夜が更けてもなかなか眠ることが出来ず、美雨はベッドから身を起こした。
 すぐ横のテーブルに置いてあったランプに慣れない手つきで明かりを灯し、暗い足元に気を付けながらそろそろと窓際へと歩いて行く。
 カタン、と窓を開けた音がやけに大きく部屋の中に響く。ひんやりとした冷たい風を頬に感じながら、美雨は空を見上げた。
 まるで墨を流し込んだような闇が覆い尽くしていて月はおろか、星すら見えない。
「始まりと終わり……か…」
 ふとアヴァードが言っていたことを思い出し、美雨はぽつりと呟いた。
 あれから数日間、美雨はアヴァードの元でこの世界のことを学んだ。その内容はラーグの歴史、地理、神殿が崇める女神のこと、そして "光耀の儀" についてなど多岐に亘った。
「ここは全ての始まり、そして全ての終わりの地」
「始まりと……終わりの地?」
「左様。生きとし生けるものは全て光から生まれ光に還る、というのが神殿の教えでの。各地に点在している数多の神殿の中でもレゼルが降り立ったこの地はその原初というわけじゃ」
 言うなればここは聖地といったところであろう。美雨は軽く頷いて相槌を打った。
「前にも少し話したが、そなたはまだこの世界との繋がりが浅く、それを深める為には四神殿に祈りを捧げることが不可欠。神殿の教えに倣い、"光の巫女" はここから始まって世界を巡り、ここへ還ってくるのじゃ」
「四神殿?」
 聞き慣れたものと似た単語を見つけ、美雨が尋ねると、アヴァードは地図上のいくつかの場所を指で差しながら答えた。
「この神殿以外にも柱となる重要なものがそれぞれの大陸に一つずつあっての。それらを総称して四神殿と呼んでおる」
 ふうん、と小さく呟く美雨を見て、アヴァードが柔らかく目を細めた。
「そなたにはそこを巡って旅に出てもらうことになるのじゃが、その間に見たもの、触れたもの、感じたこと、その全てがそなたとラーグを深く結び付けてくれよう。そしてそれが深まるほどに祈りは強くなる」
 "結び付ける" というのは "関係性を持たせる" といった意味だろう。関係があればあるほど人は心を向け、そして心が向くほど祈りにも想いが宿る、というわけだ。
「早く戻ればその分早く儀式を執り行えるんですか?」
「答えは否じゃ」
 アヴァードは眉を少し下げ、静かに首を横に振った。
「どうして?」
「"光耀の儀" を行うには時機を待たねばならぬ」
「条件があるということですか?」
「左様、満月の夜じゃ。しかし、月が満ちる日は年に二度しかない」
「年に二度?」
 元の世界との違いをまた一つ聞かされ、美雨は驚きの声を上げた。きっと美陽もそうだったのだろう、アヴァードは彼女の反応を予想していたように笑っていた。
「ミハルから聞いたが、そなたらの世界は月の満ち欠けがここよりも早いそうじゃな」
「はい」
「ここでもそうであれば楽なのだが……とにかくその時機を待つしかない」
「次はいつなんですか」
「五ヶ月ほど先じゃ」
「え……」
 ここに来てからすでに三週間近く経っている。ということは美雨が来る数日前に月が満ちたばかりということだ。そして美陽が居なくなったのは美雨が来る一ヶ月ほど前。
 頭の中で計算して出た答えに美雨は言葉を失った。

―― 嘘…… ――

 あと少しで儀式が行えるという重要な時期に美陽を呼び戻してしまったのだ。人々の落胆がいかに大きかったか計り知れない。
 その事実に美雨は軽い眩暈を覚え、無意識のうちに頭を押さえた。
「気に病むことはないぞ」
 美雨の心を読んだようにアヴァードが言った。その声にハッとして美雨は彼の方に視線を戻した。
「………」
「色々なことに気が回りすぎるのも考え物じゃの。一を話せばそれ以上のことを悟ってしまう」
 押し黙ってしまった美雨にアヴァードは少し困ったように微笑みながらそう言った。
「これから始まるそなたの旅はきっと辛いものになる。今は余計なことに心を裂かずともよい」
 その理由は先日の話を聞いていれば言わずもがなだろう。
 いくら "光の巫女" とはいえ、美雨は "禁忌の双子"。この世界に暮らす人々から見れば災いを招く不吉な存在でもあるのだ。
 それにアヴァードの話では美陽がいなくなったことは今では全ての民が知っているらしく、見捨てた、逃げ出した、と心無い噂も流れ、巫女を恨むものも少なからずいるということだった。
 立場的には世界を救う大事な巫女かもしれないが、人々の心情的には美雨を受け入れられない者の方が多いのではないかと思われた。
「大丈夫です。それがやらなければいけないことならやるしかありませんし。それに……」
 慣れているから、と続けようとして美雨は口を噤んだ。わざわざ言う必要はない。
 恨まれていたことはさすがにないと思うが、冷めた視線なら向こうの世界で嫌というほど浴びてきた。それらから身を守る方法もわかっている。いまさらそんなものに戸惑うこともないだろう。
 言葉を止めた美雨をアヴァードは心配そうな表情で見ていたが、彼女はそれに気付かないフリをし続けた。




 ひゅう、と強い風が窓から吹き込み、考えに耽っていた美雨はハッと我に返った。
 気付いたらいつの間にか大分時間が経っていたようだ。ストールを合わせていた手はかなり冷たくなっている。息を吹きかけ、その手を擦り合わせるようにして温めると美雨は窓を閉じ、ベッドの端に腰掛けた。
 アヴァードからは他にも様々なことを教わった。巫女の守護者、そして伴侶候補でもある四神官のこともその時に聞いた。
「ルトウェルというのがラーグで一番の大国での、マティアスの出身地じゃ」
「皆、別の大陸の出身……ですか?」
 初めは四人とも元からこの神殿に仕えているのだと思っていたが、四神殿というあまりにも似た言葉を聞いてからは彼らと何かしらの関係があるのではないかと思い直したのだ。
「そういえば彼らについて詳しく話したことはなかったの」
 少しだけ眉を上げたアヴァードに美雨はこくんと頷いた。
「知っての通り、四神官というのは巫女を護る守護者。故に誰もが簡単になれるものではない。それぞれの国にいる多くの神官のうち、武や知識に最も長けた者が候補になり、四神殿に呼ばれる。そしてそれぞれの神殿の中から一人ずつ選ばれ、四神官となる」
 確かに世界を救う術を持つ巫女を護る役目を負うのだから、それなりの力を持つ者が選ばれるというのは納得出来る。が、その護る対象が自分だと思うとあまりにも身の丈に合わないことに思え、困惑した。
「そんなわけで彼らは皆、違う国の出身じゃ。レイリーはティエラ、ディオンはシーリア、クートはグラディス」
 そう言いながらアヴァードはそれぞれの国の場所を指差した。
「時間があるのなら彼らの国を見てくるといい。巫女と四神官の絆を深めるのもこの旅の目的のひとつじゃからの」
 その言葉で一気に気が重くなった。
 儀式の前までに一人を選ばねばならないのは分かっている。巫女の役目なのだから、と了承もした。けれど頭では分かっていても心はそう簡単にはいかない。

"そういうとこ直したほうがいいよ"

 不意に美陽の声が頭の中に蘇る。
 まだ高校生だった頃、美陽は呆れたように笑いながらそんなことを言った。確かあれは好きな人はいない、相手が迷惑だ、と言った時のことだっただろうか。
 美陽の言う "そういうところ" というのがどういうところなのか、あの頃いくら考えてみても分からなかった。そして今もまだ分からない。
 好きな人などいない。大切な人など作りたくもない。ましてや誰かと一緒になるなど考えたこともなかった。
 誰も、自分の中に入って来て欲しくない。誰も――――――。
「ミウ?まだ起きているのか?」
 コンコン、とノックの音と共に扉の外から低い声が聞こえた。ぼんやりしていた所為もあるが、こんな夜中に誰かが来るとは思ってもおらず、驚きに肩がビクッと跳ね上がる。
 入り口に行き扉を開けると、そこにはディオンが立っていた。
「何か用でしたか?」
「いや、部屋の前を通ったら明かりがついていたから」
 どうやら扉の下の隙間からランプの明かりが漏れていたらしい。
「眠れないのか?」
「………」
 美雨は黙ったまま少しだけ俯いた。眠れないのは確かだが、なんだか愚図る子供のように思えてそれを口にするのは憚られた。
 すると美雨の肩にディオンの手がポンと置かれた。
「少し待っていろ」
 そう言ってディオンは美雨に背を向けてどこかへ歩いて行ってしまった。美雨はどうしていいものかと迷ったが、とりあえず扉を少し開けたままで部屋の中に戻った。
 しばらくして戻ってきたディオンの手には白い器の乗った盆があった。
「レイリーから薬湯を分けてもらった。気分を落ち着かせる効果があるらしい。これを飲んだら少し横になるといい」
 手渡された器は温かく、冷えた空気の部屋の中で柔らかい湯気を立てている。
「……ありがとうございます」
 美雨は小さく礼を言ってそれを一口啜った。少し苦みもあるが、ハチミツのようなほんのりとした甘い香りが口の中に広がる。
 夜の帳がシンと辺りを包み、美雨が薬湯を飲む音だけが小さく響く。一口飲むたび冷えた体が芯から温まり、ざわついていた心が少しだけ落ち着いたように感じる。
「眠れそうか?」
 全て飲み終えたのを見届けてからディオンが訊いた。美雨は彼の目を見て、それから頷いた。
「そうか」
 ランプの仄かな明かりの中で柔らかく細められた瞳がひどく優しげに見えた。
 彼のそんな表情は初めて見たような気がする。
「どうした?」
「いえ……あの、ありがとうございました」
 思わずまじまじと見てしまったことを美雨は慌てて誤魔化した。
「そろそろ眠った方がいい」
「はい」
 器を取り上げられ、ディオンに促された美雨は大人しくベッドへと戻った。このままここに座っていては彼も自分の部屋に戻るに戻れないだろう。
 ディオンは美雨がベッドに入ったのを確認してから入り口に向かった。部屋を出る間際に足を止め、少しだけ振り返る。
「お休み」
 低く静かな声が頭の奥に優しく響く。
「お休みなさい」
 パタンと閉じられた扉をしばらく見つめていた美雨だったが、薬湯の効果が出たのか、少し瞼が重くなってきたようだ。冷え切っていたシーツも自分の体温で少しずつ温まってくる。
 ランプシェードを少し持ち上げて中の火を吹き消すと、美雨は空の闇と同じように暗くなった部屋の天井を見上げ、それから静かに瞳を閉じた。






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