好き。
 声に出さず唇だけを動かしてみる。
 途端にかあっと顔が熱くなるのが分かった。
 あの笑顔を思い出すたび胸がきゅう、と苦しくなる。自然と頬が緩み、そしてちょっと泣きたいような気持ちになる。
「何でかなあ……」
 万葉はベッドの上で小さく丸まりながら呟いた。
 あれから三日が経ち、一時の気の迷いではないだろうかと諦め悪く思ってみたが、やはりあの時自覚したものは間違いではなかった。
 葵のことは苦手に感じていたはずなのに、どうしてこんなことになったのか。
 "あの人を好きになろう" と思って人を好きになるわけではないと分かっているが、よりにもよって教師を相手に恋をしてしまうなんて思ってもみなかった。
 いくら好きになったってどうにもならないことだと分かっている。
 だけど初めての恋を、この想いを、簡単に捨てたくもない。というより、捨て方さえ分からない。
「あー……もうっ」
 深いため息をついたあと、万葉は枕に顔を埋めた。足をバタバタと忙しなく動かしながら叫びたくなる衝動を堪える。
「何してんだ、お前」
「わあっ!!」
 驚いて飛び起きると自分のすぐ間近に兄の春樹が立っていた。いつからいたのだろうかと急に恥ずかしくなった。
「バタバタうるせえ奴だな」
「ちょ、お兄ちゃん、いきなり入ってこないでよ!」
「入るぞっつったべ」
「聞こえないし。ていうか何?」
 無意味に暴れていたのを見られた恥ずかしさを誤魔化すためにつっけんどんに訊くと、春樹は手に持っていたCDをポイっと投げた。
「前に欲しがってたやつ、お前にやるわ」
「いいの?何で?」
 コロリと態度を変えて春樹を見上げると、彼は万葉の寝ていたベッドに座り、そこにあった雑誌をパラパラとめくりながら答えた。
「一人暮らし始める予定だから今からいらない物とか整理してんの」
「え?お兄ちゃん一人暮らしするの?」
「おう、やっぱここからじゃ大学遠いし」
 確かにここから兄の通う大学までは一時間半以上かかる。雪で電車が止まることなどもしょっちゅうだ。
「いいなあ」
「お前にゃまだ早いな」
 ニヤッと意地の悪い笑みを浮かべて春樹が言う。悔し紛れに春樹の腕にパンチをしながら、万葉はふと思いついたことを口にした。
「……そういえばさ、お兄ちゃん高校の時……前嶋先生っていた?」
 春樹もまた万葉と同じ柏北高校の卒業生である。自分が入学する前の葵の話を聞いてみたかった。
「前嶋……ああ、葵ちゃんか。いたいた、いっつもモテモテのイケメン美術教師、だべ?」
 やはりそこは昔から変わっていないらしい。呼び名も "葵ちゃん" のままのようだ。
「俺は美術選択してなかったからあんまり関わりなかったけど……何、お前葵ちゃんに惚れちゃった?」
「な、に言ってんの!そんな訳ないじゃん!」
 いきなり図星を突かれ、万葉は思わず大きな声で否定した。いかにも嘘であることがバレバレである。春樹がニヤニヤと笑いながらへえ、と呟いた。
「ま、頑張れば?」
「だから違うってば!」
 半分パニックになりながら思い切り春樹の背中を叩く。バチンッ、と良い音が部屋に響いた。
「痛ぇ!分かったっつーの」
 本気で痛かったのだろう、春樹は悲鳴を上げてベッドから立ち上がった。
「お母さんたちに変なこと言ったら怒るからね」
「はいはい」
 春樹は念の為の口止めを軽く受け流して部屋を出て行った。
 一人残った万葉は貰ったCDジャケットを眺めながら、何故春樹に余計なことを訊いてしまったのか、と自己嫌悪に陥っていた。




 迎えた大晦日、万葉は何とか両親を説き伏せ、紗耶と一緒に初詣に出かけた。待ち合わせの駅まで春樹に送ってもらい、そわそわしながら紗耶を待つ。
「万葉!ごめん、遅れた?」
「ううん、大丈夫」
 万葉が首を振ると紗耶はよかった、と言って微笑んだ。
「なんかお祭りみたいでちょっとテンション上がるね」
「ねー、こんな時間に家出たことないからドキドキする」
「ていうか、よく万葉OK出たね」
 万葉の家が少し過保護なことを知っている紗耶は意外そうにそう言った。
「今回はお兄ちゃんが味方してくれたの。一人暮らしずるいって騒いでたからかな」
「あはは、そうなんだ。でもよかった、一緒に来れて」
 紗耶の言葉に笑顔で応えると、彼女もまた笑顔を返した。
 神社へ向かう人の波に沿って二人はきゃっきゃっとはしゃぎながら歩いて行く。門はまだ閉じられたままで、その前に溜まる人だかりの中に並んだ。
「そういえば部活どうだった?やっぱ二人きり?」
 除夜の鐘が鳴る中、紗耶がからかうような笑みを浮かべて訪ねてきた。前触れもなくその話題に触れられ、思わず万葉は狼狽えた。
「え……と、二人……だったけど、でも先生ずっと職員室に居たし」
「なんだ、つまんないなあ」
 あまりにも普通な返答に紗耶はあからさまにがっかりした顔をした。
「つまんないって……」
 それに苦笑しながら万葉は言葉に詰まった。葵のことが好きになってしまった、と紗耶に言うべきかどうか迷ったのだ。
 相手が葵でなければすぐにでも言っていただろう。だが、何となく好きになることさえいけないことのような気がして、紗耶にすら話すのが躊躇われたのだ。
「でもやっぱ葵ちゃん、万葉のこと気に入ってるよね」
「は?!」
 その言葉で万葉の頭の中でぐるぐると回っていたことが一気に吹き飛んだ。思わず素っ頓狂な声が出る。
「だってわざわざ冬休みに部活来いとかさ、他の部員に聞く前に万葉のとこ来たわけでしょ」
「それは……たまたまでしょ」
「えー、そうかなあ」
 そうだよ、と言おうとして周りの声にかき消された。どうやら最前列の方からカウントダウンが始まったようだ。紗耶と顔を見合わせ、周りに合わせて声を上げる。
 万葉は数を数えながら、葵のことを言い出すタイミングを失ったことに少しホッとしていた。
「ハッピーニューイヤー!!」
 わあっ、と歓声が上がり、万葉と紗耶も改めて新年のあいさつを交わす。
「あけましておめでと!今年もよろしくね!」
「うん!こちらこそよろしく!」
 はぐれないように手を繋ぎ、二人は波に流されるように境内に向かって歩いて行った。
 ようやく自分たちの番が回ってくるとすでに用意してあったお賽銭を入れ、ガランガラン、と大きな鈴を鳴らす。二礼二拍手をし、手を合わせたまま目を閉じる。
「わ、万葉早い」
 祈り終えた紗耶が少し慌てたように言った。すでに祈り終えた万葉が待っていたからだ。
「うん、紗耶は長かったね」
「えへへ、いっぱいお願い事しちゃった」
「なに、田内先輩のこととか?」
 その様子から察して万葉は茶化すように言った。
「内緒!万葉は?」
「んー……内緒」
 同じ言葉で返して笑い合っていたが、その時の万葉の笑顔にはほんの少し戸惑いの色が浮かんでいた。
 おみくじを引いたりお守りを買ったりしているうちに時間は過ぎ、家を出るときに言いつけられた時間になった。
「そろそろ行かないとまずいかな」
「そうだね、帰ろっか」
 そう言って来たときと同じように駅まで行くと、紗耶は自分の親の、万葉は春樹の、それぞれの迎えの車に乗って家に帰っていった。
「楽しかったか?」
 車の中で春樹が訊いた。
「うん」
「その割にはテンション低いな」
「ちょっと人に酔って……着くまで寝ててもいい?」
 適当に思い付いた言い訳を言うと、呆れたような声が返ってきた。
「お前、迎えに来させてそれかよ……まあいいけど」
「ごめんね」
「ん」
 愛想なく答えた春樹だったが、かけていた曲のボリュームを落としてくれた。なんだか少し申し訳ない気分になるが、それにかまっていられるほどの感情の余裕がなかった。
 内緒、と答えた願い事。
 本当は願った事は何もなかったのだ。
 いま、一番に頭の中を占めているもの、それはもちろん葵だ。それなら葵とのことを願おうか、とも思ったが、何を願えばいいのか分からなかった。
 葵が好き。
 けれど彼は教師だ。好きになってもらえるなんて思っていないし、まして付き合うなど想像すら出来ない。じゃあどうなりたいのか、と言われても何も思い浮かばないのだ。
 だから何も願うことが出来なかった。
 
―— 自分でもよく分かんないよ…… ―—
 
 教えてくれなかったがおそらく田内先輩とのことを願っていたのだろう、頬を赤くして女の子の顔をしていた紗耶が少しだけ羨ましかった。
 眠ったふりをしながら、万葉は流れていく街の明かりをずっと眺めていた。






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