シャープペンを持ったまま頬杖を付き、欠伸を噛み殺す。昼休みが終わってからの授業は眠気がまして殊更に身が入らず、ただぼんやりと黒板を眺めるだけになっていた。
 夏休みが終わって一ヶ月。葵と会えるのは朝と帰りのSHRと部活の、それも葵の取り巻きがいない時だけ。夏休み中のデートも結局、あの一度だけだった。
 教師と生徒という立場上、絶対に秘密にしておかなくてはならないし、バレるような軽率な行動は控えた方がいいのは分かっている。が、寂しいと思ってしまうのもまた仕方のない事実である。
 万葉はポケットからこっそりとケータイを取り出し、机の下で開いた。待ち受け画面を目にした彼女の口元が少し緩む。
 そこに映っているのはあの日の海の写真だ。本当は二人で撮った写真にしたいところだが、万が一誰かに見られたらひとたまりもないので諦めた。
「……野、おい、矢野って」
 綺麗な白い砂浜の写真を眺め、万葉は小さくため息をついた。
 会いたいと思えば思うほど二人になれる時間は来ない。最近では葵の姿を探して視線を彷徨わせるのがクセになってきているような気すらする。
「おい、矢野……あー…」
「矢野!」
 小さく残念そうな声が聞こえたような気がした。と、同時に真横から突然大声で呼ばれ、万葉は両肩をびくっと竦めた。恐る恐る横を見上げると、教科書を片手に持った教師がすぐそばに立っている。
「……あ」
「何をぼーっとしてるのかと思えば……没収!」
「あ、ちょ、待っ……」
 持っていたケータイをさっと取り上げられ、縋るように伸ばした手は無情にも空を掻く。周りからはクスクスと笑い声が聞こえ、居た堪れなさが込み上げてきた。
 やれやれ、と大きなため息を吐きながら教師が教壇に戻っていくのを情けない顔で見送る。
「馬鹿だなー、さっきから呼んでやってたのに」
 声の方を振り返ると、洸大が隠そうともせずにクックッと笑っていた。
「……先生来る前にもっとちゃんと教えてよ」
「おー、俺の所為だってか」
「………」
 小声で話しながらからかうような笑みを浮かべる洸大に、万葉はぷいっとそっぽを向いた。別に洸大の所為ではない。というか完全に自分の所為なのだが、あからさまに面白がられてはこちらが面白くない。
 前の席の紗耶がちらりと振り返り、やっちゃったね、と小声で言った。情けない顔で頷くと、彼女もクスクスと笑った。
 授業が終わった後も何人かのクラスメートにからかわれ、万葉は苦笑いを浮かべた。
「災難だったねー、万葉」
「ほんと……放課後まで返って来ないよね、あれ」
「んー、だろうね」
「……だよね…」
 がっくりと肩を落とす万葉の頭を紗耶がよしよし、と撫でる。
「なに、彼氏の写真でも見てたの?」
「……っ…」
 彼氏の写真ではないが、あながち間違いではない。思わず頬を赤くして一人あたふたとしてしまう。
「やだもう、万葉、可愛い!やっぱ写真見たいかもー」
 キャッキャッと楽しそうにはしゃぐ紗耶の横からひょい、と洸大が顔を出した。
「え、何、矢野って彼氏いんの?」
「ちょ……だから勝手に話聞かないでよ!」
 いつもながら唐突に話に入ってくる洸大には困ってしまう。つい口調も厳しくなるというものだ。
「聞こえるんだからしゃーねーべ。で?いるの?彼氏」
「……野宮君には関係ないでしょ」
 恥ずかしさを誤魔化すように少し素っ気ない態度で答えると、洸大はニヤッと笑って顔を覗き込んできた。
「その言い方はいるんだな」
「なあに、野宮君。万葉に彼氏がいるかいないか、気になるわけ?」
 すかさず紗耶がフォローに入ってくれるが、そのフォローがまたどこかずれている。
「いや、なんか矢野って大人しそうだから意外でさ。森末なら納得なんだけど」
「ちょっとそれどういう意味よ」
「別に?」
 いつの間にか話が違う方へ逸れ、万葉は言い合う二人を横目にホッと息をつく。
 彼氏がいること自体は別にバレても問題ないとは思うのだが、気分的に何だか気恥ずかしいのと、念の為あまり知られないほうがいいのではないかと思う。
「じゃあ野宮君はどうなのよ」
「なに、森末は俺の事気になるわけ?」
「……野宮君ってホントいい性格してるよね。ちょっと、万葉も何とか言ってよ」
「森末こそだと思うけど。なあ、矢野」
 未だ隣でやんやと騒いでいる二人からいきなり話を振られ、思わず本音が漏れる。
「二人ともいい性格……」
「万葉?」
「矢野?」
 だよ、と続けようとしたのだが、二人からの視線が痛すぎて言葉に詰まる。
「まあ、あの、ね。そろそろ止めたら?」
 気を取り直して仲裁に入るが、二人は尚も言い合っている。実に賑やかな中休みだ。
 しかし、その賑やか且つ和やかなそれを教室の反対側から見ていた視線があったことに誰も気付いていなかった。




「失礼します」
 放課後、職員室を訪れた万葉はコンコン、とノックをした後、引き戸を開けて入室した。
 キョロキョロと中を見回し、目当ての教師を探す。いま立っている入り口から少し離れた奥の壁側にその姿を見つけ、万葉はそちらへ向かった。
「あの」
 教師が振り向き、万葉の顔を認める。
「ああ、ケータイ取りに来たのか」
「はい」
 頷く万葉に、教師が小さくため息を吐く。
「学校に持ってくるなとは言わないけど、授業中はいかんぞ。今度からはちゃんと電源切って仕舞っとけよ」
「はい、すみませんでした」
「よし」
 そう言って教師は万葉のケータイを手渡した。ようやく自分の手の中に戻って来てホッとする。
 戻ろうと思って踵を返した時、ふと視界に葵の姿が映った。口元だけが面白そうに弧を描いてこちらを見ている。没収されたケータイを返してもらいに来ていたところを一部始終見られていたのだろうことは彼の笑みが物語っていた。
 恥ずかしさに俯きかけた時、彼の唇が声を出さずにゆっくりと動いた。

『アホ』

 口パクでもすぐに分かる簡単な言葉。かあっと頬が赤くなるのが自分でも分かった。
「……し、失礼しました!」
 まるで逃げるように職員室を後にし、万葉はそのまま玄関へと駆けて行った。
 下駄箱に手を付き、少し上がった息を整えていると、後ろから足音が聞こえた。振り返る間もなく呼ばれた声で洸大だとすぐに分かった。
「お、矢野じゃん。ケータイ返してもらった?」
「うん。いま職員室行ってきたとこ」
 戻って来たケータイを見せ、にこりと笑う。
「良かったな。つか、なんで息上がってんの」
「え?あ、うん、ちょっとね」
 慌てて適当に言葉を濁すと、聞いたくせに特に興味もなかったのか、洸大はふうん、と気のない返事を返した。
「矢野、いまから帰るの?」
「うん」
「んじゃ、駅まで一緒に行こうぜ」
「え?」
「俺、今日部活休みなんだけど、他の奴ら先に帰っちゃって……ん?」
 突然過ぎて言葉を失っていると、彼は愉快そうに笑った。
「何その間抜け面。そんな驚くことなくない?」
「だって……一緒に帰るって…」
 まるで付き合っているみたいではないか。誰かに見られたらきっと誤解されるに決まっている。
「平気だって。ほら、帰るぞ」
 洸大は靴を履き替えながらそう言うと、万葉の鞄を取り上げてさっさと歩き出してしまった。
「ちょ、待って!野宮君!」
 慌てて靴を履き替え、万葉は彼の後を小走りで追った。ゆっくり歩いてくれていたのだろう、すぐに追いつくと悪戯な笑顔が返って来きた。
「ほい、カバン」
「……ほんと野宮君って強引だよね」
「そう?」
「そうだよ……もう」
 しれっとした顔で笑ってみせる洸大に毒気を抜かれ、万葉もつられて笑った。
 そうしてしばらくの間、他愛無い話をして歩いていた二人だったが、ふと思い出したように洸大が言った。
「そういや森末が言ってたのってマジ?」
「?」
 何のことだろう、と首を傾げる万葉に、洸大が言い募る。
「彼氏」
「あ」
 あの時は冗談半分で騒いでいたから気にも留めなかったが、こうして改まって聞かれるとかなり気恥ずかしさがある。
「えっと、その……まあ…」
 さっきと同じように曖昧に答えると、洸大も同じようにふうん、と呟いた。
「同じ学校のヤツ?」
 突っ込んできたその言葉に思わずぎくりとする。同じ学校ではあるが、それをそのまま正直に答える訳にもいかない。
「ち、違う学校、だよ」
「どこ?」
「……札幌のほう」
 嘘をつくのは元々苦手だ。こんな風に聞かれても咄嗟に学校の名前なんて出て来ないし、どうしていいか分からず適当なことを口にする。
「何高?いつから付き合ってんの?」
 そう問う洸大の声は中休みの時と違ってやけに真面目だ。じっとこちらを見てくる彼の視線に居た堪れなくなり、万葉はぱっと作り笑顔を向けた。
「もういいじゃん、私のことは。それより野宮君ってレギュラーなんだって?二年の部員多いのにすごいね」
「ん?ああ」
 無理やり話を逸らした所為か、洸大の声は不服そうである。このまま機嫌が悪くなられるのも困るが、かといって話を戻すのもキツイ。
「別に大したことじゃないっしょ」
「充分すごいよ。今度の大会はクラスで応援に行くって話になってるんだよ。知ってた?」
「あー、なんか聞いたわ」
 特に興味がなさそうな洸大に、万葉はそれでも話を続けた。
「頑張ってね。応援してる」
「……おう、任せとけ」
 もしかしたら困ったような笑顔になってしまったかもしれない。だが、やっと洸大が笑って答えてくれたので万葉はほっと胸を撫で下ろした。






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