肩を抱いて足早に歩く葵に必死になってついて行く。途中、ちらりと隣を見上げたが、彼は少し不機嫌そうな顔をしてただ黙って歩いて行くだけだ。
 元の場所に戻ると葵はシートに腰を下ろし、それから万葉を見上げた。
「座って」
 未だ機嫌が直らない葵に促されるまま、彼の隣に腰を下ろそうとすると不意に手を引かれた。
「違う、こっち」
「え?きゃっ」
 半ば倒れるようにして座らせられたのは葵の足の間だった。腕の中にすっぽりと収められ、後ろから抱き締められているような格好だ。その体勢に驚きと恥ずかしさが入り乱れ、一人であたふたしているが葵の腕が解かれることはない。
「せ、先生?」
 なんとか声を出すとコツ、と万葉の肩に葵の頭が乗せられた。まだ少し水に濡れている髪の毛が肌に当たり、冷たさとくすぐったさで思わずびくりと肩を揺らす。
「……ごめん」
「え?」
「最初からついて行けばよかった。あんな野郎共に絡まれるとか……怖かっただろ」
 項垂れるように頭を乗せたまま、葵が呟いた。その一言で彼の不機嫌の理由が自分を心配して故だと分かり、ようやく万葉の顔に笑みが戻った。
「ちょっとビックリしましたけど……先生が来てくれたから」
 自分が絡まれているのに気付いてすぐに来てくれたのだと思うと、すごく嬉しかった。なんだか大切にされているような気になってしまう。
 そんな風に思ってしまったのが気恥ずかしくて、ちょっと軽口を叩いてみたのが間違いだった。
「それにしてもナンパなんて初めて。珍しい人もいるんですね」
「……ほんっと、自覚ないんだな」
 後ろから呆れたような声が聞こえ、万葉を抱きしめる腕に力が籠った。
「頼むから自分が可愛いってこと自覚して」
「は?」
 思い掛けない言葉に万葉はつい気の抜けた声で聞き返してしまった。
「か、可愛いって……そんなことな」
「なくないから」
 赤くなりながら否定しようとした万葉の言葉を遮って葵が力強く断言する。何も言い返せないくらい、強い口調だった。
「今朝だって……」
「え?」
「違う男の車とか乗って来るとか、ほんと見事に振り回してくれるし」
 春樹の車に乗ってきたことを言っているのだろうが、どうしてそれが葵を振り回すことになっているのか分からない。聞き返そうと思って後ろを振り向こうとした万葉の首筋に柔らかなものが当たった。
 それが彼の唇だということに気付いたのはちゅ、と小さな音がしてからだった。
「……っ…!」
 葵の唇が触れているところから広がるように熱が生まれる。万葉の顔は真っ赤に染まっていた。
「せ……先生…?」
 なんとか声を出してみたものの、葵はそれに答えずに万葉の首筋に顔を埋めたままだ。さっきのナンパ男たちのことなどとうに頭に残っていない。今のこの状況の方がよほど衝撃的だった。
 もう一度呼ぼうとした時、唇とはまた違った湿った感触が首を這った。その瞬間、言い知れぬものがぞくりと背中に走った。
「……っ…」
 思わず声が漏れそうになるのを堪え、息を呑む。万葉の体が強張ったのに気付いたのか、葵がようやく唇を離し、腕の力を緩めた。
「すまん、悪ノリした」
 そう言って少し苦笑する葵だったが、当の万葉はどうしていいか分からず、熟れた林檎以上に真っ赤になった顔を俯けた。あと少しあのままの状態でいたら確実に倒れていたであろう。
「海、入るか」
 その場の空気を変えるように葵が立ち上がった。万葉は彼の顔を見られないまま、目の前に手を差し伸べられた手を取る。
「あ、そうだ。矢野」
 歩いている途中で思い出したように葵が振り向いた。顔を上げるとすぐ近くに葵の整った顔が寄せられ、掠めるように唇が触れた。
「ご馳走様」
 ニヤリ、とからかうような笑みを浮かべて葵が言った。お弁当のことを言っているのか、今のキスのことを言っているのか、それともさっきのことを言っているのか。葵の笑みに万葉は再び頬を染めた。
 手を引かれたまま入った海の中は陸の温度に慣れてしまった体には冷たく感じられたけど、いまは火照った体を冷ますのにちょうど良かった。
 それから少し遊んだあと、帰りの時間も考えて二人は三時には車に乗り込んだ。葵曰く、これ以上居ても気温が下がって寒くなるし頃合いだろう、ということだった。
「忘れ物とかない?」
「はい」
 着替えやら何やらの荷物を確認し、万葉は頷いた。
「よし、じゃあ帰るか」
「……はい」
 答えるのにほんの少し間が空いたのはちょっとだけ残念な気持ちがしたからだ。だが帰らない訳にもいくまい。
 車に乗り込んでシートベルトを締める。来る時と同じようにそれを確認した葵がゆっくりとアクセルを踏んだ。車の揺れが心地良く、遊び疲れた万葉はいつしか睡魔に襲われ始めていた。
「眠いのか?眠かったら寝てていいぞ。着いたら起こすから」
「ううん。せっかく先生と一緒にいられるのに……寝たら勿体無い…」
 そう言いながらも気を緩めるとかくんと頭が落ちそうになる。運転席からふっと笑った声が聞こえた気がした。
「矢野」
 閉じそうになる瞼を懸命に開けようと試みるがその重さに次第に負け、うつらうつらし始めた万葉の耳に葵の声が届く。だが、それに返事が出来たのかどうかも曖昧だ。
「……お休み」
 その葵の言葉を最後に、万葉の意識はついに遠くなっていった。




 夏休みも後半に入り、今日は紗耶と二人で買い物に出掛けていた。札幌駅で待ち合わせをして遊んだあと、そのまま万葉の家に泊まりに来ることになっている。
 二人はいくつものお店を回ってあれやこれやと物色し、夕方頃には二人の腕には数種類のショッパーが掛けられていた。
「そろそろうち行く?」
「そうだね。結構買ったし」
「あとで買ったやつ見せっこしよ」
「うん!てか万葉んちにお泊りするの久々だし楽しみー」
 そうと決まった二人は早速駅に向かった。地下鉄からバスに乗り継ぎ、他愛もない話をしながら家までの道のりを辿る。
「ただいまー。紗耶来たよー」
 玄関を開けて少し大きな声で言うと奥から母が姿を現した。
「こんばんは、お邪魔します」
「いらっしゃい、紗耶ちゃん。二人ともずいぶん大荷物ね」
 にっこりと笑って挨拶をする紗耶に母もまた笑顔を向ける。明るくて礼儀正しい紗耶は、両親からもかなり好感を持たれている。
「いっぱい買っちゃいました」
「だって安かったんだもん」
 二人で顔を見合わせて、ねー、と答える。それを見て母は愉快そうに笑った。
「あ、そういえば紗耶ちゃん、小樽は楽しかった?」
 思い出したような母のその一言にハッとして、万葉は笑顔のまま固まった。
 
―— やっば……!! ―—
 
 先日の葵とのデートは春樹と結託して紗耶と小樽へ行く、という嘘をでっち上げた。が、口実に使った紗耶本人に言うのをすっかり忘れていた。ここで彼女が知らないと答えたら万葉のついた嘘がバレてしまう。
 どうしよう、と内心でオロオロとしながら紗耶を見ていると、彼女の視線がちらりとこちらを向いた。その瞳がひどく悪戯っぽく見えたのは気のせいだろうか。
「……はい、すっごく楽しかったです。また行きたいねって今日も話してて」
「じゃあ今度はおばさんも行こうかしら」
「いいですね、一緒に行きましょう」
 紗耶は上手く調子を合わせてくれたようで、そのまま母と楽しそうに話している。二人に気付かれないように万葉はホッと安堵の息を吐いた。だが、このままではいつボロが出るか分からない。
「お母さん、話は後でいいでしょ。買ってきた服とか見たいし部屋行ってるから、ご飯出来たら教えて」
「はいはい」
 これ以上話が広がらないうちに、と万葉は半ば無理やり会話を断ち切り、紗耶の手を引いて二階へと上がっていった。部屋に入るなり紗耶に詰め寄られたのは言うまでもない。
「かーずーはー、今のは何かなあ?」
 笑みを浮かべながらずいっと寄ってくる紗耶を手で制止ながら、万葉は引きつった笑みを返した。
「えっと、今のはね、その……」
「さあ、白状してもらおうか」
 紗耶の笑顔を見れば勝手に口実に使われたことを怒っているのではなく、この状況を楽しんでいるのがありありと分かる。その笑顔に諦めを悟った万葉はぽつりぽつりと話し始めた。
「その、ね……彼氏が……出来まして…」
「で?」
「こないだ海に行ったんだけど……親には言えなくて、その…」
「私と小樽に行く、と」
 続きを奪った紗耶にこくんと頷く。
「お兄ちゃんが向こうに戻る日と同じだったから、お兄ちゃんに送ってもらって紗耶と小樽に行くって……勝手に使ってごめん!」
 目の前でパン、と手を合わせて深々と頭を下げる。と、上からキャー、と黄色い叫びが聞こえた。
「やっぱり!」
「え?」
「絶対彼氏出来たんだと思ってたの!ね、誰?私、知ってる人?写真とか無いの?超見たい!!」
「えと……」
 彼氏が出来たことは打ち明けられても、相手が葵だということはさすがに言うことは出来ない。一瞬だが口籠ってしまった万葉に何かを感じたのか、紗耶はにこりと笑って万葉の背中を叩いた。
「ま、いっか、また今度見せてよ。いいなあ、彼氏とか羨ましすぎる!!」
「……えへへ、いいでしょ」
「うわ、自慢かよ」
 紗耶の気遣いに心の底から感謝しつつ、万葉は彼女の話に乗っかった。
 
―— ごめんね、ホントに…… ―—
 
 万葉は言葉には出さず、心の中で謝った。本当なら今すぐにでも話したい。でも今はまだ話せない。それがもどかしく、そして申し訳ない。
 いつか紗耶に話せるときが来ればいい。そんなことを思いながら万葉は優しい親友に笑みを向けた。






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