『みはるはどうしてみはるっていうの?』
『美陽が生まれ時、お日様がキラキラ照っていたの。それでそのお日様みたいになって欲しいって思いを込めて "美しい陽" って付けたのよ』
『じゃあ、みうは?』
『美雨の時は晴れた空に雨が降ってたのよ。すごく綺麗だったってパパが感動してたわ。あの雨みたいに清らかに育つようにって思いを込めて "美しい雨" にしたのよ』

 幼い頃、母の腕の中で聞いた言葉が何故か頭に浮かぶ。
 それを振り払うように美雨は小さく頭を振ってから空を見上げた。
 分厚い雲で覆われているように暗い空には一筋の光も見えない。その薄暗い空に向かい、美雨は祈るように瞳を閉じた。
 しばらくしてそっと目を開けるが、その瞳に映るのは何も変わることのない灰色の空だった。

"仕方ない"

 小さな頃から呪文のように唱えていた言葉。
 それを口の中で呟くと、美雨は泣くように笑った。
 どこにいてもどの世界にいても所詮自分の居場所などないのだ――――――と。





日向雨





「美雨ー、帰ろー」
 人のまばらになった教室の中に元気な声が響き渡る。美雨と呼ばれた少女はゆっくりとその声のほうを振り向いた。
「まだ帰る準備出来てないの?」
「先生から資料の整理を頼まれてたから。美陽、先に帰ってていいよ」
 それに答える美雨の声は、同じ声質だがその温度は大分違う。
「待ってるから一緒に帰ろ」
「……分かった。少し待ってて」
 美雨はそう言うと支度をする手を少しだけ速めた。
 十八年前、美雨と美陽は一般的な家庭の一般的な親から双子としてこの世に生まれ落ちた。特別美人というわけではないが、目鼻立ちの整った顔は十分に綺麗と呼ばれる部類に入るであろう。
 鏡のようにそっくりな二人。しかし二人の纏う雰囲気はまるで違っていた。
 幼い頃から明るく人懐っこい性格で誰からも好かれ、可愛がられてきた美陽。
 それに引き替え、感情を上手く表に出せず、何を考えているのか分からない、と両親からも持て余されてきた美雨。
 それでも幼い頃は妹のように愛されたいと懸命に勉強に励み、スポーツをこなして絵にかいたような優等生を演じてきた。けれど美雨に向けられるのはいつも困ったような微笑みだった。
 いつの頃からか美雨は自分にそっくりな、けれど自分とはまるで違う妹・美陽に憧れとコンプレックスを抱えるようになっていた。
 まるで光と影のようだ、と美雨はいつも思っていた。
 同じ形でも持っているものが違いすぎる。どれほど望んでも、どれほど羨んでも、影が光に敵うはずがない。
 そのことに気付いた時、美雨は諦めることを知った。そして事あるごとに呪文のような言葉を自分に言い聞かせ続けた。
 仕方がない――――――と。
「あ、美陽!やっぱりここにいた!」
 手だけを動かしながらぼんやりとしていた美雨は勢いのいい声にハッと我に返った。
「千佳ちゃん、どうしたの?」
 どうやら美陽のクラスメイトらしい。美雨はちらっとそちらを見ただけですぐに手元に視線を戻す。
「三組の男子が呼んでたよ」
 その言葉に美陽は困ったように眉を下げた。
「えー……美雨、代わりに行ってきてくれない?」
「そんなの無理に決まってるでしょ」
 トーンの落ちた声で無茶なことを言い出す美陽に向かって美雨は淡々と拒否の言葉を返す。
 普通の双子ならばそれも可能かもしれないが、二人の場合は確実に無理だった。外見はそっくりとはいえ、醸し出す雰囲気が180度違う二人は同じ高校に通っていてもお互いと間違えられることなどまずなかったからだ。
「だよね。分かった、行ってくる。でも戻ってくるまで待っててね」
「はいはい」
 渋々、といった様子で教室から出ていく美陽の背中を見送る。
「え……と、じゃあ私は帰るね」
 躊躇いがちに聞こえてきた声はひどくよそよそしい。美雨が声の主に視線を送ると、彼女は曖昧な笑顔を浮かべて美陽の背を追うようにして教室から出て行った。
 いつもと同じ光景に美雨は小さくため息を吐いた。
 美陽にはきゃっきゃと話しかける彼女たちも美雨にはどことなく距離を置いてあまり近付いてくることはない。美雨から彼女たちに歩み寄ることもまた然りだった。
 いつからこんな風になったのだろう、と美雨はふと頭の中で思い返してみた。
 今まで友達と呼べる者がいなかった訳ではない。けれど気付けば美雨はいつもひとりだった。
 やっと出来たと思った友達も、さらには付き合っていた恋人すらも美陽の存在を知れば美雨の元から離れていった。

"妹は素直なのに"
"少しは見習ったらどうだ"
"美陽ちゃんとは全然違うよね"

 彼らが離れるたびに聞こえてくる言葉の数々。それでも顔色の変わらない美雨を可愛げがない、と口々に言った。
 表面上では変わらないように見える美雨だったが、その言葉たちは小さく積み重なっていき、密やかに彼女自身も知らぬ間にその心を侵蝕していった。
 そして美雨は特別な誰かを作ろうとはしなくなった。
 友人も、恋人も、自分の心の中に誰かが入ろうとするのを頑なに拒んだ。

"美陽さえいなければ"

 何度そう思ったことがあっただろうか。
 けれど、やはり血を分けた、母のお腹の中にいるときからずっと一緒だった美陽を嫌うことなど出来なかった。

―― 考えたところで今更…… ――

 思い出すことを放棄して美雨は椅子に座ると頬杖をついて窓の外を見やった。夏の終わりを告げるような夕日の色をただじっと眺め続けた。
 しばらくしてパタパタと近付いてくる足音を耳に拾うと、予想に違わず美陽が教室へと入ってきた。
「ごめん、お待たせ」
「もういいの?」
「うん」
 少し困ったように笑いながら美陽は微笑んだ。時たま見るその表情に、美雨は心当たりがあった。
「告白でもされた?」
「まあ、そんなとこ」
 言わずもがな男子から人気のある美陽は告白されることもままあった。しかし、当の本人はまだ誰かと付き合うことを考えていないらしく、断り続けていた。
「相変わらずモテるね」
「そんなことないよ。美雨のほうが頭も良くてスポーツも出来るのに、みんな見る目ないよね」
「それだけしか取り柄ないじゃない。みんな見る目あるわ」
「えー」
 美陽は美雨の言葉にあからさまな不服の声を上げた。
「だって美雨は自慢のお姉ちゃんなのに」
「……ほら、帰ろう」
 その言葉には何も答えず、美雨は立ち上がると鞄を持って教室の出入り口に向かって歩き出した。
「あ、ちょっと待ってよ」
 そう言って慌てて後をついてくる美陽の姿をちらりと横目で見る。

―― 自慢のお姉ちゃん……か ――

 それは逆だ、と美雨は思った。誰の目から見ても可愛く人当たりのいい、自慢の妹。
「美雨は好きな人とかいないの?」
 ぼんやりとさっきの言葉を思い返していると、美陽が唐突に聞いてきた。彼女のほうを振り向いて、美雨は淡々とした口調で答える。
「いないよ」
「ほんとに?」
 そう言って覗き込むような仕草はどこか小悪魔的で、男子達が彼女に惚れるのももっともだ、と頭の隅で思う。
「いたとしても相手が迷惑でしょ」
「なんでそういうこと言うかな……そういうとこ直したほうがいいよ」
 呆れたような口調の美陽に美雨は首を傾げた。
「そういうとこ?」
「やっぱ分かってないんだ。ま、自分で気付きなさい」
 美陽は楽しそうにそう言って笑った。そんな彼女をちらっと見てすぐに視線を外すと、美雨は空を見上げた。
「美陽はさ……」
「んー?」
 間延びした声で返事をする彼女に美雨は小さく首を振った。
「……何でもない」
 その言葉に美陽は変なの、と言って笑った。
「早く帰ろ」
 そう言って美陽が子供のように手を差し出す。彼女の笑顔に眩しそうに目を細めてから美雨はその手を取った。
「うん」
 オレンジ色の夕日が二人の影をアスファルトの地面に映し出していた。




 憧れとコンプレックス、それが混ざり合って出来た感情をなんと言えばいいのか分からないが、それでも美雨の中に残っていたのは両親と、そして美陽。
 誰かが入ることを許さず、全てを頑なに拒み続けた美雨の小さな小さな世界。
 その世界から残っていた唯一のものが消え、孤独だけが彼女の全てになったのは大学に入った年の秋だった。






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