「で、結局美術部にしたんだ?」
 昼休み、お弁当を広げながら紗耶が唐突に聞いた。
「あー……うん」
「何その曖昧な返事」
 万葉の口籠る様子に紗耶は苦笑した。
「いや……ちょっと後悔してて」
「何で?」
「……あの先生だよ」
「葵ちゃん?」
「そう」
 万葉思い切り嫌そうな顔をして盛大にため息をついた。
「何かあったの?」
「何かっていうかもうあの先生のせいで部活にならない。先生が部室に来るとまともに部活する気のない先輩とか関係ない生徒が集まってきてうるさいの」
「あー、なるほど」
 紗耶はご飯を口に運びながら少し上を見て頷いた。その状況を見てもいない彼女が瞬時に理解出来るほど、普段から葵はいつも誰かしらに囲まれていてすごかったのだ。
「部室があれば広々使えるし、活動も自由だから楽だって聞いてたのに……いや、確かに自由だけど、自由すぎる!こんなんだったら入部した意味ないよ」
 だけど美術室に行くのを止められないのは、葵とその取り巻きが来ない静かな日にあの広い教室を独り占め出来るからだ。絵の具の匂いと夕方になって赤く染まる廊下が好きだった。
「でもさすがに顧問の先生に来ないでとか言えないしさ」
「それ言えたらすごいわ。なるべく来なさそうな日を狙って行くしかないね」
 言いながら紗耶がケラケラと笑った。
「ほんっと面倒くさい!!」
 万葉は眉をしかめ、ご飯を乱暴に口に放り込みながら先日のことを思い出した。




 スケッチブックを広げていた万葉は、彼らに聞こえないように小さくため息をついた。もっとも、そんなことをせずとも騒がしい彼らに聞こえるはずはないだろうが。
「やだ、葵ちゃん最高!」
「もっかいやって!」
「これか?」
 彼らの方には背を向けているので何をやっているのか知らないし知りたくもないが、葵がそう言った次の瞬間、きゃーっと黄色い声が上がる。
 万葉は顔を顰めた。高い声がキンキンと耳に響く。いっそ耳栓でもしたいくらいだ。
「一回でいいからうちらとデートしてよう」
 甘えた声が耳に障る。絵に集中しようとしても気が散らされて仕方ない。
「ダメだっつの。俺は教師だって何回も言ってるだろ」
「えー、いいじゃない、別に」
 駄目に決まってるじゃない、と勝手に耳に入ってくる会話に突っ込みながら、万葉は窓に映る彼らをちらりと見やった。
「良くねえから言ってんの」
「じゃあ卒業したら絶対してよね」
「まあ考えといてやるよ。ほら、部活しないならそろそろ帰れよ」
 葵がそう言うと彼女たちは不満の声を上げた。
「葵ちゃん、冷たーい」
「お、せっかく玄関まで送ってやろうと思ったのにな」
 再びきゃーっと声が上がり、万葉は頭に手をやるフリをしてさり気なく片方の耳を塞いだ。軽い口調の葵に心底げんなりする。何だかんだ言っても結局、女子生徒に言い寄られて調子に乗っているのだ、と思った。
 その間にも葵たちは美術室を出て行ったようで、ようやく静かな空間が戻ってきた。
 
―— やっぱり間違いだったわ ―—
 
 心の中で苦々しく吐き捨てながら、万葉は夕焼けに染まった後ろ姿を思い出した。
 あんなに綺麗な絵を見た後だったからだろうか、その絵を描いた本人もすごく綺麗な人に見えた。
 実際に葵はかなり美形ではあったが、別にそれほど興味を引かれる存在ではなかった。むしろ苦手としていたのだが、あれ以来、万葉の見る目が少し変わった。
 が、それも入部してすぐに元に戻った。
 毎日のように代わる代わる部室にやってくる取り巻きと、それを教師にあるまじき軽薄さであしらっている葵を見ていれば、戻らざるを得なかったという方が正しいだろう。一時でも自分があんな風に思ってしまったことが嫌になる。
「やっぱり美術部、止めればよかったかなあ」
 だが、そうなればあの絵は見られなかったかもしれない。そう思うとやはり惜しい気がする。
 万葉は再び大きくため息をついて、描き途中の絵に意識を戻した。




 数ヶ月が経ってようやく夏らしくなってきた放課後、鍵を借りに職員室に行った万葉は葵の姿を探して見回した。が、彼の姿は見当たらず、他の先生に声をかける。
「美術室の鍵?ああ、さっき前嶋先生が美術室に向かったから空いてるんじゃないか?」
「そうですか、分かりました。ありがとうございます」
 普段は美術室が空いていることの方が少なく、いちいち行ったり来たりするのが面倒なので初めに鍵を借りに来ていたのだが、珍しく今日は当てが外れたらしい。
 また行き違いにならないように、万葉は鞄を持ち直すと少し急ぎ足で美術室へと向かった。
 校舎の三階の端にある美術室へ辿り着くと、ドアに付いている小窓から中を覗く。だが、そこにも葵の姿はなかった。
「もう戻っちゃったのかな」
 言いながらドアに手をかければガラリと音を立てて開いた。
 葵はいないようだが、部屋は開いている。美術部員なのだから勝手に入ったって問題ないはずだ、と思いながら中に入って鞄を床に置いた。
 万葉のお気に入りの場所は校庭が見える窓際だった。そこに机を移動させ、スケッチブックと鉛筆を持って腰掛ける。
 初めて来たときと変わらず、野球部の声が聞こえてくる。普段使う教室から離れている為、それ以外に騒がしい生徒の声などはあまり聞こえてこない。それも万葉のお気に入りの一つだった。
 今日は葵とその取り巻きがいなくてとても静かだ。それに天気もいいし、鼻歌でも歌いたくなるくらい気分が良かった。
 さらさらと鉛筆を白い紙の上に滑らせる。いま描いているのはここから見える風景だ。大分出来上がってきて、あと少しで完成というところだ。
「へえ、上手いもんだな」
 突然後ろから声をかけられ、万葉は思わず息を呑んだ。声を出さなかっただけ偉いと思って欲しい。
 ぱっと後ろを振り向くと、葵が腕を組みながら万葉のスケッチブックを覗き込んでいる。思いもよらないその近さに咄嗟に体を引いた。
「中学でもやってたのか?」
 そんな万葉の心境などどこ吹く風で葵が訪ねてくる。
「……ち、中学ではやってなくて…」
「ふうん。学祭で展示でもさせてやればよかったな」
 すでに終わってしまった学校祭は主に文化系の各部が展示をしたりするいい機会ではあったが、まともに活動していない美術部では誰もそれをする者はいなかった。描いているだけで満足な万葉にしても展示などとてもじゃないがしたくない。
「い、いえ、別にそういうのはいいので……」
 オロオロとしながら視線を下げると、頭上からふっと笑い声が聞こえた。
「何でそんな固くなってんの」
「………」
 固くなっているかもしれないが、それはただ葵が苦手だからだ。苦手なものに対面して平然としていられるほどまだ大人ではない。
 どう答えてよいものか考えていると、ほら、と声がして頭の上に何かが乗った。
 何だろう、と怪訝に思いながらも頭に手をやるとチョコ菓子がひとつ乗っかっていた。それを手に持ちながら葵に視線を向ける。
「いつも矢野だけは真面目に部活やってるからな。ご褒美」
 そう言って葵はまるで少年のように無邪気に笑った。
 万葉は思わずその笑顔にくぎ付けになった。心なしか鼓動が早く感じる。葵から視線を逸らせない。
「今日はゆっくり描けるだろ」
「え?」
「悪いな、いつもうるさくて。あいつら言っても聞かねえんだ」
「……意外…」
「ん?」
「てっきり喜んでるのかと思ってましたけど」
 ついポロッと零してしまった言葉にハッとして口を押さえたが、もはや遅い。葵が苦笑いしながらこっちを見ていた。
「いやー、お前はっきり言うね」
「す、すいません」
 そう言って万葉が頭を下げようとする前に葵が可笑しそうに笑いながらゆるく手を振った。
「別にいいよ。あながち間違いではないし」
「やっぱ喜んでるんですか」
「そりゃ慕われて嬉しくないわけないからな」
 とは言うものの、あまり嬉しそうではなく見えたのは気のせいだろうか。だが、すぐにいつもの笑みで言葉を続けた。
「まあ、今日はもうあいつらも来ないだろうから好きなだけ描いてけよ。下校時刻過ぎても大目に見てやるから」
 そんな簡単に教師が大目に見ていいのだろうか、と戸惑いつつも絶好の機会を得た万葉に異論はなかった。
「ああそうだ、これ預けとくな。職員室にいるから終わったら鍵閉めて持ってきて」
 そう言って葵はポケットからプレートの付いた鍵を取り出し、万葉の目の前にかざした。
「……はい」
 差し出された鍵を受け取りながら万葉が返事をすると、葵は小さな子にするように彼女の頭をポンポンと軽く叩いて去って行った。
 彼がいなくなってから彼の手が触れた場所にそっと手を置く。
 
―— 大きな……手… ―—

 自分のとは全然違う大きな手。
 あの手があの美しい風景を描くのかと思うと、何故か胸がドキドキと高鳴った。
 せっかく静かな美術室を独り占め出来たというのにそれから先、万葉は一向に筆が進まないまま下校の時刻までスケッチブックを膝に乗せて過ごした。






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