"矢野は勘違い、してくれないの?"
葵は確かにそう言った。
でもその言葉が何を意味するものなのか、そしてどうしてこんなことになっているのか、万葉には理解出来なかった。
―— どういう……意味…? ―—
ガンガンと鳴るように頭の中に響く鼓動の音がうるさくて、それ以外はもう何も聞こえてこない。そして視界に映るのはただ葵の端正な顔だけ。
葵はその顔にどこか甘さを浮かべてこちらをじっと見ている。視線を逸らせようとしても金縛りにあったみたいに動くことが出来ない。
極度の緊張に手が、体が勝手に震えた。
「……っ…」
言葉を発しようと思っても喉の奥が詰まって出てこない。いま自分は呼吸が出来ているのかすらよく分からず、何とも言えない息苦しさが喉をさらに狭める。
何とか意識して息を吸ってみるものの、激しく胸を打ち続けている心臓は一向に治まる気配を見せない。それどころか時間が経つにつれどんどん大きくなっていく。
―— やだ……治まってよ…!! ―—
万葉はきゅっと目を瞑った。そんなはずはないと分かっているのだがあまりにも大きな音で、葵に聞こえてしまうんじゃないか、と心配になってくる。
最早、頭の中はパニック寸前。
それでもこの状況を打破する方法を何とか考えようとしていたところに葵の声が聞こえた。
「矢野?」
名前を呼ばれたことで反射的に瞼を開けると、少し首を傾げた葵が目に入った。
窺うような視線とその仕草に万葉は殊更顔を赤く染めた。同年代の男にはない色気のようなものが醸し出されている。
それ以前に、万葉はこれほど間近で異性と顔を突き合わせたことなど一度もない。ましてその相手は自分の想い人、恋愛経験値が限りなくゼロに近い彼女にとって、いまのこの状況は完全にキャパシティーオーバーだ。
「ねえ、矢野」
葵が再び名前を呼ぶ。
返事の代わりに万葉の目元にじわりと涙が浮かんだ。
「……ふ……っ…」
もうどうしていいのか分からない。瞳の中はあっという間に大きな水たまりになり、目の前にいる葵の姿が滲む。
瞬きをしたら零れてしまいそうなくらいになった頃、葵がふっと苦笑した。それから
徐にコピー機から手を離し、降参したときのように両手を軽く上げた。
「ごめん、冗談が過ぎた」
突然の解放に頭がついていかず、その場から動けずにいた万葉の耳に葵の声が届く。
―— 冗……談…? ―—
「矢野の反応見てたら面白くてつい、な」
付け足されたその一言でいつもと同じようにからかわれただけなのだと気付く。
冷静に考えてみれば当たり前だろう。教師が生徒にこんなことを真面目にやるはずがない。そのことに気付かず自分一人だけが意識していたのだと知り、恥ずかしさと同時に悔しさが込み上げてきた。
「……っ…」
万葉は隣の机に置いていたコピーし終えた紙の束を掴むと、葵に向かって勢いよく投げつけた。バサッと音を立てて紙が舞う。
「わっ」
反射的に腕を上げてガードするその一瞬の隙をついて葵の体を押しやり、万葉は素早くその場から離れて距離を取った。
最初に手から落としてしまったものも合わせ、床一面にコピー用紙が散らばっている。
「矢……」
「最っ低!!」
葵に名前を呼ばせる間もなく万葉はそう言い捨てるとすぐに身を翻して自分の鞄を持ち、準備室を飛び出して行った。
無我夢中で走り、使われていない教室に駆け込むとそのまま力尽きたようにズルズルとしゃがみ込んだ。は、は、と短く呼吸を繰り返し、上がった息を落ち着かせる。
鏡など見なくても分かるくらい頬が熱い。これは絶対に走ったせいなんかではない。
「教師のくせに……バカじゃないの…」
赤くなった頬を抑えようとして両手を当てるが何の意味も成さなず、万葉は文句を言いながらその手をずらして顔を覆った。
悔しくて悔しくて自然と涙が目に浮かぶ。
―— からかわれてただけなのに…… ―—
「……バカ…は私だ…」
自分でも聞こえないほど小さな声で呟き、それから自嘲するように嗤った。
思わせぶりなあの言葉も、甘えるようなあの声も、葵にとってはただの冗談。普段、他の生徒のように懐かない万葉が、馬鹿みたいに真に受けて慌てふためく様を面白がっていただけだろう。
それなのに―—―—。
さっきのあの瞬間が全て本当だったらいいのに、と思ってしまった。
あまりの愚かさに我ながらほとほと呆れてしまう。
葵とどうなりたいのか分からない?
何も思い付かない?
そんなの嘘だ。叶わないと諦めて自分の心を誤魔化していただけ。いま思った事こそが心の底に隠していた本音だ。
「もう……やだあ…」
万葉はそう言って膝を抱えて蹲り、その腕に顔を埋めた。頭の中は色んなことが
綯い交ぜになってぐちゃぐちゃになっていた。
コントロール出来ずに溢れた感情がそのまま彼女の瞳から零れ、万葉は小さく肩を震わせて唇を噛み締めた。
「おう、おはよう」
後ろから頭をぽんと叩かれ、万葉と紗耶は同時に後ろを振り向いた。
「あ、葵ちゃん、おはよー!」
「……おはようございます」
ひらひらと手を振ってそのまま彼女たちの先を歩いて行く葵は、途中途中で同じように生徒に声をかけている。
あれから数日、葵の態度は何も変わらない。何もなかったかのように、全ていつも通りだ。
―— 当たり前……だよね… ―—
実際、何かがあったわけじゃない。
あれはただの気まぐれ。ただからかっただけ。懐かない猫を手懐けようとしたようなもの。葵の態度が変わらないのは至極当然のことだ。
だけど一言くらい謝罪があってもいいのではないか、と心の中で文句を言う。
それとも葵にとってはあの時の万葉の怒りなど取るに足らないものだとでも思っているのだろうか。そうだとしたらさらに腹立たしい。
「万葉、どしたの?」
腹の底で沸々としていると、紗耶がひょいと覗き込んできた。
「ん?何が?」
「すごい顔してるけど」
「……はは…」
すぐに顔に出るのは悪いクセだ。こんなんだから葵にもからかわれるのだ、と万葉は頬を擦りながら苦笑いをした。
「何か怒ってる?」
そう言って紗耶が不安気に問うた。
それを聞いた万葉は慌てて両手を振った。自分が不機嫌だからといって何も関係ない彼女に八つ当たりしていいはずはない。
「ううん、怒ってないよ。朝から会いたくない人に会っただけ」
「え?」
万葉の答えに紗耶は不思議そうに首を傾げる。
―— しまった ―—
余計なひと言を言ってしまったことに気付き、万葉は更に慌てた。
「まあ、いいからいいから。ほら、早く教室行こ」
そう言って誤魔化すと万葉は未だに怪訝な顔をしている紗耶の背を押し、教室へ向かって歩いて行く。が、教室に入って席に着くなり、紗耶が振り向いて万葉の机に腕を乗せた。
「ねえ、さっきの何?」
「さっきのって?」
聞かれるだろうと思っていたが万葉はわざと分からないフリをする。
「会いたくない人って葵ちゃんのこと?」
「……うん」
こうなってしまっては紗耶を振り切ることは出来ない。万葉は頷き、それからふてくされたような声で言葉を続けた。
「私、やっぱりあの先生嫌い」
「それは前から知ってるけど、また何かあったの?」
「……何もないけど………もうホントに嫌」
「何だ、そりゃ」
理由らしき理由もなく嫌という万葉に、紗耶は呆れたように笑った。
「もう部活もしばらく行かない」
「え、そこまで?」
「うん」
意志の強さを示すように首を縦に深く振る。
と、紗耶がすっと目を細めて万葉を見据えた。その視線に押されるように万葉は思わず体を引いた。
「何か隠してる気がする」
「か、隠してないよ」
そう答えても紗耶はじとっとした疑いの視線を外そうとはしない。
「ホントかなあ」
「ホントだってば」
心の中でごめん、と謝りながら万葉は無理やり笑顔を作った。
「あ、そうだ。放課後どっか寄って帰ろうよ。部活も行かないことにしたしさ。ほら、駅前に出来たケーキ屋さん、行きたいって言ってたしょ」
ぺらぺらと捲し立てるように言ってから、ちらりと窺うような視線を向ける。すると紗耶の口から小さなため息が零れた。
「仕方ない、これ以上は聞かないでおいてやりますか」
その言葉にホッと息をつこうとした時、彼女が一言付け足した。
「今はね」
そう言ってにやりと笑う紗耶に、万葉は若干引きつった笑みを返した。