「よう」
 冬休み、二度目の月曜日。万葉が美術室へ行くと、そこにはすでに葵が居た。葵は腕時計を見ながら、これくらいに着くのか、と一人で呟いている。
「今日は早いんですね」
 葵の顔を見た途端に騒ぎ出す鼓動を隠しながら万葉は尋ねた。
「こないだ待たせちゃったからさ。廊下で待ってるの寒いだろ」
「あ……ありがとう…ございます」
 自分の為に早く来てくれたのだと気付き、万葉は礼を言った。その時、思わず俯いてしまったのは顔が赤くなっている気がしたからだ。
「時間、十二時まででいいか?」
「あ、はい」
「今日も風景画?」
「悪いですか」
 突っかかるような言い方をしてしまってから万葉はすぐに後悔した。
 
―— なんでこんな可愛くない言い方ばっかり…… ―—
 
 今まで苦手だと思っていた所為なのか、葵を目の前にするとどうしても可愛げのない言動ばかりしてしまう。
「悪いとか言ってないだろ」
 だが、当の葵はそう言って可笑しそうにくっくっと肩を揺らして笑っている。
「まあいいや、今日は俺もここいるから」
「え?!」
 前回のようにいなくなるのだと思っていた万葉は驚いてつい大きな声で聞き返した。
「何だよ、ダメか?」
「……ダメじゃない…けど…」
「はい、決まり。ほら、時間なくなるぞ」
 ニッと笑って言う葵にそれ以上逆らうことは出来ず、結局万葉は躊躇いながらもいつもの場所に腰を落ち着かせた。
 ちらりと葵の方を見るがそこに彼の姿はなく、奥の準備室から何やらガタガタと音が聞こえている。何をしているのだろう、と思っているうちに彼が少し大きめのスケッチブックを持って現れた。
「ん?何?」
 じっと見ていた視線に気付いた葵が首を傾げて訊いてくる。彼は教室の後ろ側に座る万葉の反対側、黒板のそばに椅子を引き摺り、腰を下ろした。
「先生も描くの?」
「おう、しばらく描いてなかったからな」
 それだけ答えると葵は早々にスケッチブックを開き、鉛筆を走らせ始めた。長い脚を組んで絵を描いている葵の姿はそれ自体が絵のようだ。
 部屋の反対にいる存在に気を取られながらも万葉も自分のスケッチブックを広げた。描き始めれば気持ちが少しは落ち着いてくる。
 会話のない二人の間には静かな時間が流れ、鉛筆の走る音だけが聞こえていた。




 パタン、と音が聞こえ、万葉は反射的にそちらを向いた。どうやら葵がスケッチブックを閉じた音らしい。
「矢野、腹減らない?購買行ってくるけど何か食う?」
「家でご飯食べるから平気です」
「そっか。じゃあちょっと俺行ってくるわ」
 そう言って葵が美術室を出て行き、一人残った万葉はふうっと深いため息をついた。
「……何か…疲れた」
 ため息交じりにぽつりと独り言ちる。最初より落ち着いたとはいえ、それでも普段よりかなり緊張していたようだ。
 
―— でも……嬉しい… ―—
 
 初詣のときは色々と考えて自分の感情に振り回されてしまったが、葵の取り巻きもいない、他の誰もいない教室に好きな人と二人きりでいられるのはやはり嬉しいものだ。
 少しこそばゆい感じもして思わず緩んでしまう口元を隠すように両手を当て、椅子の上で体育座りしていた膝に頭を預けた。そのまま顔を横にして葵がいた場所を見やると、彼の座っていた椅子の上にスケッチブックが置いてあるのを見つけた。
 葵が出て行ってからまだ数分も経っていない。きっとまだ帰って来ない。
 そう思った時、万葉の中にふと出来心が芽生えた。
 万葉は立ち上がると教室の反対側へ行き、椅子の前で立ち止まった。誰もいないのは知っているが、なんとなく辺りをきょろきょろと見回し、それからスケッチブックに手を伸ばした。
 その中は以前見た時と同じように鉛筆のみでデッサンされており、モノクロ写真のように繊細で美しい絵が何枚も描かれていた。
「やっぱり綺麗……」
 初めて見た時もそう思った。一瞬で目を奪われ、その絵の中に引き込まれてしまう。
 そういえばさっきは何を描いていたのだろうか、と万葉は思った。それを探すようにパラパラと紙を捲っていた彼女の手がぴたりと止まった。
「………」
 そこには見慣れた風景が描かれていた。
 壁際に追いやられた机、重なって置かれている椅子、落書きの残った黒板、半分だけカーテンの下がった窓、そしてその窓のそばに座って絵を描いている女の子。
 万葉はスケッチブックから顔を上げると目の前の光景を眺めた。まさに今この目に映っている景色が手元の紙の中に留められている。
「……じゃあこれ…」
 手元に視線を戻し、絵の中にいる女の子をじっと見ながら呟いた。
 
―— 私……? ―—
 
 そこに描かれている女の子は少し嬉しそうな表情をしてスケッチブックに向かっていた。自分では意識していないので分からないが、葵の目にはこんな風に映っていたのだろうか。
 そう考えると思わず顔がかあっと熱くなった。と同時に教室の扉がガラリと開いた音が聞こえ、万葉は反射的にスケッチブックを閉じた。
「あ、こら、なに勝手に見てんだ」
 戻ってきた葵はそう言って少し慌てたようにパッとスケッチブックを奪った。怒られると思ったが、それよりも今は赤くなっているであろう顔を隠すのが先だった。
「ご、ごめんなさい」
 顔を見られないように俯いたまま謝ったが、いくら待っても葵の声は聞こえない。
 そうなると今度は怖くなった。怒られることではなく、勝手に見たことで嫌われてしまったかもしれない、と思ったからだ。
 万葉が恐る恐る顔を上げると、そこにはいたずらっ子のような笑みを浮かべた葵の顔が間近にあった。
「!!」
 自分の反応を観察して楽しんでいたのだろうか、とそんなことを頭の片隅でちらりと思ったが、今はそんなことどうだっていい。
 
―— 近っ…… ―—
 
 驚いて思わず後ろに引いた足は一段高くなっていた教壇を踏み外し、万葉はそのままバランスを崩した。
「きゃっ……」
「ばっ……」
 思わず目を瞑るが、予想していた衝撃は訪れなかった。
 代わりに大きな手が背中に回され、しっかりと腕の中に納まっている。後ろ向きに倒れそうになった万葉の体を葵が咄嗟に支えたのだ。
「おー……危ねー…」
 頭上で聞こえる声と、背中に回された大きな手。
 まるで抱き締められているような体勢に万葉の頭の中は真っ白になっていた。もはや破裂するのではないかと思うほど心臓がバクバクいっている。
「大丈夫か?」
 そう言って葵が覗き込んできたが、こんな状況でまともに顔を見れるはずがない。万葉はこれでもかというくらい俯いたまま頷いた。
 
―— なに……どうなってるの…?! ―—
 
 頭の中はパニック寸前だ。
 しかもすぐに放してくれると思っていた腕が解かれる気配が一向にしない。葵のお蔭で転倒は避けられたのに、このままでは違う意味で倒れてしまいそうだ。
 だが、状況を打破しようとしても動くことも出来ず、声まで凍ってしまったように出てこない。
「………」
 どうしよう、とそればかりが頭の中をぐるぐると回っている。
 万葉が慌てふためいていると、しばらくして頭上から噛み殺したような笑い声が聞こえた。それでようやくからかわれているのだと理解した。
 何とか体を動かして腕を突っ張ってみるが、葵の腕はびくともしない。
「……放して下さい!」
 もうどうしていいのか分からず、万葉は若干泣きそうな声で頼み込んだ。すると葵が愉快そうな声音で言った。
「勝手に絵見たお仕置き」
「……っ…」
 言葉に詰まった万葉がさらに体を強張らせると、葵は笑い声を零しながらようやく腕の中から解放した。
「冗談、別に怒ってないし」
 冗談でもやっていいことと悪いことがあるだろう、と言い返したいが、今の万葉にはもはやそんな気力は残ってなかった。気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうだ。
 ひとまず落ち着かせようとゆっくり息を吸い込んでいると、それに、と言って葵が続けた。
「矢野ならいいよ」
 不意に言われたその言葉に早鐘を打っていた心臓がさらに大きく脈打った。
 まるで自分だけ特別だ、と言われているような錯覚を覚える。が、それも次に繋がった言葉ですぐに消え去った。
「前にも見られたし」
「ご……ごめんなさい」
 そういえば前回も勝手に見たことを思い出し、万葉は身を縮ませて謝った。一瞬でも自惚れたことを考えてしまった自分が恥ずかしい。
「別にいいって。でも今度見るときはちゃんと俺に言ってね」
 葵は何処となく楽しそうにそう言った。全て彼のいいように遊ばれているような気がして釈然としない。
「……はい…」
「じゃあはい、驚かせたお詫び」
 葵はそう言って万葉の手を取るとその上にチョコを二つ乗せた。包み紙がカサリと音を立てる。
「……ありがとうございます」
「さて、メシメシ」
 気が抜けて呆然としている万葉を置いてさっさと椅子に座ると、葵は買ってきたパンを頬張り始めた。口の端に付いたソースを親指で取ってぺろりと舐める仕草がやけに色っぽい。
 これ以上心臓に負担をかけないようにするべく、万葉は出来るだけそっちを見ないようにして自分の席に戻っていった。






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