「おはよ、万葉」
 朝から相変わらず元気のいい紗耶はガバリと万葉の背中に乗っかり、笑顔で挨拶をする。万葉もそれに笑顔で応えた。
「おはよ」
「久しぶり……でもないか。三日前会ったもんね」
 そう言って紗耶は万葉から離れながらケラケラと笑った。
「あっという間に終わっちゃったね、夏休み」
「ほんと、もうちょっと長くてもいいよね」
「宿題終わった?」
 万葉が聞くと紗耶はガッツポーズをしてみせた。
「いやあ、助かったよ。万葉いなかったら死んでたね。あり得ない、あの量」
 三日前、紗耶は宿題が終わらず万葉の元に泣きついてきたのだった。どうやらあのあと全て終わらせられたようだ。
「よかったよかった」
「お礼に今度何かおごるね」
「やった」
 休みが終わってしまったのは寂しいが、こういう風に学校で話すのもなんだか楽しいものだ。万葉はにっこりと微笑んだ。
「そういえばさ、来月球技大会あるでしょ」
 思い出したように唐突に紗耶が話を変えた。その勢いに若干押されながらも万葉は頷いた。
「あるね」
「その時さ、一緒にバスケやらない?」
「バスケかあ……私、あんまり運動得意じゃないんだけど」
 万葉は情けなく眉を下げ、そう答えた。紗耶は中学時代、陸上部だったらしく体育の授業でもそれは見事な運動神経を発揮していたが、万葉はそうはいかない。
「いいんだって。球技大会なんてお遊びだよ。ね、お願い」
 両手を合わせて可愛らしくお願いをする紗耶の表情に、万葉はふと思い立ってにやりと笑った。
「そんなにお願いするってことは……もしかして」
「さすが万葉。鋭いわ」
「田内先輩が出るわけだ?」
 ほんのりと頬を染めて頷く紗耶は女の万葉から見ても可愛らしかった。
 田内先輩というのは夏休み前くらいから紗耶がカッコいい、と騒いでいる上級生だ。どうやら球技大会でバスケに出場することをどこかで聞きつけたらしい。
「仕方ないなあ。それなら協力するしかないでしょ」
「やったあ!万葉、大好き!」
 勢いよく紗耶に抱きつかれ、万葉は思わずよろめきながら笑った。




 ダンッ、ダンッ、と床にボールがぶつかる音が体育館に響く。
「万葉!」
 ゴールに向かって走っていると後ろから紗耶の大きな声が聞こえ、振り向くとボールが飛んできた。
「わっ」
 反射的に手を出してそれを受け取り、そのまま夢中でシュートする。バックボードにぶつかったボールはなんとかリングに納まった。
「ナイッシュー!万葉!」
「いいぞー!矢野―!」
 コートや外野から声援が送られ、万葉は少し照れくさそうにしながら笑った。
「次いくよ、万葉!」
「うん!」
 今まで自分でも知らなかったが、運動は苦手ではあってもこうして楽しむ球技は好きなようだ。
 しかし、次にボールを受け取った時に指に痛みが走った。
「痛っ……」
 どうやら先程変なとり方をして突き指をしてしまったらしい。ちらりとスコアを見れば残り時間はあと三分を切っている。
 
―— あと少し……大丈夫だ… ―—
 
 万葉は痛みを堪えながら試合終了のブザーが鳴るまでコートの中を走り続けた。
「やったあ!勝ったよ!」
「女子すげえじゃん!このまま連勝いけるんじゃね?」
 空き時間に応援に来てくれていたクラスメイトがやんややんやと囃し立てた。
「万葉、全然上手いじゃん。次は何組とだろ……万葉?」
 左手を押さえて俯いていた万葉の様子に気付いた紗耶が心配そうに覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「ちょっと突き指したかも」
「嘘?!早く保健室行かなきゃ!」
「大丈夫だよ、そんなひどくないと思うし」
「いいから行くよ!」
 半ば無理やりのように紗耶に手を引っ張られ、万葉は保健室へと向かった。
「いつから痛めてたの?」
「えっと……最後の方…かな」
 何故だか紗耶は機嫌が悪いようで、万葉は少し躊躇ためらいがちに答えた。
「ずっと我慢してたの?痛かったらすぐ交代すればよかったのに」
「あと少しだったし……ごめん」
「何で謝ってんのよ」
 そう言って紗耶は足を止めた。思わず万葉の肩がビクッと揺れる。
「……ごめん、私が誘ったから…」
 紗耶のしゅんとした声を聞いて万葉はふっと肩の力が抜けた。
 不機嫌だったわけではない。紗耶はただ心配してくれていただけだ。自分が誘った所為で怪我をしてしまった、と責任を感じているだけだった。
「違うよ、私がちょっとドジしただけ。ほら、運動下手だからさ」
 だが、紗耶はそれでも浮かない顔をしている。
「じゃあ今度クレープおごって。それでチャラ、ね?」
「……うん」
 万葉が重ねてそう言うと、ようやく紗耶も表情を和らげた。
「ねえ、紗耶、次の試合あるんじゃないの?」
「あ、うん。でも心配だし、まだ時間もあるから」
「大丈夫だよ、自分で行くから。今のうちに私の代わりに誰か出てくれる人探しといてよ」
 紗耶は渋々だが頷き、それから心配そうな顔をして万葉の腕に触れた。
「ちゃんと保健室行ってね?」
「うん。終わったら応援行くね」
 そう言って手を振って別れると、万葉は保健室に向かって歩き出した。今更ながらズキズキと指が痛む。
「失礼します」
 痛めていない右手でノックをしてから入室するが、そこに保健医の姿は見えなかった。ベッドの方も覗いてみたが、どうやら出かけているらしい。
「……勝手に使ったらまずいかな」
 壁の戸棚におそらく湿布などがあるだろうが、勝手に取り出して使っていいものか迷いどころだ。万葉はウロウロと迷った挙句、そおっと扉に手を伸ばした。
「あれ、何してんの?」
 いきなりドアがガチャリと開いて顔を出したのは保健医ではなく、葵であった。
「あ、あの、突き指しちゃって……保健の先生いなかったから…」
 突然のことで驚いたのと、勝手に戸棚を開けようとしていたことに後ろめたさを感じ、しどろもどろになりながら万葉は答えた。
「安曇先生いないの?どれ、指見せて」
「え、あの」
 オロオロしているうちに葵に手を取られ、万葉は思わず固まった。
「ちょっと腫れてんな……指、曲げられる?」
 万葉は頷いた。痛いが、曲げられないほどではない。
「とりあえず湿布しておくか。そこ座って待ってろ」
「は、はい」
 万葉は言われた通り、近くにあった丸椅子にちょこんと座った。そこに湿布と包帯を持った葵が戻ってくる。
「何で怪我したの?」
「バスケ」
「ああ。気を付けろよ、バスケは怪我多いから」
 そう言われももう遅い。葵と視線を合わせられず、万葉は湿布を張ってくれている彼の手元をじっと見つめた。
 
―— 綺麗な指…… ―—
 
 器用な手つきで包帯を巻いていくスラリとした彼の指を見ながら万葉はそんなことを思った。
「でもまあ良かったな、左手で」
 突然言われた言葉にきょとんとして万葉が視線を上げると、ニッと笑った葵と目が合った。
「絵、描けるだろ」
「………」
 その表情はあの放課後に見た笑顔と同じだった。
「よし、出来た。とりあえず動かさないようにして。俺だと当てにならないから、あとでまたちゃんと安曇先生に見せろよ」
「……はい」
 ぱっと視線を逸らし、万葉は頷いた。
 あの時のように胸がドキドキとうるさい。聞こえるわけはないのだが、それでも葵に聞こえてしまうのではないかと思った。
 二度もあの笑顔にやられてしまい、万葉は自分の感情に戸惑いを覚えた。
「あ、やべ。俺、頼まれて来たんだった」
 そう言って葵は再び戸棚から湿布を取り出した。どうやらどこかでも怪我人が出たらしい。
 
―— 待って ―—
 
「ん?」
 気付けば万葉は急ぎ足で出て行こうとする葵のシャツを掴んでいた。どうした、と葵が振り返る。
 自分の行動に驚きながら、それでも万葉は顔を少し下げたまま口を開いた。
「あ、あの……ありがとうございました」
 震えそうになるのを何とか抑え、小さな声で礼を言う。
 頭上でふっと笑い声が聞こえたかと思うと、次に頭の上に葵の手がぽんぽんと乗せられた。
「おう、お大事にな」
 そう言って葵が保健室を出て行った後、万葉は自分の薬指に巻かれた包帯をそっと押さえ、しばらくの間立ち尽くしていた。
 
―— どうしよう…… ―—
 
 苦手だったはずなのに。
 あの笑顔を見ると、心が騒ぐ。
 あの手に触れられると、その場所が熱を持つ。
 
―— なに……これ…? ―—
 
 生まれてこの方、恋をしたことがない。だからこれが恋と呼べるものなのか分からない。
 けれど、これが恋じゃないというのなら、心臓をぎゅっと掴まれたようなこの胸の苦しさは一体何なんだろう。
 万葉は心なしかいつもより熱く感じる頬を押さえ、戸惑いながら嘘でしょ、と小さく呟いた。






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