外の空気を吸って頭を冷やしたいが、さっきあんな話をしたばかりのディオンに頼むわけにもいかず、どうしようかと思っていたところにマティアスがやって来た。カヤに用があったらしい。
「あの……」
「ん?どうしたの?」
 用が終わって戻ろうとしたマティアスを呼び止めると、彼はいつもの笑みで振り返った。
「少し外に行きたいんですが……いいですか?」
「ああ、分かった。すぐに迎えに来るから少し待っていて」
 説教をくらったばかりで無理かと思ったが、拍子抜けするほどあっさりと許可された。一度部屋を出て行った彼が再度迎えに来てくれるまでにマントを羽織り準備をする。
 本当にすぐに戻って来たマティアスはすでにマントを身に着け、手にはランプが掲げられていた。
「どこに行きたいの?」
「裏の川辺に」
 希望の場所を言えばマティアスは笑みで了承の意を返す。
 畔へ辿り着いた美雨は足元に注意を払いながら昨日の場所を目指した。相変わらずの薄暗さではあるがやはり夜とは違い、まだ幾分も歩きやすい。
 その時、ふと視線をやった先に見知った人影があるのに気付いた。その人も美雨達に気付いたようで、こちらに向かって丁寧に頭を下げた。
 ちらりとマティアスを見上げると彼に背中をぽん、と押される。
「行っておいで。私はここにいるから」
 ディオンから昨夜のことはある程度聞いているのだろう、マティアスはそう言って少し離れた場所の木に寄り掛かった。美雨は小さく頷き、ディーニの元へと向かった。
「昨夜は申し訳ありませんでした。巫女様に頼み事をするなど分不相応ですよね」
 美雨が傍に来るなり、ディーニが項垂れるように頭を下げて言った。
「……いえ…」
「さっき兄に会えないかと神殿へ行ったのですが、案の定追い返されました」
「……そう、ですか」
「どうにかして母に会わせてやりたかったんですけど……俺、随分と嫌われているようですし…」
 ディーニは情けなく眉を下げ、自嘲するように笑った。
「あなたは……ディオンの事、慕ってるんですね」
 思わぬ問いにきょとんとしていたディーニだったが、すぐに相好を崩して頷いた。
「ええ、とても誇りに思っています」
「幼い頃以来、会っていないと聞きましたけど」
 なのにどうして、と瞳で訴えるとディーニは一瞬躊躇い、それからディオンより少し長い金髪をクシャリとかき上げた。
「……少しだけ昔の話をしてもいいですか?」
 美雨は逡巡した。きっとディオンの過去にも繋がる話だと思ったからだ。
 ディオンが触れたくない、触れて欲しくない、傷。
 さっき彼にきっぱりと拒絶を示されたばかりだ。これ以上、悪戯に彼の傷に触れてはいけない。それなのにどうして知りたいと思ってしまうのだろう。
 美雨はディーニの瞳を見て、静かに頷いた。




 ディーニが敷いてくれたハンカチの上に座ると、その隣に彼が腰を掛けた。
「巫女様は兄の過去について何か聞いていますか?」
「……少しだけ」
「兄が神殿に預けられていたというのも?」
 美雨は小さく頷いた。それを見てディーニは視線を美雨から外し、前を流れる川にやった。
「……俺は幼い頃、自分には兄弟は居ないのだと思っていました。両親も何も言わず、何の疑問も持たなかった」
 少し俯いているせいでディーニがいまどんな表情をしているのか見えない。美雨は静かに彼の話の続きを待った。
「ある時、偶然一枚の写真を見つけたんです。そこには自分とよく似た男の子が両親に挟まれるようにして写っていました。もちろん気になってすぐに尋ねました。すると母は随分と話すのを躊躇いながら、"あなたの兄よ" とだけ答えた。何も知らない子供だった自分は兄がいるという事実がただ嬉しくて……母が止めるのも聞かず、すぐに会いに行きました」
「……会えたんですか?」
「あの頃の兄はまだ一神官としてこの神殿に仕えていたのですが、俺は一目で分かりました。当時からすでに神殿一と評判の高かった兄は傍目で見ても凛としていて格好良かった。幼いながら憧れを抱きました。でも……」
 そこでディーニは言葉を詰まらせ、軽く息を吸ってからまた話を続けた。
「兄は俺に気付かなかった。すぐ側を通ったのに、見向きもしてくれなかった。悔しさと悲しさでいっぱいになった俺はそのまま逃げるようにして家に戻り、そこで初めてその理由を知りました。どうして兄の存在を隠していたのか、どうして会いに行くのを止めたのか……母は泣きながら教えてくれた」
「………」
「七つの時に捨てられた兄が、その当時の顔しか知らない弟に気付かなくて当たり前ですよね。自分に兄がいたということすら知らずに安穏と暮らしていた俺にはそれを責める権利なんてありません」
 ディーニの声に苦しげな色が混じったのに気付いていたが、美雨にはだた黙って話を聞くことしか出来なかった。
「色々な噂が聞こえてくるたび、俺は一人でここまで這い上がって来た兄にやはり憧れを抱きました。そして同時にいつも自分の情けなさを自覚させられた」
 隣に座るディーニの手が膝の上でぎゅっと握り締められる。
「いつか恥じない自分になれた時、会いに来ようと思っていましたが……まさかこんな風になるとは…」
 美雨が彼の方を見やると、整った眉を寄せて手元に視線を落とすディーニの姿が映った。

―― 違う…… ――

 先ほど別れ際に見たディオンの瞳が脳裏に浮かんだ。
 必要とされていない、なんて嘘だ。
 ディオンにはこんなにも慕ってくれる家族がいる。会いたい、と涙を流してくれる家族がいる。それを信じることが出来ないだけだ。
 他人が何を言っても彼はきっと頑なに否定するだろう。けれど、あれだけ他人の心の機微に聡い人が自分の心に嘘をついたままでいればいつか必ず後悔することになる。
 あの綺麗な瞳が歪められるのを見たくない、と思った。
「……連れて行きます」
「え?」
「ディオンを……あなた達の故郷に連れて行きます」
 突然言い出した事にディーニはひどく驚いた表情を見せたが、すぐに泣きそうな風貌に変わった。
「……ありがとう…ございます…!」
 ぎゅっと握られた手から彼の温度が伝わる。
 その温かさと力強さに、美雨の胸は小さく痛んだ。




 シャラン、シャラン。
 美雨が舞うたび涼やかな音が鳴り、袖や裾がふわりと揺れる。
 ディオンは他の三人と同じように祷り場の一角で胸に手を当てて祈りを捧げながら、その中心で舞う彼女の姿を目で追った。
 真っ白な巫女装束の所為なのか、それとも先刻の悲しげな瞳を見た所為なのか、今の美雨はあまりにも儚げに見えた。捉まえておかねば何処かへ消えて行ってしまいそうだ。
 シャン、と一際大きな音を立て、美雨が舞を締める。すると、彼女が身に着けている神具の石と錫杖の石が共鳴し合うように薄く輝き出し、そしてパッと弾けるように宙に散った。
 それを見上げていた美雨の体が不意にぐらりと傾ぐ。
 ディオンは反射的に美雨の元に駆け寄り、崩れ落ちるその前に彼女の体を抱き留めた。苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
「巫女様」
 傍に来たアウリが呼ぶと、美雨がぼんやりとした視線を向けた。
「この七日を以て、巫女様とこの北の大地はしかと繋がりました。これより先の地へ、どうぞお進み下さいませ」
「……はい…」
 掠れたか細い声で答え、そのまま美雨は眠るように気を失った。
 ディオンがその華奢な体を横抱きにすると、皆は来たときと同じようにアウリを先頭に列を成しながら祷り場を後にした。
 美雨の部屋に着いたディオンはベッドの上に彼女の体を横たえ、シーツをかけた。カヤは薬湯などの準備をするために先程部屋を出て行った。
 眠る美雨の肌はいつもより青白い。その頬にそっと指の背を滑らせると、不意に彼女の瞼がゆっくりと開いた。
「具合はどうだ?」
「………」
 ディオンの問いに美雨は答えず、少し虚ろな、しかし真っ直ぐな瞳が向けられた。
「どうした?」
「……会いに……行って…」
 小さな声が答えた。
 一瞬、何のことかと考え、すぐに思い当たる。
「俺は行かないと言った。そんなこと気にしなくていいから、もう少し眠れ」
 ディオンは小さい子供を諭すように彼女の頭を撫でながら出来るだけ優しく言った。だが、彼女は首を横に振るだけだった。
「ミウ」
 今度は少し強めの口調だったが、それでも美雨は目を逸らさなかった。
「……振り払われた手にもう一度触れるのは……きっと怖い…」
 その一言にグッと言葉が詰まった。
「……許せないかもしれないから……怖い…」
「………」
 美雨の真っ直ぐな眼差しに堪え切れずに視線を逸らそうとした時、彼女の手がそれを阻むようにディオンの服を掴んだ。
「私が口を出すべき事じゃないのは分かってる……でも…」
 ディオンはハッと息を呑んだ。そこにいたのが普段の冷静な美雨ではなく、泣きそうな子供のような顔をした彼女だった。
「会いたいって言ってくれてるのに……あなたには会いたいって言ってくれる家族がいるのに…」
 美雨の肩が小さく震えているのに気付いた。

―― どうして…… ――

 何故、ここまで必死になって家族と会わせようとしているのか分からなかった。最初はディーニに何か言われたのだろうと思っていたが、ただ絆されて世話を焼いている風にはとても見えない。
 心の中で呟いた問いに答えるように美雨は言った。
「……このまま嘘をつき続ければきっと……きっと後悔する……だから…」
 声は次第に小さくなって消え、美雨は再び眠りについた。
 自分の中にある迷いに美雨は気付いていたのか、それとも彼女が抱えている何かがそう言わせたのか、その心底は分からない。だが、ここまで言われて何も聞かなかったことには出来なかった。
 ディオンは静かに寝息を立てる美雨の髪を梳くようにして撫で、それからその耳元で小さく言った。
「……それがあなたの望みなら」






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