それから数日後、空には薄い雲がかかり、ちらちらと雪が舞い降りている。足元はすでに白く覆われ、踏むたびにキュッと音が鳴った。
 紗耶はコートのポケットに手を入れながら身震いした。
「今日すごい寒くない?」
「ほんと寒すぎ。駅までの距離も辛い」
 万葉もマフラーに顔を埋めながらそう言った。
 だが、今日で学校が終わり明日から冬休みということで気分は上々だった。周りを歩く生徒たちも浮かれ気分ではしゃいでいる。
「ね、今日ヒマ?ちょっと寄り道してかない?」
「いいね。せっかく明日から休みだし」
 万葉の提案に紗耶は一も二もなく頷いた。
 駅前のファーストフードの店に入った二人は温かい飲み物と軽食を買って椅子に座った。同じようなことを考えているらしく、店内は柏高校の生徒が多数見られた。
「冬休み、どうしよっか」
 色々と他愛ない話をしているうちに思い出したように紗耶が言った。いそいそと鞄から手帳を出して広げ、目を輝かせながらそれを眺めている。
「紗耶、バイトは?」
「週三で入ってる。冬休み中にお金貯めなきゃ」
 本来、校則でアルバイトは禁止なのだが、隠れてやっている生徒がほとんどだろう。紗耶もそのうちの一人である。
「あーあ、私もバイトしたいなあ」
 万葉は頬杖をついて深くため息を吐いた。
「親が厳しいんだっけ?」
「厳しいっていうか過保護なんだよ。大体、お兄ちゃんはよくて私はダメとか意味わかんない」
 高校に入ったら絶対にアルバイトをしようと思っていた万葉は当然の如く親に反論した。が、"お兄ちゃんは男だからいいの" という一言によって見事に撃沈することとなった。
 万葉がその経緯を話すと、紗耶は面白そうに笑った。
 それから延々と話し続けて気付けば四時を回っていた。冬は日が暮れるのが早く、外はすでに薄暗くなっている。
「そろそろ帰ろっか」
「うん」
 店に入ってすでに数時間、ようやく二人は席を立った。ドアを開けた瞬間、冷え切った空気が流れ込み、二人は思わず身を縮めた。
「寒っ!」
 重なった声に顔を見合わせ笑いながら駅に向かって歩き出す。と、少し離れた所に同じ制服を着た一団が見えた。
「あれ、六組の子かな」
「ほんとだ。葵ちゃんもいるし、こないだ言ってたやつじゃない」
 ほぼクラス全員がいるのではないかと思うほどの人数の中に、一人だけ制服ではない者が混じっている。万葉はその人を目で追った。
 イタズラ好きそうな男子が雪玉を作って葵に投げつける。見事命中した葵は雪玉の跡をモッズコートに残しながら、その生徒を追いかけた。
「いいなあ、楽しそう」
 紗耶は羨ましそうに言った。
「そうだね」
 確かにこんなに仲の良いクラスも、こんなふうに生徒に付き合ってくれる教師も、あまりないだろう。万葉は答えながらそう思った。
 ふと、その中にあの女子生徒を見つけた。
 
―— あ……あの時の子… ―—
 
 彼女は葵のそばに行くとあの時と同じように腕を組み、葵もまた笑って受け入れている。二人を先頭にして一団は楽しげな声を上げながら店の中に入っていった。
 万葉は無意識のうちにポケットの中できゅっと手を握っていた。心の中にもやもやとしたものが湧き上がる。
 それは先ほどまで感じていた羨ましい、という感情とは全く別の何かだった。
 自分でも何だかよく分からないその靄は、家に帰って眠りにつく時も消えてはくれなかった。




 冬休みが始まって最初の月曜日。
 万葉は玄関先に座り込み、のろのろと靴を履いていた。重い腰をようやく上げて外へ出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。万葉は首を竦めながら白い道を歩いて行く。

"だってさ、部活で冬休みも一緒にいられるわけでしょ?しかもほぼ二人で"

 少し前に紗耶が冗談半分で言った言葉が頭の中をぐるぐると回っている。万葉は小さくため息をつきながら足元の雪を蹴った。
 あれ以来、授業以外で葵と顔を合わせるのを避けて部活にも行かなかったのに、いきなり二人きりになるなんて思ったらどうしていいのか分からない。
 そんなことを考えながらも少し遅れてやって来たバスに条件反射のように乗り込み、万葉は重たい足取りで学校へと向かった。
 いつもより人気の少ない校舎の中を歩き、美術室の前まで辿り着くとドアの小窓から中を覗いた。誰か来てないかな、と淡い期待をしてみるものの室内には誰もおらず、万葉はがっくりと肩を落とした。やはり自分だけのようだ。
 仕方なくドアに手を伸ばすがガタ、と音を立てるだけで開かなかった。どうやら葵もまだ来ていないようだ。コートのポケットからケータイを取り出して時刻を見る。集合時間の十時まであと十五分ほどあった。
「少し早かったかな」
 とはいえ、万葉の家から学校へ向かうバスは本数が少ない。今日乗ったバスの次となると今度は遅刻になってしまう。
 葵がまだ来ていないことに少し気が緩んだ万葉はスカートを押さえながら壁際に座り込んだ。
「冷たっ」
 タイルの床は氷のような冷たさだ。思わず一人で文句を言ってしまった声がやたらと大きく聞こえる。
 雪が積もると夏の間はグラウンドを使う部活も全て体育館か校内で活動をする。その為、いつもの部活の威勢のいい声は聞こえてこない。
「静かだなあ……」
 万葉はこういう時間が好きだった。先ほどまでの気の重さも忘れ、目を閉じて静けさを堪能する。
 たかが数分だが、あまりにもぼんやりとしてしまっていたらしい。側に誰かが来たことにも気付いていなかった。
「おーい、腰冷えるぞ」
「ひゃっ」
 突然、頭上から聞こえた声に驚いて裏返った声が出てしまった。上を見上げれば葵がくっくっと肩を揺らして笑っている。
「ごめん、待たせて」
 葵は鍵を開けながらそう言った。手元にあるケータイを見ると十時少し前だった。別に葵が遅れたわけではない。
「私が早く着いただけなので」
「寒かっただろ。いま暖房つけるな」
 相変わらず絵の具の匂いがする美術室の中は戸を閉め切っていた所為で廊下以上に寒い。まだコートは脱がないまま、葵の言葉に頷いた。
「やっぱ矢野以外は来ないか」
「夏休みも来てなかったですしね」
「ははっ、そうだった」
 万葉は葵と話しをしながら、思っていたよりも普通に話せている自分にホッとした。
「お、ついたついた」
 ゴオオ、と音を立てて空調機がようやく動き出した。温かな風が少しずつ部屋を暖めていく。
「したら俺、職員室にいるから。昼頃また来るわ」
 え、と思った時にはもうすでに葵は廊下に出てしまっていた。
「……ふっ…」
 一瞬、ぽかんとしていた万葉から小さな笑い声が零れる。"二人きり" だなんて変に緊張していた少し前までの自分がひどく滑稽に思え、途端に一気に気が抜けた。
「さ、やろやろ」
 独り言ちながら脱いだコートを椅子に掛け、万葉は鞄の中から家から持ってきたスケッチブックと筆箱を取り出した。
 お気に入りの場所に座り、真っ白に染められたグラウンドを見下ろす。部活の休憩中なのか、遊んでいる学生の姿がちらほら見えた。
 万葉はスケッチブックに鉛筆を走らせ、今しがた見たばかりの光景をその紙の中に留める。静かで、ひどく心地のいい時間だった。




「お、やってるな」
 ガラリと開いたドアの音にそちらを向けば、葵が手に何かを持って入って来るところだった。
「腹減って購買で買ってきた。食う?」
 そう言いながら菓子パンとホットココアを机に置いた。それを見た途端、お腹が空いてきた。すでに十二時近くを回っているので仕方ない。
「でもそれ先生のでしょ」
「いや、俺のはこっち」
 そう言って葵はもう一つのパンを取り出して袋を開けた。葵に促され、万葉も遠慮がちに菓子パンに手を伸ばした。
 万葉は葵の姿をちらりと見やった。寒がりなのか、今もコートを羽織っている。クリスマスの日と同じ、黒のモッズコート。それを見て女子生徒と腕を組んでいた姿を思い出した。
「クリスマス、楽しかったですか?」
 もやもやしたものが胸にせり上がり、万葉はそれを振り払おうとするように尋ねた。
「ん?ああ、うちのクラスのか。矢野もあの店居たの?」
「駅前で見かけました」
「騒がしかったから目立ってただろ。あのお祭り騒ぎは予想以上だったわ」
 そう言ってケラケラと笑う葵が何故か気に障った。
「かわいい子に腕組まれてましたしね」
 言ってしまってから、ハッとしたように口を押さえる。
「かわいい子?ああ、片桐か?あいつはいつもあんなんだからなあ」
 当たり前のことのように話す葵にもやもやは消えるどころかさらに募った。
「ふうん」
 自分で振った話題のくせに万葉は気のない返事をして菓子パンに齧り付いた。
「ところでいま何描いてんの?」
 同じようにパンを頬張りながら葵が尋ねた。
「ここから見える風景です」
「前も書いてなかった?」
「いいんです。この場所がお気に入りなんです」
 先程のもやもやと混ざって少しムッとしたような言い方になってしまった。それが面白かったのか、葵は笑いながら万葉の頭の上にポンポンと手を置いた。
「怒るなって。別に悪いなんて言ってないだろ」
「別に怒ってません」
 まるで子供をあやすような仕草に万葉が意地になったように答える。葵はそれに、と言って言葉を続けた。
「俺もこの場所、結構好きだよ」
 そう言って笑う葵の笑顔はいつもの快活なそれではなかった。優しげに目を細めてこちらを見ている。
「……っ…」
 その笑顔を見た瞬間、痛いくらい胸が締め付けられた。顔が赤くなっているのが自分でも分かるくらい頬が熱い。
 万葉はパッと視線を逸らして勢いよく立ち上がった。
「そ、そろそろ終わりの時間じゃないですか?!」
「ん?おお、もう十二時か。じゃあ帰るか」
 葵はそんな万葉の心境も知らずに、のんびりと両手を大きく上に伸ばしてから立ち上がった。
「鍵閉めてくから先帰っていいぞ。じゃあな、また来年」
 見送りのつもりなのか、入り口まで来た葵がドアにもたれながらひらひらと手を振った。万葉は直角に近いほど頭を下げ、そのまま逃げるように廊下を歩いて行く。
 歩く速度が小走りになり、やがて全速で駆けていた。耳の奥に聞こえるのは心臓の音だけ。
 気付かないフリをしてももう誤魔化せない。
 抑えようとしてももう抑えられない。
 喉の奥が泣いた時のようにきゅう、と苦しくなる。
 
―— 私……先生のこと… ―—

 恋に憧れはあった。いつか恋をしてみたいと思ってはいたけれど、どうしてもそちらの方面には疎くて未だに初恋すらまだだった。
 だから "好き" というのがどういうものなのか分からなかった。分からなかったけど、胸の痛みが教えてくれた。
 
―— 好きなんだ…… ―—
 
 万葉はゆっくりと足を止めた。上がった息を整え、それから来た道を振り返る。顔が火照っているのはきっと走ったからだけではない。
 "好き" と自覚したら胸の奥がまたきゅう、と締め付けられた。その痛みが嬉しくて、そして切なくなった。




 初めて恋をした。
 どんなに想っても手の届かない相手。惹かれてはいけない人。
 初めて好きになったのは―—―—―—先生。






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