「美雨、美陽、朝よー。起きなさい」
 朝から元気な母の声が聞こえる。すでに起きて着替えを済ませていた美雨は部屋の扉を開けて廊下に出た。
 隣からガチャッと音が聞こえ、そちらを見れば美陽も同じタイミングで部屋から出てきたらしかった。眠たそうに目を擦りながら少しクセのついた髪を押さえている。
「おはよー、美雨」
「おはよう」
 まだ少し寝ぼけたような声の美陽と違い、美雨ははっきりとした声で答える。
「相変わらず早いね、美雨」
「美陽が遅いだけでしょ」
 ふにゃっと笑いながら言う妹に向かって美雨は淡々と返す。その言葉にぶうっと頬を膨らませる彼女はまるで小さな子供のようだ。
「あ、ねえ美雨、今日は一限から?」
「うん」
「駅まで一緒に行こうっと」
「それじゃ早すぎるんじゃない?」
 美雨の通う大学は家から一時間半ほどかかるが、美陽の大学は四十分程度だ。美雨に合わせて出ればかなり早くなってしまうだろう。
 そう思って言った言葉は美陽の笑顔で見事に却下された。
「いいの。最近美雨と一緒に通学してなかったからさ。久々にねー」
「まあいいけど。あ、遅かったら置いてくよ」
「急ぐから!もう、冷たいなあ」
 そう言って美陽は笑った。その笑顔につられて美雨も唇の端を少しだけ持ち上げた。
 いつもと変わりのない朝の光景。この当たり前の日常が突然変わってしまうなど考えたこともなかった。
 母の用意した朝食を食べ、二人で駅に向かう。高校を卒業した二人は別々の大学へと進み、それぞれの道を歩み始めたばかりだった。
「美雨さー、大学楽しい?」
 駅までの道の途中、他愛ない会話の途中で美陽が聞いてきた。
「それなりに、かな」
「そっか。じゃあさ、好きな人とかは出来た?」
「またそれ?何回も言ってるけど、そういうのいらないんだってば」
 美雨は以前から度々出ていたその質問にまたか、と半ば呆れたような声で答えた。
「いいなあとか思う人いないの?」
「いません」
「もったいない。美雨、美人なのに」
「なに言ってんのよ。同じ顔して」
 素っ気なく返すと美陽はくすくすと笑った。そんな彼女に向かって今度は美陽が質問した。
「……美陽は楽しい?」
「うん、楽しいよ。サークルにも入ったから知り合いもたくさん増えたし」
 考える素振りもなく答える彼女は本当に楽しそうだった。
 それを美雨は眩しいものを見るかのように目を細めて見つめていた。自分には到底出来ないことをいとも簡単にやってのける美陽が羨ましく、そして誇らしかった。
「あれ、美雨の乗る電車来ちゃうんじゃない?」
 その声にハッとして改札の上の電光掲示板を見れば、まさにもうすぐ来るところだった。
「ごめん、先に行くね」
「うん、じゃあね」
 そう言って笑顔で手を振る美陽に頷くと、美雨はくるりと背を向け、ホームへと急いだ。




 大学生活は気楽なものだった。広い敷地内ではひとりで過ごせるスペースがたくさんあったし、何よりも高校時代の顔見知りがほとんどいなかったからだ。
 美雨の通う大学はランクの高い名門で、彼女達の通っていた高校からは毎年数名しか合格しない。見事受かった美雨は相変わらず誰も寄せ付けようとはせず、ひとり気ままなキャンパスライフを送っていた。
 四限目が終わり、今日の講義はもう残っていなかったが調べ物をするために美雨は図書室に残っていた。
 しばらく本を広げていた彼女だったが、マナーモードにしておいた携帯がカバンの中で鳴っているのに気が付き、手に取った。
 液晶画面に表示されている文字を見て美雨は席を立った。人もまばらとはいえ、さすがに図書室内で通話するのは気が引けて室外に出てから通話ボタンを押す。
「もしもし」
 温度を感じさせない淡白な声。それとは全く正反対の混乱しきった小さな声が耳元で聞こえた。
「美雨……美陽が……」
「お母さん?」
「……美陽が…」
「どうしたの?美陽が何?」
 掠れた声で同じ言葉を繰り返す母に、様子がおかしいと気付いた美雨は先を促すように問いかけた。
「美陽が……事故に……」
「え……」
 予想もしていなかった答えにさすがの美雨も頭が回らなかった。一瞬真っ白になった頭の中に、とにかく美陽の元に行かなくては、とそれだけが駆け巡る。
「お母さん!いま病院なの?!」
「……美陽…」
「お母さん!!」
 美雨は普段出すことのない大声を出した。パニックに陥っている母からなんとか病院の名前を聞き出すと一目散に外に飛び出す。
 タクシーに乗り込んでからようやく雨が降っていたことに気付き、自分を見下ろした。すでに髪も服も濡れてしまっていたけれど、そんなことを気にしている状況ではない。
 だが、焦る美雨の心とは裏腹に、帰宅ラッシュで混雑している道では思うように車が進まない。病院に駆けつけた時には、すでに陽は落ちてしまっていた。
 受付で病室の番号を聞くと駆け足でそこへ向かった。病院特有の消毒液の匂いがやけに鼻につく。
 白い扉を横に開き、最初に飛び込んできたのは父の背中だった。ベッドの前で泣き崩れる母を支えるように、父はその肩に手を添えている。
 そしてゆっくりとその視線をベッドへと向けると、美陽の姿がそこにあった。
 いつもの桜色の頬は見る影もなく、蝋のように青白い顔には酸素マスクが付けられ、華奢な細い腕からは点滴のチューブが伸びている。頬にはガーゼが貼ってあり、ゆるくパーマがかかっている頭には包帯が巻いてあった。
「……美陽…」
 美陽の痛々しい姿に美雨はただ呆然としていた。
 しばらく身動きもせず見つめていたが、絞り出すような母の悲痛な泣き声が耳に届き、ようやく我に返った。少しでも母を落ち着かせてあげなくては、と美雨はベッドに伏せて泣いている背中に近付いた。
「……お母さ…」
 父がしていたように震える肩に手を添えたその刹那――――――。
 パンッと小さな音が病室に響いた。
 振り払われた手。
 美雨はそれを温度を感じさせない瞳で見下ろした。痛みのないその衝撃は緩やかに、しかし確実に美雨の心を打ち付けた。
 そしてそれは美雨の小さな世界を壊すには十分だった。
 母の行動をたしなめるような父の声が聞こえたような気がしたが、美雨はそのまま黙って彼らに背を向けると、いま走って来たばかりの廊下を歩いて戻っていった。
 エレベーターホールの横にある待合室。そこの長椅子に座り、手のひらをじっと見つめた。

"大丈夫だよ"

 母の肩に手を添えた時、美雨はそう続けようとしていた。
 美陽のように振る舞うことは出来ないが、せめて少しでも元気付けてあげたい、と思った。彼女が目覚めるまでは代わりに側にいて支えなくては、と。
 しかし、母はその手を振り払った。
 気が動転していたとか、周りが見えていなかったとか、もっともらしい言葉で自分を慰めることはいくらでも出来る。だけど美雨にはそれをする気にはもうなれなかった。
 幼い頃から明るくて素直な美陽。彼女の代わりなど所詮お前では出来やしないのだ、と無言で言われたようだった。
 美雨は自嘲するようにふっと笑って手のひらを握った。
 何故だろう、振り払われた手に悲しいとか、辛いとか、そういう感情は湧いてこない。"ああ、やっぱり" その程度だった。
 美雨の脳裏に "じゃあね" と笑いながら手を振っていた美陽の姿が浮かび上がる。
 彼女がいなければ、と思ったことはあった。だけど本当にいなくなって欲しいなんて願ったことは一度もない。
 どうして美陽だったのだろう。

―― 私が事故に遭えばよかったのに…… ――

 心の底からそう思った。
 自分ならばいなくなったところで悲しむ人はきっといない。父も母も "美陽" の存在が必要なのだ。
 "美雨" ではなく――――――。
 ゆっくりと天井を仰ぎ、美雨は静かに瞳を閉じた。




 時間をおいてから再び病室に戻ると、母は美陽の手を取って懸命に彼女に語りかけていた。まるで映画のワンシーンのような光景を黙って見ていた美雨の隣にいつの間にか父が立っていた。
「さっきは母さんも取り乱していたから……」
 手を振り払ったことを言っているのだろう。美雨は前を向いたままで口を開いた。
「分かってる。お父さん、そんなことより美陽の容体は?」
 淡々と答える美雨に困ったような瞳を向けるが、ため息を吐くと沈んだ声で答えた。
「一命は取り留めたよ。数日もすれば一般病室に移れるそうだ……だが…」
 美雨は黙って言葉の続きを待った。
「いつ目覚めるか分からないらしい。明日になるか、半年、一年……もっと長くなるか……」
「……そう…」
 父の言葉を静かに受け止めると、美雨は足音も立てずに美陽が眠るベッドに近付いた。
「美陽」
 声をかけても全く反応がない。シューシューと酸素マスクから漏れる音が耳に障る。
「美陽」
 鏡を見ているようにそっくりな双子の妹。
 いつも朗らかに笑っていた彼女は瞳を開くことはなく、気付けば美雨の頬には零れた涙が透明な跡を残していた。
「……美陽……っ…」
 自分では両親を元気付けることなど出来ない。美陽の代わりになることなど出来ない。

―― 起きてよ…… ――

 美雨は心の中で語りかけながら、美陽の手をぎゅっと握りしめた。






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