「昨夜はすまなかった」
 小さなテーブルに向かい合うように座っていたディオンがそう言って徐に頭を下げた。
「つい感情的になってあなたにひどいことを言った」
 何のことを言っているのか一瞬考えたが、"関係ない" と言われたことだろう、と思い当たる。だが事実、関係ないのに口を出した自分が悪いのだ。彼が謝る必要などない。
「……いえ…」
「余計なことに巻き込んだ上、みっともないところを見せてしまったな」
 苦々しそうに眉を寄せるディオンになんて言ったらいいのか分からず、美雨は黙って小さく首を横に振った。
 絡んだ視線の先にある彼の澄んだ緑の瞳が昨夜のディーニのそれと重なる。そんなことを考えている状況ではないのだが、良く似ている、と改めて思った。
「……前に少しだけ家族の話をしたのを覚えているか?」
 北の大陸へ渡る船上で本当に少しだったがそういった話をしたのを思い出し、こくりと頷いた。あの時ディオンはシーリアに家族がいるということ以外はひどく曖昧に答えただけだった。
「もう分かっていると思うが、昨日の男は俺の弟だ。といっても俺自身、あいつに会ったのは十数年振りだったから初めは気付かなかったが」
 その年数に内心で驚いた。
 美雨が知る限りでも神官というのは多忙そうではあるが、それでも故郷に帰る時間くらい融通出来たはずだ。それをしなかったのはやはりディオンと家族の間に何かしらの確執があるからなのだろう。
「会いに来たって……言ってましたね」
「ああ」
「……行かなくていいんですか…?」
 明確な言葉にせずに問うとディオンは一度口を閉ざし、それから小さな笑みを口元に作った。だが、そこにいつもの優しさはなく、まるで自嘲するような笑みだった。
「ああ」
「……どうして?今じゃなきゃダメなんでしょう?」
 昨夜の二人の会話から何となくだが事情は掴めていた。そしてここまで頑なに拒む理由、恐らくそれこそが彼にとって触れられたくない傷なのだろう。
 こんな風に誰かのことを気にして首を突っ込むような真似、いつもの美雨ならば考えられなかった。しかし、このことに関してはどうしても他人事のようには思えなかった。
 不意にレイリーの言葉が頭に浮かぶ。
 誰かが触れることで傷が癒えることもある、と彼は言っていた。別に自分に誰かの傷を癒すことが出来るだなんて自惚れたことは思ってはいない。
 だが、彼の抱える闇の中に見つけてしまった、痛み。それはひどく自分のものと似ていて、見なかったことには出来なかった。
 美雨はテーブルの下できゅっと手を握り、思い切って一歩を踏み切った。
「ディーニさん、私に言ったんです。"兄に会わせて欲しい" って。初対面の私にそんなことを頼むくらい、必死だったんじゃないんですか?」
「………」
「どんな事情があるのか私には分かりませんが、せめて一度」
「……捨てた子供が会いに来たところで何になる?」
 美雨の言葉を遮り、ディオンがぽつりと呟いた。その思い掛けない内容に言葉を失くす。
「……え…」
「俺はな、ミウ。親に捨てられた子だったんだ」
「捨てられた……?」
「今でこそ武の才として認められているが、最初からそうだった訳じゃない。幼い頃から並外れて力が強く、それを上手く制御出来なかった所為で俺はいつも揉め事の中心にいた。元より体の弱かった母にはさぞ心労だったことだろうし、父から疎ましく思われていたのも知っていた」
 一度そこで言葉を切ると、ディオンは昔を思い出すようにゆっくりと瞬きをした。
「それでも子供ながらに気を遣いながら何とかやっていたが、それも七歳の時までだ。俺はまだ三歳にもならなかった弟に誤って怪我をさせてしまったことがあった。幸い大事には至らなかったが……それがきっかけで俺は神殿に預けられることになった。それ以来、彼らは一度も会いに来ることはなかった。預けるという呈で厄介な子供を切り捨てたんだ」
 美雨は音を立てず、息を呑んだ。
 声を荒げることもなく、なんてこともないように淡々と話す彼を見ているのがどうしようもなく辛かった。
 痛くないはずがない。辛くないはずがない。
 それなのにディオンは顔色を変えず、ただ昔語りのように話を続けた。
「そうやって必要ないと放り出された子供が今更会いに行って何になる?」
 ディオンの言葉に美雨の心臓がドクンと嫌な音を立てた。

"必要ない"

 その言葉が美雨の胸に突き刺さる。
「でも……ディーニさんは "ずっと会いたがってた" って…」
「そんなのはあちらの勝手な言い分だ。俺には関係ない。それにミウも聞いていただろう?母は知らせなくていいと言っていた、と」
「……だけど…」
「これは俺の問題だ。あなたが気に掛ける必要などない」
 有無を言わせぬ強さにそれ以上、言葉が出て来なかった。
「とにかく余計な言い合いに巻き込んでしまった事、謝罪する。すまなかった」
 そう言って再度頭を深く下げ、それから静かに立ち上がった。
「……それと…」
 背を向けたまま、ディオンが言った。
「嫌な話を聞かせて悪かった。忘れてくれ」
 それだけ言って彼は部屋を出て行った。恐らく最後の一言はもう触れてくれるな、という意味だろう。
 すっと視線を下げた先に、一口も手を付けずに冷め切ってしまったティーカップが映る。

―― やっぱり触れるべきじゃなかった…… ――

 いつもは凛とした真っ直ぐな深緑の瞳は、今は何処か苦しげで見ているこちらが泣きたくなってしまうようだった。
 ディオンの痛みに一方的なシンパシーを感じ、知りたがった末がこれだ。ただ単に彼の傷を不必要に抉り、血を流させただけ。
 例え本当に彼の痛みが美雨のそれと似ていようと、その苦しみは本人にしか知りえない。他人である自分がとやかく言う問題ではない。
 だけど、最後に見た彼の瞳は何かを隠しているように思えた。
 まるで自分の心に嘘をついているように。




 どうしてあんな話を美雨に聞かせたのだ、とディオンは廊下を歩きながら内心で自分に毒づいた。
 本当に最初はただ昨夜のことを謝りに来ただけのはずだった。それなのにどうしてかいつの間にか余計なことまで、普段なら決して他人には話さないところまでペラペラと口にしていた。
 自分でも思い出したくないことを聞かされていい顔をする者はいないのに、何故あんな話をしてしまったのか。
 そしてその結果、美雨にいらぬ心配をかけさせた。自分が口を開くたび、彼女の顔が曇っていったのを思い出す。
 だが、彼女があんな表情をするのにはきっと心配以外にも何か理由があるのだろう、とも思う。その表情は昨夜、この頬を打った時の彼女のものと同じだったからだ。
 もしかすると自分の過去の話と美雨が心に抱える何かが重なったのかもしれない。
 不必要な話を持ち出して彼女を傷つけてしまったのではないか、と心配になる。美雨を不安にさせるな、とレイリーから言われたばかりだというのに、どうにも守れていないようだ。
「ディオン様」
 そんなことを考えながら歩いていると、不意に後ろから呼び止められた。振り返ると見知った神官が一人立っていた。
「何だ?」
「正門にディオン様の弟だと仰る方がお出でです」
「……引き取ってもらってくれ」
 そうではないかと予想はしていたが、間違っていなかったらしい。ディオンは小さなため息と共に言った。しかし、伝えに来た神官は少し眉を下げ、困ったようにディオンの顔を窺っている。
「他に何かあるのか?」
「聞き入れてくれるまで帰らない、と仰っておりまして……」
 やはりそうか、とディオンは半ば呆れたように息を吐く。それから神官に向かって言った。
「話は昨夜聞いた。もう話すことはない、と伝えておいてくれないか」
「分かりました。ではそのように伝えて参ります。ですが、あのご様子だと明日も来られそうですが…」
「………」
 ディオンの無言を神官はどう受け取ったのか、とりあえずは一礼をしてそのまま正門の方へと向かって行った。
 もう話すことなどない。会いには行かない。自分には関係のないことだ。
 そう割り切っているはずなのに胸の内は波打つようにざわめいている。鎮めようとしても全く鎮まる気配を見せない。
 こんな風に心を乱していては己の役目に差し支えが出てしまう。また先日みたいなことが起きた時、今度はあの程度の怪我で済まない可能性もある。

―― 落ち着け ――

 ディオンはそう自分に言い聞かせ、グッと掌を握り締めた。軽く目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
 いま、何を為すべきか。いま、何が一番大切か。
 脳裏に幼い頃の記憶がふっと過る。そしてそれと同時に美雨の姿が浮かんだ。

―― そうだ…… ――

 過去の感傷になど浸っている時ではない。
 いま、為すべきは彼女を護ること。いま、一番大切なのは巫女。
 他の事は全て、捨て置けばいい。






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