美陽が事故に遭ってから二ヶ月後、美雨は一時間半かけて通っていた大学の近くにアパートを借り、一人暮らしを始めた。通学が大変だから、と両親に伝えたが、それは表向きの理由であって本当はそうではなかった。
 あの日から母の自分への態度はどこかよそよそしく、そしてどこか気を遣っているような雰囲気があった。
 手を振り払ったことに対しての罪悪感からなのか、それとも美陽と同じ顔を見るのが辛いのか、それは測りかねるところではあるが、そんな家の空気は美雨には居心地が悪すぎた。
 美雨の本音を知ってか知らずか、一人暮らしをしたいと切り出したときのほんの少し安堵したような母の表情を思い出す。
 エントランスの自動ドアをくぐり、歩き慣れた白いリノリウムの床に足音を響かせながら美雨は病室へ向かった。ノックをしてから白い引き戸に手をかけて横に引く。
「今日は顔色がいいね」
 美雨はベッドに近寄ると、目の前に横たわる美陽に話しかけた。
 こうして見るとやはりただ眠っているようにしか見えない。だが、彼女が目を覚ますことは一度もないまま、一年と少しの月日が流れていた。
「お母さんたちも来てたのかな。お花が新しい」
 一人暮らしを始めてから両親に会ったのは数回だった。実家に帰ることはほとんどなく、また彼らから訪ねて来ることもなかった。
 ただ、美陽が眠る病院には足を向けた。空いている時間はバイトを入れている美雨だったが、たとえ少しの時間であっても週に一度は必ず彼女に会いに行った。
 元気に笑っていた頃より少し細くなった美陽の手を握る。彼女が握り返してくることは今日もなかった。その指先を見て美雨はふと思い出したように口を開いた。
「あ、そうだ。美陽が気に入ってたネイル持ってきたの。看護士さんもいいって言ってたから」
 そう言って美雨はカバンから取り出したマニキュアを薄く塗っていった。淡い桜色が美陽の爪を彩っていく。
「こんにちは」
 背後から聞こえた落ち着きのある声に振り向くと、そこにいたのはいま話に出ていた看護師だった。
「お世話になってます」
「いいえ。あら、ネイル?早速持ってきたのね」
 美雨の手元を覗き込みながら看護師が言った。
「いいお姉さんがいて美陽ちゃんは幸せね」
「……いえ…」
 美陽の検温をしに来たらしい彼女は手際良く作業をしながら美雨に向かってにっこりと笑いかけた。だが、美雨はその言葉に口籠った。
「そういえばさっきまでご両親もいらしていたわよ」
「そうみたいですね」
 美雨はちらりと顔を上げたが、すぐに視線を戻して再びマニキュアを塗ることに専念した。その様子に看護士が何か言おうと口を開きかけたが、入口から医師に呼ばれて会話は中断した。
「ごめんなさい、仕事に戻るわね」
 看護師はまだ何か言いたそうな様子ではあったが、体温計とファイルを持つと医師について病室から出て行った。
「いい姉……か…」
 美雨は先ほど看護士が言った言葉を呟くと、自嘲するように笑った。

―― そんなわけ……ないじゃない… ――

 本当に "いい姉" であるのなら、こんな後ろ暗い感情を抱くはずがない。美陽がこうなったことに心のどこかで安堵している自分がいる、などと。
 代わりに事故に遭えばよかったと思っていたはずなのに、もうひとつの声が暗闇の中から甘やかに囁く。
 これでもう彼女と比べられることはないのだ――――――と。
 早く目を覚まして欲しいと願いながらもそんな風に思ってしまう自分はひどく愚かで浅ましく、以前よりももっと嫌いになった。
「……私も帰るね」
 美雨はそう言って立ち上がると、一度だけ美陽の手をきゅっと握ってから静かに病室を後にした。
 あの事故の日を境に誰もいなくなってしまった美雨の世界。狭く、小さな、檻のような世界。
 そんな世界が再び変わろうとしていたことに美雨は気付くはずもなかった。




 いつも通り、大学の授業が終わってから図書館に籠っていた美雨は陽が落ちてからようやく帰宅した。
「ただいま」
 そう言ってはみるものの、誰もいない部屋からはもちろん返ってくる返事などない。シンとした空気が彼女を包む。
 ゼミで使うレポートを作ろうと借りてきた分厚い本を手に美雨はパソコンに向かった。胸が隠れるくらいまで伸びた真っ直ぐな黒髪をまとめながら電源を入れる。
 彼女のパソコンは最新のものではないので起動までに少し時間がかかる。立ち上がるのを待つ間にコーヒーでも淹れようと、美雨はケトルでお湯を沸かした。
 カップとドリッパーを用意して手持無沙汰になった彼女は、ふと思い立ったようにカバンの中から小さな包みを取り出した。薄紅色の綺麗な包装紙に包まれたそれを美雨はぼんやりと眺め、小さく息を吐く。
「どうせ渡さないのに」
 そう独り言ちると包みを持ったまま机に向かった。引き出しを開け、その中にある数個の包みの横に手にあるものをそっと置く。コトン、という音がやけに大きく聞こえた。
 上品なリボンで彩られたその箱の中身は母への誕生日プレゼントだった。
 数日後に迫った母の誕生日を思い出した美雨は大学の帰りにデパートに立ち寄った。そこで小さなインペリアルトパーズが付いたシンプルなピアスを見つけ、すぐに手に取った。
 その色合いや大きさがすごく母に似合いそうだ、とそんなことを思いながら眺めていた時に、寄って来た店員からちょうど十一月の誕生日石だと教わり、即決でそのピアスを買った。
 けれどきっと渡さずに終わってしまうのだろう、と並べられた包みに視線を落としながらそう思った。
 美陽が事故に遭ってから父の誕生日が一回と、今回で二回目の母の誕生日。その数の分だけ引き出しの中には包みがあった。
 毎年、美陽と一緒に選んで買ったプレゼントは両親にあげていたけれど、ほとんど会うことのなくなってしまった今、それを渡しに行くのすら気が引けてしまう。
 そうして渡せずに残ったプレゼントをぼんやりと眺めていた美雨だったが、カチッというケトルのスイッチが切れた音にハッとして、引き出しを静かに閉めた。




 淹れたばかりのコーヒーとチョコレートを持ってパソコンの前に座ると、美雨はキーボードに手を伸ばした。カタカタという単調な音、それと時折めくられる紙の音だけが聞こえてくる。
 ひたすら集中してレポートを作り続けていた美雨だったが、さすがに目が疲れてきて画面から視線を外した。ちらりと時計を見れば始めてから三時間ほど経っている。
 ちょうど内容もひと段落したところだ。休憩がてら冷めてしまったコーヒーを淹れ直そうかと立ち上がりかけて、美雨はそのまま動きを止めた。

――――――ブツン。

 部屋が一瞬にして暗闇に包まれた。
「……停電?」
 ブレーカーかと思ったがエアコン以外は特に何も使っていなかったし、カーテンの外からも明かりが見えないからこの辺り一帯が停電したのだと思ったのだ。
 そしてハッとしてパソコンのほうに目を向けてから小さくため息を吐いた。視線の先の画面ももちろん真っ暗だった。
「あー……電源落ちちゃった…」
 頭を押さえながら思わず文句が零れる。データは回復出来るとはいえ、順調に進んでいたものに水を差された気分だ。
 だが、文句を言ったところで電気が戻らない限り何も出来ない。
 光が全くない中を歩くのはいくら慣れた部屋とはいっても危ないだろうと、灯りがつくのをじっと待っていた美雨だったが、ふと昔のことを思い出した。

―― 美陽は暗いの苦手だったっけ…… ――

 幼い頃、雷で停電になった時にひどく泣いて怖がっていた美陽の姿が思い浮かぶ。差し出した手をぎゅっと握りしめる彼女を守るように、美雨はそっとそばに寄り添って座った。
 美陽を守りたいと思っていたあの頃。こうなったことをどこかで安堵しているくせに矛盾していると自分でも思うが、今でも守りたいと思う気持ちに変わりはない。
 もしも自分の命で彼女が目覚めるのならば、惜しげもなくこの身を差し出すだろう。自分の存在など彼女に比べれば取るに足らないものだと知っているからだ。
「なんて……そんなことあるわけないか…」
 普段ならば考えないような馬鹿なことを考えて、美雨は自嘲するようにふっと息を吐いた。
「早く電気つかないかな」
 何かを誤魔化すみたいにぽつりと呟く。
 こういう何も出来ない状況が美雨は一番嫌いだった。余計なことを考えて、思い出してしまうから。考えたくもないのに、考えさせられてしまうから。
「……美陽…」
 小さく呼んだ名前は暗闇の中に吸い込まれていく。
 幼い頃からコンプレックスを感じ、そしてそれと同じくらい憧れていた自分の半身。大切な大切な妹。
 彼女が目を覚ますことを皆が待っている。

―― 美陽……戻っておいで… ――

 美雨はうずくまるように膝を抱え、そう心の中で呟くと祈るように瞳を閉じた。
 それと同時に彼女は突然の激しい眩暈と浮遊感に襲われた。真っ暗なはずの視界がぐらりと歪む。
「……な……に…」
 言葉を出そうとしても声が掠れて出てこない。それにひどく呼吸が苦しい。助けを呼ぼうにも体が重くて動くこともままならない。
「……み…は……」
 薄れていく意識の中、一番最初に頭に浮かんだのはやはり美陽だった。
 けれどたった三文字の言葉すら途切れ、まるで暗闇に呑み込まれるように美雨は意識を手放した。






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