、続くアウリの言葉でその意味に思い当たる。
 舞を終えたあの晩、ひどい倦怠感に襲われながら夢現の中でディオンと話したのは薄らと覚えている。だが、それは説得というには程遠く、自分の考えを押し付けるような形になってしまった。
 勢いだけで口にしたものの、ディオンにとってはさぞ迷惑な話だったのではないか、と改めて申し訳なくなってくる。
「私は何も……」
「いいえ、巫女様のお陰です。私がいくら言っても首を縦に振らなかったあの頑固者がようやく過去と向き合う気になったのですから」
「そう、でしょうか」
「ええ」
 自分が言ったからではなく、"巫女" が言ったから応じただけなのだ、と美雨は思う。だが、アウリはまだ自信なさ気な美雨にそう頷いて柔らかく微笑んでみせた。
「それにしても縁というのは不思議なものですな」
「縁?」
「ディオンがシーリアへ戻る為には前回の巡礼ではなく、いま、この時機にこの地へ来る必要があった。様々な縁が繋がり、導かれたのではないかと思うのですよ」
「………」
 ふと、アヴァードの言葉が思い出される。
 全ては必然、彼はそう言っていた。その言葉とアウリの言う "縁" とが同じものに思えた。
「巫女様」
 アウリの声で思考が遮られる。
「今回のこと、本当に感謝しております。あのままではディオンは後悔を重ねるばかりだった」
「………」
「あの子は本当に頑固で……そして優しい子ですから」
 そう語る彼の声はいつもより温かく感じられた。ディオンを案じているのがとてもよく分かる声だった。
「ディオンのこと、よろしく頼みます」
 アウリはそう言ってゆっくりと一礼をした。
 自分などに出来ることなどそう多くはないし、右も左も分からないこの世界で世話をかけるのは絶対に自分の方だ。だが、アウリのその雰囲気に呑まれ、美雨は小さく頷いていた。
「ミウ、そろそろ出発だ。準備はいいか?」
 その声に振り返ると後ろからディオンが近付いてきていた。
「はい」
 美雨が答えると、ディオンはアウリの方に視線をやった。
「ではアウリ様、行ってまいります」
 真っ直ぐにアウリと向き合い、ディオンは右手を胸に当てて目を閉じ、静かに深く一礼をする。

―― あ…… ――

 それを見ていたアウリの穏やかな笑みが一層深く、温かいものになったのをディオンのそばにいた美雨だけが気付いた。
「この旅路にレゼルの加護があらんことを」
 そう言ってアウリもまた礼を返し、馬車に乗り込む一行を送り出した。




 途中の街で一晩宿を借りた一行は翌日の昼前にはシーリアへ入り、国境越えから数時間、ようやくディオンの故郷へと辿り着いた。
 時折交す他愛のない会話以外は相変わらず静かな車内だった。ガタガタと揺れる車輪の音がやけにうるさく聞こえるくらいだ。
 窓の外の景色をちらりと見やり、ディオンは気付かれないように小さく息を吐いた。

―― 気が重いな…… ――

 美雨が望むことならば、と故郷へ来ることを決めたが、やはり気が進まないことには変わりない。が、そんなディオンの気など知らず、馬車はどんどん先へと進んでいく。
 しばらくして速度を落とし、ゆっくりと馬車が停止した。ディオンは外に降りると、中にいる美雨に向かって手を差し伸べ、彼女を降ろしてから次いでカヤも同じように降ろしてやった。
「一気に寒くなりましたね」
「ここはティスカ神殿よりも更に北だからね」
 カヤとマティアスの会話を聞くともなく聞きながら、ディオンは目の前にある少し古びた礼拝堂を見上げた。七歳の頃から十四歳でティスカ神殿に召し上げられるまで暮らしていた場所だ。それなりに郷愁のようなものはある。
 ディオンは軽く拳を作り、その扉を叩いた。ほどなくしてギィ、と軋んだ音を立てて開き、そこから顔を出した老齢の人物が驚いた表情を見せる。
「……これはまた随分と懐かしい顔だ」
 年老いてはいるが、皮肉っぽい口調は相変わらずなようだ。
「元気そうだな」
「ご無沙汰しています」
「それにしてもここに立ち寄るとは思わなかったぞ」
「……巫女の希望です。それより一晩、宿をお借りしていいですか」
「もちろんだとも」
 そう言うと老齢の神官は美雨の方へ向き直った。
「この田舎によくお出で下さった。歓迎致します、巫女様」
「お世話になります」
 美雨が礼儀正しく頭を下げた。相変わらず真面目な娘だ、と思わず笑みが零れる。
「立ち話もなんですな。どうぞ中へお入り下さい」
 その言葉に皆が中へ入ろうと歩き出す。が、ディオンはその場に立ち止まったまま、動かなかった。
「マティアス」
 呼ぶと彼は振り返り、ディオンが何かを言う前に頷いた。その顔に浮かぶ笑みにディオンにしては珍しく少し決まりの悪そうな表情を見せる。
「……すまない」
 シーリアへ来ると決めた時点で四神官にはある程度の説明をしておいた。それ故、今からしようとしていることの見当はついているのだろう、誰も何も言わなかった。
 ちらりと美雨の方を見やると、不意に彼女と視線がぶつかった。
 いつもと変わらない表情。だが、その中にほんの少し違うものが見えたように感じた。
 力を使った直後の朦朧とした意識の中で "会いに行って" と言っていたあの時程ではないが、やはり感情が見え隠れしている気がする。
「心配しなくとも大丈夫だ。ここまで来て逃げたりしない」
「………」
「行ってくる」
 そう言ってすれ違いざまに美雨の頭にポン、と手を置き、ディオンは外へと出て行った。
 神官達が厩舎へ連れて行こうとしている中から馬を一頭借り受け、その背に跨る。それからひとつ息を吐くとマントのフードを深く被り、馬の腹を蹴った。
 生家まではここから歩いて一時間ほどの距離だ。このまま速歩はやあしで進んでもそれほど時間はかからないだろう。
 景色が流れていく中、ふと、シーリアへ行くことをアウリに告げた時のことが思い出された。
「その目でしっかりと見てきなさい」
 ただ一言、彼はそう言った。
 何を、と言わずとも、そこに籠められている意味がディオンには分かった。
 今まで遠ざけてきたもの、拒絶し続けてきたもの、その全てから目を逸らさずに向き合って来い、と言っているのだ。
「……はい」
 ディオンが頷くとアウリは穏やかな笑みを浮かべて彼の肩をぽん、と叩いた。まるで父親が子供を勇気付けるような、そんな仕草だった。
 思えば親元から離された幼いディオンを誰よりも目にかけ、可愛がってくれたのは彼だった。時折、礼拝堂を訪れては様々なことを教えてくれた。四神殿へ召し上げてくれたのもまた彼であり、ディオンにとっては正に親のような存在であった。
 そのアウリにそこまで言われ、さらには美雨にも背中を押され、これ以上逃げ続けるわけにはいかない。
「………」
 ディオンは手綱を握る手に力を籠め、少しだけ速度を速めた。
 そして数十分後、一軒の家の前に辿り着いたディオンは手綱を引き、馬を止めた。
「……変わらないな…」
 馬上からじっと眺め、ぽつりと呟く。少し古びてはいるが、その佇まいは変わっていない。

―― もうここに来ることはないと思っていた…… ――

 捨てられた、という現実を突き付けられたあの日から、ここはすでに自分の家ではなくなっていた。こうして再びこの家の前にいることが不思議に思える。
 ちらりと見やると、レースのカーテンが引かれた窓からはランプの明かりが漏れていた。誰かしら中にいるのは確実だ。
「逃げないと言ってしまったからな」
 美雨に言った言葉を思い返し、ディオンはふっと息を吐いて腹を括った。
 軽い身のこなしで馬から降りると近くの柵に手綱を括り付け、玄関へ向かう。それから静かに扉を叩いた。






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