「話とは何でしょう」
「ディオン、お前の母君のことだ」
 アウリに呼び止められた瞬間から何か嫌な予感はしていたが、皆が退室した後に発せられた彼の第一声にそれが的中したことを知る。ディオンは気付かれないように微かに息を吐いた。
「先日、お前の弟がここへやって来てな。どうやら母君の具合が思わしくないようだ」
「……そうですか」
「それを伝えたくとも手紙すら受け取って貰えないからその術がない、と嘆いていたぞ。だから私のところに来たのだろうよ」
「………」
「お前がこの時期にここへ来たのもレゼルのお導きかもしれん。一度様子を見に帰っては」
「いえ、いいんです」
 元々乏しい表情が更に無くなり、ディオンはアウリの言葉を遮って素っ気なく答えた。
「ディオン」
 アウリがため息をつきながら窘めるような口調で彼を呼んだ。
「お前が拒みたい気持ちも分かる。だが、それほど頑なにならなくてもいいのではないか?母君は一度でいいからお前に会いたい、と言っているのだぞ」
 その台詞にディオンは思わずカッとなった。抑えていたものが一気に溢れ出してくる。
「はっ、今更会いたいなど……随分と勝手なことを言うのですね」
 吐き捨てるように言ったディオンに、アウリは悲しげな瞳を向けた。
「今だからこそ、なんじゃないかね。お前の気持ちを考えればこそ今まで言うことが出来ず……だがこのような状況になってせめて一目でも会いたいと願ったのだろうよ」
 諭すようなその言葉に一瞬詰まる。が、ディオンはグッと手を握り締め、変わらぬ答えを告げた。
「……例えそうだとしても、俺は会いに行くつもりなどありません」
「これを逃せばもう二度と会えなくなるかも知れんのだぞ」
「それが何だというのですか?俺は巫女の護衛として、四神官の一人としてここへ来たのです。為すべきは巫女を護ること。それ以外のことなど俺には関係ありません」
「………」
 これ以上言っても今は無駄だろうと悟ったのだろう、アウリは少し悲しげな顔をして口を閉ざした。
「話がそれだけならもう戻らせて頂いてよろしいでしょうか。巫女の様子が気になりますので」
「分かった。もう戻ってよい」
 ディオンはアウリの目を見ないようにしてすぐさま踵を返し、そのまま部屋の入口へと向かった。扉に手を掛けようとした時、後ろからアウリの声が追いかけて来た。
「ディオン」
 ドアノブに掛けた手がぴたりと止まる。
「母君の件、どうするかはお前に任せる。会いに行くも行かぬもお前の自由だ。だが、後悔してからでは遅いのだ、とそれだけは忘れるなよ」
「……失礼します」
 ディオンはアウリの言葉に答えず、何かを振り切るようにしてそのまま部屋を後にする。与えられた部屋に向かいながら沸々と心の中に湧き上がる感情に戸惑いと苛立ちを感じていた。

―― 今更……俺の知ったことか… ――

 頭の中でリフレインするアウリの声に、ディオンは苦々しく舌打ちした。彼に言われずとも頑なになっていることくらい承知している。
 いま会わなければもう二度と会うことが出来ないかもしれない、とそう言っていたことに間違いはないだろう。だがそれでも会いに行く気など一切なかった。

―― 今はミウのことだけ考えていればいい ――

 そう、それだけでいい。巫女を護り、世界に光を取り戻すことだけを考えていればいいのだ。それこそが四神官として一番重要なこと。それが全てだ。
 それ以外のことは全て些末な事柄に過ぎない。例えそれが己が母との永劫の別れだったとしても、だ。
 部屋の前に辿り着いたディオンは一度深く息を吐き出し、何事もなかったような表情を繕って扉を開けて中へ入っていった。




 翌日の午後、美雨は鏡台の前に座らされていた。
「せっかくのお顔見せですからね」
 そう言ってカヤは鼻歌でも歌い出しそうなほど楽しげに美雨の髪を梳いている。それに対して鏡に映る自分の顔は薄く化粧が施されているせいか、いつも以上に表情がなく見えた。
「それにしても本当に綺麗な御髪ですわね」
「そう?」
 確かにパーマやカラーは一度もしていないから傷んではいないと思うが、美雨にとってはただ真っ黒いだけで面白味もなにもない髪である。
「ええ、とても」
 カヤは鏡越しに微笑むと再び美雨の髪に視線を戻した。彼女の器用な手が少量の香油を塗って何度も丁寧に梳かし、それからサイドの髪をゆるく編み込んで後ろでまとめるのをじっと眺める。
 最後にいつもの髪飾りを付け、カヤが満足そうに微笑んだ。
「出来ましたわ」
「ありがとう」
 "清めの儀"の時に四神官とアヴァードから貰ったあの神具は言い付け通り、今も毎日身に着けている。すっかり、とまではいかなくとも大分見慣れてきた。
「では神官様達をお呼びして参りますね」
 そう言って扉へ向かう彼女の背中を何気なく見つめる。ただぼんやりと、本当に何も考えていなかった。
「……カヤ…」
「はい?」
 部屋を出ようとした彼女が振り向いた。と、同時に美雨はハッと我に返る。

―― 何で…… ――

 完全に無意識に呼び止めてしまっていた。それがどうしてなのか自分でもよく分からない。
「あ……ううん、なんでもない」
 言葉を濁せばカヤは不思議そうに首を傾げた。
「ミウ様?」
「本当に何でもないの。ごめんなさい、呼び止めたりして」
「……いえ。ではお呼びして参ります」
 少し寂しそうに眉を下げた彼女はそれ以上追及することはしなかった。今度こそその背を見送り、美雨は自分の言動を不可解に思いながら小さなため息を吐いた。




 それからすぐにカヤに呼ばれた四神官が揃って部屋を訪れ、美雨は彼らと共に神殿の入口へと向かうと、外には馬車ではなく、鞍を付けた馬が四頭用意されていた。
「歩いて行くには少し遠いからな。馬に乗ったことは?」
 ディオンが馬の手綱を取りながらそう言った。
「ありません」
 向こうで馬に乗ることなど普通の生活をしていればほとんどの人がないだろう。あっても体験乗馬くらいなものだ。
「そうか。ではこちらにおいで」
 するとディオンはさも当たり前のような口調でそう言って美雨に向かって腕を広げた。
「え?」
 突然のことに驚いて問い返すと、彼は腕を広げたまま少し首を傾げた。
「どうした?早くおいで」
 広げられた腕の意味が分からず、美雨が戸惑ったように視線をディオンの顔と手を行き来させる。すると、ようやく美雨の戸惑いに気付いたのか、ディオンが説明を付け加えた。
「抱き上げないとあなた一人では馬の背に乗れないだろう」
「あ……」
 そういうことか、と納得は出来たが、抱き上げてもらうのにはやはり抵抗がある。迷っているうちにディオンが近付き、美雨の体をひょい、と持ち上げた。
「きゃっ」
 反射的に小さな悲鳴が上がる。が、ディオンは気にした様子もなく彼女をそのまま軽々と馬の背に乗せた。馬上は思った以上に高く、美雨は思わず鞍にしがみ付いた。
「大丈夫、こちらに背を預けて」
 すぐにディオンが後ろに跨り、彼女の細い腰をぐい、と引き寄せる。
「体の力を抜くんだ。疲れてしまうぞ」
「は、はい」
 そうは言ってもこんな状態で力を抜けというのが無理なのだ。初めての乗馬な上、こうも密着されては気が気ではない。
「大丈夫かい?」
 横から声が聞こえ、そちらを振り返ると同じようにカヤを乗せたマティアスがにこりと微笑んでいた。
「準備出来たよ、ディオン」
「ああ、では行こう」
 クートを先頭に、美雨とディオン、カヤとマティアス、そしてレイリーの順でゆっくりと進み始めた。
「不安か?」
 進み始めて少し経った頃、不意にディオンが尋ねた。その問いに美雨はああ、と一人納得する。
 さっき、どうしてカヤを呼び止めてしまったのか。その答えはいまディオンが言ったことそのもの。不安だったのだ。
 初めて民の目に晒されることに対し、緊張感が高まるのは当たり前だろう。しかもラーグは双子を禁忌とする世界。カヤですら初めて会った時は怯えた表情を見せたのに、そんな意識を当たり前として持っている民がこの姿を見たらどう思うのか、それを考えるとどうしても悪いことしか思い浮かばなかった。
 だから彼女が背を向けた時、それが拒絶される未来を思い起こさせ、思わず呼び止めてしまったのかもしれない。
「そう……かも、しれません」
「あれこれ考えることはない。あなたはレゼルがそれと認めた巫女。胸を張っていればいい」
 ぽん、と頭の上に大きな手が乗った。緊張を解そうとしてくれているのか、その声はいつもより優しげに聞こえた。
「……はい…」
 その言葉に少しだけ安堵し、美雨は小さく頷く。それからひとつ深呼吸をしてみるとざわいていた心は落ち着きを見せ、ようやく周りの景色を目にする余裕が生まれた。
 遠目に見えていた街が近付き、一行はその中へ入っていく。美雨は小さく左右に視線を巡らせ、街の様子を見やった。
 石畳で出来ている道の両端には煉瓦や漆喰のようなもので出来た家々が建ち並んでおり、そしてある程度の間隔を空けてガス灯のようなランプが灯されていた。本来ならばこんな時間に点いているはずはないのだが、陽の光がない今はほぼ一日中点灯されているのだろう。
 もちろん草木は力なく項垂れ、花などひとつも見当たらなかった。そして何より、ここに来るまでの間、街の人の姿を見ていない。
「………」

―― これが……この世界の現実…… ――

 話しは色々と聞いていたけれど、実際に自分の目で見るのとはやはり違う。堅牢な神殿の外に出て初めて目の当たりにするそれに、美雨は少なからず衝撃を受けた。
 その時、不意に小さな声が聞こえた。
「……巫女様…?」
 声のする方に視線をやると、呆然と立ち尽くす一人の女性と目が合った。
「…………どうして……」
 期待に満ちていた瞳が一瞬にして違うものへと変貌する。だがそれは美雨が予想していたものとは少し違い、彼女は戸惑いを隠せなかった。






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