はい、と返事があった後、ゆっくりと扉が開いた。中から現れたディーニの目が驚きに丸くなる。
「兄さん!」
「突然すまない」
 絶対に会いに行かない、と言った手前、こうしてのこのこ現れるのはやはり少し気まずい。しかし、ディーニはそんなこと気にもせず、薄らと涙を浮かべながらひどく嬉しそうに微笑った。
「来てくれたんだね」
「ああ」
「とにかく中へ入って。母さん、今日は調子がいいみたいだから起きているよ」
「……ああ…」
 ディーニに急かされ、ディオンは家の中に足を踏み入れる。否応なしに高まる緊張感の中で、ふと懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
 子供の頃よりも小さく感じられる居間のそば、昔と変わらない場所に目的の部屋はあった。
「母さん、入るよ」
 声を掛けながらディーニが扉を開けるのを、ディオンはそこから一歩離れたところに立ったまま眺めた。
「誰か来ていたみたいだけど」
 中から聞こえた女性の声にドクン、と胸が音を立てる。少し弱々しげな声だったが、ディオンの胸中を乱すのには十分だった。
「うん……母さんが一番会いたかった人だよ」
 そう言ってディーニはちらりとこちらを見やり、それからすっと体をずらした。
 一度軽く目を瞑って心を落ち着かせ、ディオンは入口に立った。綺麗に整頓された部屋の真ん中にあるベッド、そしてその上にクッションにもたれながら体を起こしている女性の姿があった。
 二人の視線が混じる。
 時間が止まってしまったような沈黙が部屋を包んだ。
「……ディ…オン…?」
 まるで幻でも見ているかのようにディオンを見つめ、彼女はぽつりと名前を呟いた。
「……お久し振りです」
 何を言えばいいのか、ここに来るまでの間ずっと考えていた。こうして実際に会ってこの目で見るまで、どう思うか、何を思うか、正直不安だった。
 だが、記憶にあるよりも少し年老いた母を前に、ディオンの心の中は思いの外穏やかで、今はただそんな言葉だけがするりと口をついて出てきた。
「寝ていなくて大丈夫なんですか?」
 それに対する答えはなく、母の瞳には見る見るうちに涙が溢れ、やがてそのまま頬を伝って落ちた。言葉を詰まらせ、零れる嗚咽を手で押さえ、それでも止め処なく涙が零れ落ちていく。
「……泣かないで下さい」
 少し困ったように言うと彼女はこくこくと頷き、ようやく声を出した。
「こっちに来て……もっとよく顔を見せて…」
 掠れた声が懇願する。
 ディオンはゆっくりとベッドに近付き、彼女を上から見つめた。歳の所為か、病の所為か、痩せ細った肩が小さく震えている。
「ああ……本当にディオンなのね…」
「はい」
 真っ直ぐに母を見つめ、ディオンははっきりと頷いた。
 記憶にあるのは手を繋いで見上げる母の姿。それがいまはこうして彼女を見下ろしている。いつの間にかこんなにも時が流れていたのか、と改めて実感させられた。
「まさかあなたが来てくれるなんて……」
 そう言って母はグイッと涙を拭い、少し翳のある笑みを浮かべた。
「今まで元気で暮らしていた?怪我は?病気はしなかった?」
「はい」
「そう……あなたは昔から強い子だったものね」
 面影を探すようにディオンを見つめ、そして母はその視線を自分の手元に落とした。
「私達を……恨んでいるわよね…?」
「………」
「……ごめんなさい…」
 ディオンの沈黙をどう捉えたのか、母は納まったはずの涙をまた零して謝った。
 背を丸めながら泣く母の姿はより一層小さく見える。その姿を見ているうちに心の底にずっと在ったものが無意識のうちに口から言葉となって零れていた。
「俺は……必要のない存在でしたか」
 その言葉に母の濡れた瞳がハッとしたように見開かれた。
「ずっと、聞きたかった。ずっと……」
 そのまま口を噤んだディオンの手に不意に彼女の手が重なった。自分よりはるかに小さな手が包み込むように握り締める。
「ずっと……そんな風に思っていたの…?」
「………」
「そうよね……そう思って当然のことをあなたにしてしまったのね…」
 ディオンが黙っていると彼女は悲しげに目を伏せ、握った手にきゅっと力を籠めた。
「あなたには何の非もないわ。全部私が弱かった所為。必要じゃないなんて思ったこと……一度だってないわ」
 母は静かに、しかし力強くはっきりとそれを否定した。
「言い訳にしか聞こえないでしょうけど……あなたを預けたのは精神的に不安定になっていた私が落ち着くまでの一時のつもりだったの。碌な説明もなしに置いて行かれる子供の気持ちがどれほどのものか、分かっていなかった」
 静かな口調だが、それはまるで自分自身を罵倒しているようにも聞こえる。
「そして迎えに行こうとした時、不意に怖くなった。あなたにどんな目で見られるのかと思ったら怖くて……何度も行こうとしたけど、時が経つほど行き辛くなって……結局、迎えどころか会いにさえ行けなかった」
「………」
 細い手をきつく握り、嗚咽を堪えながら話し続ける彼女の言葉に偽りは見えない。ディオンはただ黙ってそれを聞いていた。
「許してなんて言わないわ。でも……これだけは信じて」
 それまで俯けられていた彼女の視線が真っ直ぐに向けられる。
「あなたを思い出さない日は一日だってなかった。どれだけ離れていてもあなたは私達の大切な……大切な息子よ」
 そう言って母は穏やかに微笑んだ。
 ずいぶんと頬は痩せ、さらには涙で濡れてしまっているけれど、その中にある笑みは昔と何一つ変わってはいない。優しい、母の笑顔。

―― ああ……そうか… ――

 それを見た瞬間、ディオンは全て理解した。
 あれほど頑なに拒絶していたのは理由を。触れたくない、思い出したくもない、と拒み続けていた理由を。
 恨んでいたからではない。ただ怖かったからだ。
 微笑みではなく、冷たい視線を向けられるのが怖かった。憎しみが生まれるのが怖かった。だからその笑顔を思い出すことも、会いに行くことも拒み続けてきたのだ。
 きっと母も同じだったのだろう。恨まれているのではないか、と怯え、自分の中の弱さに勝てず、罪悪感を抱えて生きてきた。
 そう気付いた時、心の底で澱んでいたものが流れるようにすうっと消えていった。
「……母さん…」
 知らずにぽつりと零れた言葉に、母は口元に手を当てて呟いた。
「まだ……そう呼んでくれるの?」
 ディオンはふっと小さく笑い、一言だけ答えた。泣きながら嬉しそうに微笑む母の手を優しく握り返しながら。




 机の上に本を広げて読む美雨の姿。だが、その背中を見るだけでもまったく集中していない様子が窺える。
 おそらくは出掛けて行ったディオンのことが気になって仕方ないのだろう、自分が部屋に入って来たことにさえ気が付かないほどぼんやりとしていた。
「気になる?」
「……っ…」
 美雨の息を呑む音が聞こえた。突然、耳元で声が聞こえれば驚いて当然だろうが、慌てて振り向く姿に思わず笑みが浮かんでしまう。
「珍しく随分ぼんやりとしていたね」
「そんなことは……」
 ない、とはいえないようだ。むしろ図星だろう。答えに窮する美雨を見て、マティアスは更に笑った。
「ディオンのことが気になるんだろう?」
「………」
「そこまで気にかけるのはディオンだから?それとも他の理由があってのことなのかな?」
 マティアスは少しだけ冗談めかして尋ねてみる。じっと答えを待っていると、美雨がようやく口を開いた。
「……私が言った事ですから……会いに行って、って…」
 そう言って視線を下げる美雨を見つめ、マティアスは顎に手を当てて考えた。
 ディオンからある程度のことは聞いていたのでそれくらいは既に察しがついている。しかし、人と距離を置こうとする節がある美雨がどうして今回のことには動いたのか。
 もちろんディオンの為というのもあるだろうが、ただ単にそれだけではないように思う。
 北の大陸に来てからというもの、常にディオンがそばにいた所為か、他の三人よりも少し慣れてきているようではある。だが、それでもやはり心までは許していないように見えた。
 その彼女がこれほど気にかけるのには理由があるはずだ、とマティアスは思った。そしてその理由こそが美雨の心底を知る鍵になるはずだ、と。
「そう。でも本当にそれだけ?」
 マティアスの問いに、美雨の視線がふと上がった。その瞳は不安気に揺れているようにも見える。
「……え…?」
「ディオンに何かを重ねているからじゃないのかい?いや、何か、じゃなくて誰か、かな」
 その言葉に美雨の肩がぴくりと動いた。

―― なるほどね…… ――

 どうやら鍵を見つけたようだ。まだ欠片ではあるが、間違いではないだろう。
 マティアスは美雨の周りの張りつめた空気を緩めるようにふっと柔らかく微笑った。
「君のことが知りたくて少し急いてしまった。ごめんね」
「………」
 無言のまま俯いた彼女の白い頬に手を伸ばし、指の背でそっと撫でる。驚いたのだろう、反射的に彼女の体が少し後ろに引いた。
「言いたくないのなら無理には聞かないよ。でも、不安に思うことがあるなら何でも言えばいい。その為に私達がそばにいることを覚えておいて」
 優しく、いつもより少しトーンの低い声で囁く。
「ああ、あとディオンのことは心配いらないよ。彼は約束はきっちり守る男だから。きっともうすぐ帰って来る」
「……はい…」
 子供をあやす様に頭を優しく撫でてやれば、彼女はようやく小さく頷いた。
「いい子だ」
 そう言ってマティアスはにこりと微笑み、美雨の滑らかな頬にそっと口付けた。






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