自分の感情に改めて自覚させられたあの日から一ヶ月が過ぎても万葉が部活に顔を出すことはなかった。
 どれだけ自分が好きになったところで、葵にとってはからかい甲斐のあるただの生徒。そうと分かって想い続けてもどんどん辛くなるだけ。だからもうこれ以上気持ちを寄せないと心に決め、これまで以上に葵から距離を置いた。
 それが崩れたのは夏休みが目前に迫ったある日のことだった。
「ほら、席着け」
 チャイムの音と同時に美術室に入ってきた葵は出席簿を片手にそう言った。生徒たちは少し慌てたようにバタバタと席に着き、それから葵が出席を取る。
「矢野」
「はい」
 一番最後に名前を呼ばれ、万葉は返事をする。いつも通り、何ともない風を装って。
「よし、全員いるな」
「葵ちゃん、今日授業やめようよー」
 気だるげな声が聞こえ、そちらを見ると他クラスの生徒だった。合同の選択授業だからいまいち名前が分からない人が多い。
「何言ってんだ」
「だってめっちゃ天気いいじゃん。こんな時に授業なんてやる気出ないって」
「まあ、確かに……」
 葵は窓の外に目をやって少し考える素振りを見せ、それから思いついたように言った。
「よし、じゃあ外行くか、外」
「やりぃ!さっすが葵ちゃん!話が分かる!」
 男子たちが歓声を上げて早々に美術道具をしまい始めると葵ちゃんはアホか、と言って笑った。
「誰が授業やめるっつった。写生大会だ」
「げっ」
「勘弁してよー」
 クラス中からブーイングが起こるが葵は何ら気にした様子もなく、まあまあと言うように両手を軽く上げた。
「じゃあ一等には俺が学食をおごってやろう」
 その言葉に教室内のざわめきが少し納まる。すると誰かが尋ねた。
「ビリは?」
「準備室の掃除」
「えー」
 再び落胆の重なる声が響く。
「というわけで外行くぞー」
 最早それは決定事項らしく、文句を言う生徒を余所に葵は早々に入り口に向かった。
 だが、彼に続いて美術室を出て行く生徒たちも口では何だかんだと文句を言っているが顔は楽しそうだ。やはり教室で大人しく授業を受けるよりも外でやる方が遊びのようで楽しいのだろう。
 万葉も道具一式を手に持つと彼らの後をついて行き、その途中で気付かれないようにホッと息をついた。外での授業なら少し離れた場所にいれば葵に気を取られなくて済む。
「チャイム鳴るまで校内の好きなとこで描いてていいぞ」
 やったあ、とはしゃぎながら散らばりかけた生徒の背中に向かって葵が一言、大きな声で釘を刺す。
「あ、あとで提出してもらうから。描かないやつ居残りな」
 後ろで上がる不満の声を聞きながら、万葉はそのまま一人で校舎裏まで歩いて行った。選択授業では話はするがこれといって特別仲のいい友達はいなかったので敢えて誘わなかった。
「やっぱりここかな」
 そう言って万葉は立ち止まり、上を見上げた。
 校舎裏の銀杏の並木。秋になるととても綺麗な黄色の絨毯を敷き詰めるお気に入りの場所だ。ちょうど美術室の真下にあるその木をいつも眺めていた。
 万葉はハンカチを敷いた上にちょこんと座り、それからスケッチブックを開いて鉛筆でデッサンを始めた。遠くでクラスメイトが楽しそうに騒いでいる声が聞こえる。案の定というべきか、どうやら真面目に書いている生徒は少ないらしい。
 そんな中でスケッチブックに鉛筆を走らせていると、そよそよと柔らかな風が頬を撫で、髪を揺らしていった。こんな気持ちのいい日に外で絵を描けるなんて、と最初に文句を言ってくれた男子生徒に感謝する。
 上機嫌で筆を進めていた万葉は後ろから誰かが来た気配も、その足音すらも全く気付いていなかった。
「矢野」
「きゃあ!!」
 突然顔を覗き込まれ、万葉は叫び声を上げた。驚いて体を引いた拍子に描き途中の絵の中にいらない線が一本大きく描き込まれた。
「……せっかく描いたのに…」
 思わず落胆した声が零れる。途中までではあるが自分でもなかなか上手く描けたと思っていたのに台無しになってしまった。
「わ、悪い」
 万葉の呟きを聞いた葵はバツの悪そうな顔をして首を擦りながら謝った。
「そんな驚くと思わなくて」
「普通驚きます」
 不機嫌そうに言い返すと葵は少し愉快そうに笑った。反省の色が全く見えない。
「ごめん」
 もう一度謝り、それから葵は万葉の左隣に腰を下ろした。葵が座った途端、触れてもいない左肩が熱をもったように熱くなった気がして万葉は思わず俯いた。
 心は正直だ。
 どんなに距離を置いても、どんなに気持ちを寄せないと決めても、こんな些細なことでいとも簡単に知らしめられる。
 抑えられないほど葵が好きなのだ、と。
「でもやっぱり上手いな」
 先日のことで怒っているはずなのに葵に褒められて嬉しい、と思ってしまう自分が悔しい。悔し紛れに葵の言ったことは無視してやった。
「あの……描き直ししたいので」
 どこかに行って欲しい、というのを口には出さず、雰囲気だけで言う。だが、それに気付いているのかいないのか、葵は一向に腰を上げない。
「描き直さなくてもいいよ」
「掃除する羽目になるのは嫌ですから」
 意地になったように頑なにそう言うと葵は苦笑した。
「ビリにはしないから。俺のせいだしね」
 それもそうか、と内心で納得していると、手に持っていたスケッチブックを奪われた。
「ちょ……」
「お詫びに」
 慌てて取り返そうと手を伸ばすが遮られ、葵はそう言ってさらさらと描き始めた。真っ白だった紙の上に黒い線が濃淡をつけながら形を成していく。
 取り返そうとするのも忘れ、万葉はいつの間にか器用に動く筆先とその先に描かれるものに見惚れていた。そして何よりも普段とは違う真剣な顔つきをした葵の横顔から目を逸らせなくなった。
「出来た」
 しばらくしてそう言った葵の声にはっとして、万葉は視線をスケッチブックに戻した。
「……綺麗…」
 特別でもない、普段は誰の目にも留まらない、その辺に当たり前のように生えているもの。けれど、そこにあったのは風が吹けば今にも揺れ出しそうなほど生き生きと描かれた草花だった。
 葵に命を吹き込まれた草花に万葉は素直に感嘆の息を零した。
「だろ?」
 葵は自慢げにそう言って少年のように笑った。不意打ちのようなその笑顔に胸が鳴り、思わずパッと顔を逸らす。
「そういえば最近、部活来てないな」
「……忙しいので」
 万葉は顔を逸らしたままつっけんどんに答える。誰のせいで行かなくなったのか、本当に分かっていないのだろうか。
「そう。家では描いてんの?」
 そんなことを思っているとは知らずに葵は至って普通に話を続ける。万葉としては一刻も早く葵にこの場を去って欲しかった。
「たまに」
「見せてよ」
「嫌です。大体、このスケッチブックじゃないし」
「なんだ。じゃあこれは見ていい?」
「……別にいいですけど。授業用のなんでどうせあとから提出するし」
 避けていたはずの葵とどうしてこんな校舎の片隅で二人きりで世間話をしているのだろう。万葉はこの状況に困惑した。
 葵はパラパラとページを捲りながら何か呟いている。それからさっきまで描いていた絵のところで手を止めるとそうだ、と思いついたように言った。
「特別賞やるわ」
「は?」
「いや、俺が邪魔しなきゃ一等だったかもしれないし。だから特別賞として内緒で何かひとつ欲しいものやる。何がいい?」
「何でもいいんですか?」
「おう」
 その言葉に魔が差した。いつもからかわれて振り回されているのだから仕返しに思いきり困らせてやろう、と。
 万葉は内心でほくそ笑み、それから普段ならば絶対に言わないような冗談を口にした。
「じゃあ、キス」
「…………は?」
 しばらく空いた後、葵の間の抜けた声が聞こえた。ちらりとそちらを見やれば彼は驚いたままこっちを見ている。整った顔は驚いた表情も様になるらしい。
 ここまでは万葉の思惑通りだった。見たことのない葵の表情に満足し、万葉はクスクスと肩を揺らして笑った。
「嘘ですよ。大体、先生とキスとかあり得ないじゃないですか」
 そこまで言ってから万葉は葵の手からスケッチブックを取り返し、彼が描いた銀杏の木に視線を落とした。
 仕返しが成功して満足なはずなのに、ひとつだけ引っかかるものがあった。視線を逸らす瞬間に見えた葵の瞳が、ほんの少し苦しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。
「矢野」
 万葉の肩がびくりと上がる。名前を呼ぶその声は少し低く、怒っているようにすら聞こえた。
「そ、そろそろチャイム鳴りますね。もう行ったほうがいいんじゃないですか」
 葵の方を見ることが出来ず、スケッチブックに視線を落としたまま答えた。いつもと違う声音に万葉は狼狽え、余計なこと言うんじゃなかった、と早くも後悔する。
 すると不意に何かが頬に触れた。
 それが葵の手だと気付く頃には万葉は彼の方に顔を向けられ、直後、温かなものが唇に重ねられた。
「……っ…」
 焦点が合わないほど近くにある葵の顔。重ねられたのは葵の唇だと知る。
 
―— な……に…? ―—
 
 逃げようにも頭の中が真っ白になっていてどうしていいのか分からない。
 唇は一瞬触れただけですぐに離れていった。が、万葉は固まってしまったようにその場から動けず、呆然と葵を見上げた。
「特別賞、なんだろ?」
 そう言って葵は不敵に微笑わらった。






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