球技大会から一ヶ月後、万葉は久しぶりに放課後の美術室へと向かっていた。
結局、怪我は突き指というほどでもなく少し痛めただけだったようで、一週間ほどで腫れも引いていたのだが、何となく気が引けて部活に出ていなかったのだ。
今日こそは、と思い美術室の前まで来たが、中から聞こえてきた声に葵の取り巻きが来ていることを知る。万葉は引き戸にかけた手を引っ込めた。
そのまま
踵を返そうとしたとき、目の前のドアがガラリと音を立てて勢いよく開いた。驚いて肩がびくっと跳ねる。
「何してんだ、矢野。入らないのか?」
ドアについた小窓から万葉の姿が見えてやって来たのだろう、葵がそう言った。
「いえ……今日はやっぱり帰ります」
「ふうん。あ、そうだ、指は?治ったか?」
その言葉に万葉は驚いて葵を見上げた。
―— 覚えててくれたんだ…… ―—
忘れているだろうと思っていたのに、ちゃんと覚えてくれていた。
ただそれだけのことがひどく嬉しかった。
口の端が自然と上がり、万葉は自分でも知らずに微笑んでいた。すっかり治った指を前に出し、葵に向かって証明するようにグーパーと動かして見せる。
「おー、良かったな」
ニッと笑う葵に万葉の心臓が音を立てる。それを誤魔化すように手を下ろし、少しだけ視線を逸らす。
「ところで、あいつら居るから帰るって言ったのか?」
葵の問い掛けに躊躇いながら小さく頷くと、上から微かにため息が聞こえた。
「ほんと悪いな」
首の後ろを掻くようにしながら葵がすまなさそうに少しだけ眉を下げる。それを見て万葉は首を横に振った。
以前は彼女たちの騒がしさも全て葵のせいにしていた。だが本当は葵が謝るべきことではないことくらい万葉にも分かっていた。
「家では描いてんの?」
「少し」
「まあ気が向いたらまた来いよ。待ってるからな」
最後の言葉に思考が一瞬停止する。それを面白がるように葵が万葉の顔を覗き込んだ。
「返事は?」
「え、あ、はい」
万葉の返答に満足したのか、葵はくっくっと笑いながら美術室へと戻って行った。
しかし、この日を境にさらに葵の顔を見ることが出来なくなった万葉は結局、冬休みに入るまで一度も部活に出ることはなかった。
「万葉、購買行くの付き合ってくれない?」
四時間目が終わってすぐ、教科書を片付けているところに紗耶がやって来た。手にはすでに財布が握られている。
「いいよ。私もジュース買いたいし」
「やった」
早めに行かないと混んでしまうので、二人は少し急ぎ足で玄関の近くにある購買まで行った。まだそれほど並んではいないようで、すぐに買うことが出来た。
ジュースとパンを手に抱えた二人が教室に戻る途中、廊下に一段と騒がしい声が聞こえた。
「何だろ、すごい盛り上がってるけど」
「六組みたいだけど……ねえ、ちょっと見てみよ」
そう言って教室の中を窺う紗耶の後ろから万葉もひょいと顔を出した。
「じゃあとりあえず一次会はカラオケで!」
黒板の前に立っている男子生徒がチョークを持ってクラスメイトに呼びかけていた。黒板を見れば何やらカラフルに書かれた大きな文字が並んでいる。
「へえ、クリスマスパーティーやるんだ」
どうやら紗耶も同じものを見ていたらしい。黒板にはプレゼント交換やらケーキはどうするやらと、クリスマスらしい事が色々と書かれていた。
「仲良いんだね」
自分のクラスも仲が悪いわけではないが、このクラスのようにプライベートでも皆で集まって何かをするほどではない。
少し羨ましさを感じながら万葉が答えると、さらに後ろから声が聞こえた。
「何してんだ、お前ら」
二人同時に後ろを振り向くと、片手に持ったバインダーを肩に乗せながら葵が立っていた。万葉は反射的にパッと俯き、まるで紗耶の後ろに隠れるように半歩下がった。
「葵ちゃん」
「随分やかましいな、うちのクラス」
「何かクリスマスパーティーやるみたいで盛り上がってるよ」
紗耶が答えると、葵は面倒くさそうに顔を
顰めた。
「それはまた面倒なことを」
「あ、葵ちゃん!」
教室の中にいた生徒の一人が入り口にいた葵に気付いて声を上げた。クラス中の視線が葵に集まる。その中の一人の女子生徒が葵に駆け寄って来た。
前髪をゆるく編み込み、ほとんど素に近いほんのりとしたメイクの可愛らしい女の子だった。
「ちょうど良かった、いまクリスマスパーティーの話してたんだ。ね、葵ちゃんも来てくれるでしょ?」
そう言って彼女はさりげなく葵の腕に自分のそれを絡めた。
甘えるようなその仕草とそれをそのままにしておいている葵に、万葉は少しムッとした。
「俺はいいよ。お前らだけでやってくれ」
「えー、葵ちゃんいないと寂しいよ。担任だもん、いいでしょ?」
そう言う彼女の後押しをするように、教室の中からもやんややんやと声が上がる。
「ったく、仕方ねえなあ。いつだよ?」
「終了式の日」
「ほんとにクリスマスにやるのか」
苦笑しながら葵が言った。渋々ではあるが、どうやら行くことが決定したらしい。葵は女子生徒に腕を引かれるまま、にぎやかな教室へと入っていった。
「うちらもそろそろ戻ろっか」
「あ、うん、行こう」
ハッと我に返った万葉は誤魔化すようにそう言いながら笑顔を作った。
―— 何でムッとしてんの、私…… ―—
別に葵が誰かに囲まれているのなんて見慣れているし、そもそも自分には関係のないことだ。それなのに何故、こんなに面白くない気持ちになっているのだろう。
もやもやとしたまま歩き出そうとしていた万葉の背中に葵の声が追いついた。
「あ、そうだ。矢野、お前冬休みどうする?」
「え?」
振り返りると葵が教室の入り口からひょいと顔を出していた。
「部活だよ。しばらく来てないけど冬休みも来ないのか」
「え……と…」
戸惑っていると葵がさらに言葉を続けた。
「週一くらい来れば?さすがにあいつらも冬休みは来ないだろうし」
確かに、と心の中で呟く。夏休みも葵の取り巻きどころか他の部員すら来ていなかった。静かな教室を独り占め出来る折角の機会を棒に振るのは惜しい。
万葉は葵を見ないようにしながら頷いた。
「それなら月曜でいいか?」
「はい」
「よし、決まりな。一応他の部員にも知らせておくか」
多分来ないだろうけど、と葵は笑いながら言った。
葵の笑顔はいつも通りだった。それを見た万葉は過剰に意識して部活にも出なかった自分が急に恥ずかしくなった。
「葵ちゃん、早く」
葵が戻ってこないことに痺れを切らしたのか、先程の女子生徒が再び葵の腕を引いた。忘れかけていたもやもやが再び顔を出す。
「あー、はいはい。じゃあ矢野、月曜な」
葵は軽く受け流しながらそう言ってドアの内側へと姿を消した。
万葉と紗耶は自分たちの教室へ戻り、買ってきたパンとジュースを机に並べた。その間も万葉の心の中は靄がかかってすっきりとしない。
「どうかした?」
紗耶はパンの袋を開けながら不思議そうに尋ねた。
「どうもしないよ」
そう言った次の瞬間、眉間に紗耶の人差し指がぴたりと当てられた。
「さっきからシワ寄ってる」
「………」
万葉がパッと額を押さえながら黙り込むと紗耶は苦笑した。
「相変わらず葵ちゃん苦手なんだね」
紗耶には以前からそう言っていたので、今の万葉の表情を苦手意識からくるものだと勘違いしたらしい。
苦手といえば苦手であるが、以前のそれとは違う気がする。だが、訂正しようにも自分ですらはっきりとしない感情をどういえばいいのか分からず、万葉は情けなく眉を下げた。
「いい先生だと思うけどなー。生徒と対等に話してくれるっていうかさ」
紗耶はジュースに手を伸ばしながらそう言った。つられるように万葉もジュースを手に取り、ストローをくわえて気のない返事をする。
「んー……」
―— それはもう分かってるんだけど…… ―—
校庭で生徒と遊ぶ姿や、廊下で楽しげに話す姿を幾度となく目にしてきた。
他の教師のように威圧的ではなく、しかしながら友達のように接していてもきちんと線を引くところでは引いている。そういう彼だからこそ生徒に人気があるのだろう。
分かってはいてもやはりさっきのような場面を見ると嫌な気持ちになってしまうのだ。それに今は自己嫌悪も混じっているので更にだ。
「でもさ、なんか万葉やっかまれそうだよね」
未だに浮かない顔をしている万葉を見て、紗耶が唐突に言った。
「え?何で?」
「だってさ、部活で冬休みも一緒にいられるわけでしょ?しかもほぼ二人で。万葉が葵ちゃん苦手だってことを知らない人達からすれば羨ましがられる存在じゃない」
紗耶の言葉に万葉はぽかんと口を開けたまま固まった。だが、取り巻きも他の部員も来ないということはそういうことだ。言われて初めて気が付いた。
「葵ちゃんのファン多いしさ」
「……やっぱり冬休み行くのやめようかな」
葵と二人になるかもしれないということ。葵のファンにやっかまれるかもしれないということ。この二つで行きたくない気持ちが倍増する。
万葉が頭を抱えて唸ると、紗耶は笑いながら彼女の背中を叩いた。
「やだ、冗談だよ」
「でも無くはなさそう……っていうか絶対あるよ」
「本当にそうなったら私が守ってあげるから」
紗耶は情けない声を出す万葉に向かって胸を張ってそう言った。冗談交じりの宣言に思わず吹き出してしまう。
「ありがと。頼りにしてる」
二人で笑い合っているうちに、それまでのもやもやもいつの間にか吹き飛んでいた。