洸大と一緒に下校した翌日、万葉は次の授業の準備をしに廊下に備えられているロッカーに向かった。自分の名前が書いてあるロッカーを開け、中から教科書一式を取り出していると、不意に後ろから声がかけられた。
「ねえねえ」
 語尾にハートが付いていそうな女の子らしい高い声。振り向いた先でゆるくウェーブのかかった髪が揺れている。ふんわりとした柔らかさが良く似合う可愛い女の子がいた。
「片桐さん」
 彼女、片桐優奈とは二年になってから同じクラスにはなったが、いつもいるグループも違うし、あまり話したことはない。突然話しかけられて驚いている万葉を余所に、優奈はにんまりと口の端を上げた。
「昨日、野宮君と一緒に帰ってるとこ見ちゃったんだけど、もしかして二人、付き合ってるの?」
「えっ?!」
 唐突な言葉に万葉は目を大きく見開き、驚きの声が普段の倍の声量で口から飛び出す。
「なんかすっごい仲良さそうだったからさ。ね、当たりでしょ?」
「えっと……違う、よ」
 思いもよらないことに動揺して口籠ってしまった万葉の言葉が照れ隠しだと思ったのか、可愛らしい顔に可愛らしい笑みを浮かべて優奈は言った。
「別に隠すことないじゃない。野宮君、カッコいいし」
「だから違……」
「いいなあ、彼氏。羨ましい。私も好きな人いるんだけど、先生だから難しくって」
 こちらの否定などそっちのけで洸大を彼氏と決めつけ、優奈は一人で話し続けている。しかし、万葉は洸大が彼氏扱いされていることよりも、彼女が言った一言にぴくりと反応した。
「……先生…?」
「あ、やだ、言っちゃった」
 ワザとらしく手を口元に添え、優奈は笑った。
「ま、別にいっか、みんな知ってるし」
 そう言いながらちらりとこちらを見たその視線に万葉は思わずたじろいだ。すると、不意に優奈が真っ直ぐにこちらに向き直り、改めて口を開いた。
「私ね、葵ちゃんが好きなの。一年の時からずーっと」
 先程の視線といい、その言い方といい、まるで自分を牽制しているみたいに感じるのは気のせいだろうか。
「そ、うなんだ」
 なんとか動揺を隠してそう告げると、優奈はほんの少しだけ目を細めた。二人の間に一瞬の沈黙が落ち、微妙な空気が流れる。
 それをものともせずに口を開いたのはやはり優奈だった。
「そう、だから絶対に振り向かせてやるんだ」
 彼女の言葉には揺るぎ無い自信が感じられ、その雰囲気に呑みこまれてしまいそうになる。
「この前聞いた時も葵ちゃん、彼女いないって言ってたし、まだまだチャンスはあると思うの」
 その一言に万葉の胸の奥が嫌な音を立てた。
 葵の彼女として堂々と振る舞うことが出来ないのは仕方のないことだ。絶対に秘密を守り通さなくちゃならないことも分かっている。
 だけど、彼女はいない、と葵が言っていたという事実は万葉にとって些かショックだった。誰とは言えなくてもせめて彼女がいると言って欲しかった。
 俯いてしまいそうになるのを懸命に堪えながら優奈から目を逸らさずにいると、彼女はにこりと笑って万葉の顔を覗き込んだ。
「矢野さんも協力してくれる?」
「協力……?」
「うん。だってほら、矢野さん美術部員だし。矢野さんがいてくれたら葵ちゃんに会う口実、いっぱい作れるじゃない」
「……それは…」
「お願い!ね?」
「……うん…」
 あまりの押しの強さに思わず頷いてしまってすぐ、万葉は思い切り後悔した。
「良かったぁ、ありがと」
 にこりと笑う優奈は女の自分から見ても可愛らしい。
 そんな子がライバルだなんて自分には何ひとつ勝ち目なんてないように思えて弱気になってしまう。葵を奪われるのではないか、という不安が湧き上がり、元々なかった自信はさらに萎んでいった。
 そんな万葉に追い打ちをかけるように思い出されたのは去年の終業式の日のこと。あの日、担任クラスのクリスマスパーティーに参加した葵と親しげに腕を組んでいた優奈の姿。今となってみればあれは彼女から一方的に仕掛けたことだろうと分かっているが、当時はひどく辛かったのを今でもよく覚えている。
 その痛みまで思い出してしまい、万葉は胸元で抱きかかえるように持っていた教科書をギュッと握り締めた。

―— どうしよう…… ―—

 唐突に話を切り上げれば優奈に変に思われるだろうか。しかし、これ以上、彼女と話すのは辛い。
 そう思った時、チャイムが廊下に響いた。
「あ、予鈴」
 斜め上を見上げてそう言った優奈に、万葉は内心でホッと息を吐いた。これでこの場を離れられる。授業の始まりを告げる鐘に感謝したのは初めてかもしれない。
「じゃあ、何か情報あったら教えてね」
 そんな万葉の内心など歯牙にもかけず、優奈はひらひらと手を振って立ち去って行く。その後ろ姿を見送りながら、万葉は今度こそ深くため息を吐いた。




「彼氏とケンカでもした?」
 帰り道、不意に紗耶が訪ねてきた。
「え?なんで?」
「お昼くらいから元気ないんだもん」
「そうかな」
「うん」
 そんなにも顔に出ていただろうか、と思わず頬を手で擦る万葉を横目に紗耶はきっぱりと頷いた。そんな彼女に苦笑を向け、それから万葉はため息を吐いてぽつりと零した。
「ケンカとかじゃないんだけど、でも……」
 彼氏に関することなのは間違いない。言いながら沈んでいく言葉尻に紗耶が慌てて顔を覗き込んできた。
「え、なに、ほんとにどうしたの?」
「ちょっと相談っていうか……聞いてもいい?」
 相手が誰という事は知らずとも、自分に彼氏がいるという事を知っていて、尚且つ、相談出来る相手など紗耶しかいない。
 どうしても優奈の言ったことが気になってしまい、残りの授業もほとんど身が入らなかった。このままではグダグダと悩んでしまう一方だろう。
「もちろん!このままどっかお店入ろっか」
「うん」
 快く頷いてくれた紗耶に感謝しつつ、万葉は彼女と共に駅近くのクレープ屋に入っていった。
 甘い匂いの立ち込める店内でとりあえず各々食べたいものを注文した二人は、出来上がったクレープを片手に空いている席に座る。足元に鞄を置いて手にしたクレープを突っつく。
「で、どうしたの?」
 二口ほど食べたところで紗耶が心配そうに尋ねてきた。
「……あのね」
「うん」
「彼のことを好きな女の子がいて、協力してほしいって言われたらどうする?」
 一瞬、ぽかんとしていた紗耶だったが、すぐに怪訝そうに眉を顰める。
「万葉の彼氏のことだよね?」
「うん」
「そんなの断るに決まってるじゃない」
 まあ、普通はそうだろう。しかし、既に頷いてしまっている万葉は恐る恐るそれを口にする。
「でも……勢いに押されて "うん" って言っちゃった…」
「は?!」
 万葉が言った途端に紗耶がガタンと音を立てて身を乗り出した。思わず万葉が身を引くほどに。
「なに頷いてんのさ!」
「ご、ごめん」
「いや、ごめんじゃなくて!その子って万葉と彼氏が付き合ってるって知ってて言ってんの?」
「たぶん知らないで言ってると思うんだけど」
 というか、知られていたら一大事だ。万が一にでも校内に噂が広まれば万葉も葵もひとたまりもない。
「……万葉とその子って仲良いの?」
「ううん、あんまり喋ったこともないよ」
「じゃあなんでわざわざ万葉に協力して、なんて言ったのかな。何かちょっと怪しくない?」
 その言葉に一瞬、ぎくりとする。あの時、万葉も牽制されたように感じられたのだ。
「まあ何にせよ、協力なんてしちゃ絶対ダメだよ。ていうか、する意味が分からん」
「……だよね」
 はは、と乾いた笑いが万葉の口から零れ落ちる。
「まったく……押しに弱いとはいえ、なんで頷いちゃったかなあ」
 紗耶は呆れたようにこちらを見やり、クレープをぱくりと頬張った。
「その子ね、すっごい可愛いの。私なんか比べ物になんないくらい可愛くて、なんか……勝ち目なさそうで…」
 言いながら俯きがちになっていく万葉の額を紗耶の指が思いきり弾いた。
「痛ったぁい!」
 自然と涙目になりながら紗耶を睨むと、彼女は悪戯っぽい笑みを口元に浮かべていた。
「はいはい、それ万葉の悪いとこ。勝手に比べてヘコまない!」
「う……」
「それともなに、万葉の彼氏ってそういうので決めるわけ?」
「……違う、と思う」
「と思うって何よ」
 曖昧な万葉の答えに紗耶は苦笑を漏らす。
「彼氏のこと信じてればいんじゃないの」
「……そうだね、ちょっと弱気になってた」
「そうそう、万葉はちょっとすっとぼけてるところが可愛いんだから。彼氏だってそういうとこ好きなんだと思うなあ」
「なにそれ」
 そんなことを言いながら二人はクスクスと笑い合っていたが、不意に紗耶が笑いを止めて急に真面目な顔をした。
「でも、その子のこと、ちょっと気にしておいた方がいいかも。万葉と彼氏のこと知ってて言ったんだとしたらなかなか厄介だからね」
「……うん」
 頷きながら万葉はあの時感じた感覚が気の所為であることを祈った。
「あーあ、やっぱり万葉の彼氏、見てみたいなあ」
「なに、急に」
「だってそんなにモテるってことはイケメンなんでしょ?」
「イケメン……まあ…そう、かな」
「うわ、出た!ごちそうさまですぅ」
「なっ……紗耶が聞いてきたんじゃない!」
 からかうような紗耶の言葉に頬を赤くさせ、万葉はムキになって反論する。
「まあいいじゃん、カッコいい彼氏さんで。いつか紹介してよね」
 そう言っても絶対に深く聞いて来ないのは紗耶の優しさだ。そのことにいつだって助けられている。

―— ありがとう…… ―—

「うん、絶対紹介するから。待ってて」
「ん」
 にこりと笑う紗耶の笑顔に、万葉の顔にも笑顔が広がる。
 二人はその後も日が傾くまで他愛もないおしゃべりに花を咲かせていた。






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