葵の唇が意地悪そうに弧を描き、万葉は自分の頬がかあっと熱くなっていくのを感じた。激しい動揺を隠すことも出来ず、たどたどしく言葉を返す。
「な……に…考えて……」
「キスって言ったのはお前だろ。まあどうせ俺を困らせようとしただけだろうけど」
万葉の動揺などお構いなしに葵はくっくっと肩を揺らして笑いながら言った。彼女の考えた幼稚な仕返しなどとっくに気付いていたのだろう。
だが、それならどうして本当にキスなんてしたのか。
その答えは簡単だ。
仕返しを企んで面白がった万葉に意趣返しをしただけ。いつも通り、からかっただけ。
「……っ…」
喉の奥で言葉は詰まり、それと同時に視界が滲み、涙が溢れた。
「何で泣くの?」
何で、とはこっちのセリフだ。
馬鹿なことを言った自分が悪いのかもしれないが、それでももう限界だった。ボロボロと零れる涙をそのままに万葉はグッと葵の体を押し退けてほんの少し距離を取った。
「矢野?」
「もうからかうの止めて!」
敬語など使う余裕もなく半ば叫ぶように万葉は言った。それをきっかけに内に溜まっていた感情が一気に爆発する。
「この間のことだって……せ、先生にとってはただの冗談かもしれないけど……私…は…」
どうせ葵には万葉の幼い恋心もお見通しなんだろう。だが、彼にとっては他愛ない子供の想いに見えるかもしれないが、万葉にとっては全てが初めてで悩みながらも持ち続けていた大切な想いなのだ。
それを面白半分に振り回して、掻き乱して、もういい加減にして欲しかった。
「先生なんか……大っ嫌い…」
大嫌い、と掠れた声で繰り返し呟き、しゃくりあげながら乱暴に涙を拭っていると、不意にその手をぐっと握られた。
「や……放し…」
反射的に振り解こうとすると逆に握られた手を強く引かれ、葵の方に引き寄せられた。
「冗談だって?」
万葉の言葉を遮って聞こえた声はいつもより少し低く、どこか苛ついたような怒気を孕んでいるように思えた。
「なあ、こんなこと冗談で生徒にすると思う?」
そう問われても万葉には答える術はなかった。
冗談でなければ一体何だというのか。葵の考えていることが全く分からない。
「………」
「冗談……なわけないだろ」
答えない万葉に代わって葵はふっと自嘲するような笑みを浮かべて自答した。その笑みは寂しげで、見ているこちらの胸が締め付けられたように苦しくなった。
「矢野は嘘だった?キスって言ったのは本当にただ俺を困らせる為だけの嘘?」
聞かれて気付かされた。
いつもの仕返しに困らせてやろうと思ったのも確かだ。だけどそれは建前で、本当はただ単純に葵にキスして欲しかっただけだったのかもしれない、と。
「なあ、嘘だった?」
「嘘……じゃ、ない」
俯きながら小さな声で答える。すると頭の上にふわりと大きな手が乗せられた。
「矢野」
「………」
「矢野」
少しだけ顔を上げると葵は頬に伝う涙を拭い、壊れ物を扱うみたいに優しく万葉を抱き締めた。最早まともな思考でものを考えることが出来なくなっていた万葉は暴れることなく大人しく腕に納まった。
「……何で…?」
聞きたいことは山ほどあるはずなのに、それしか聞くことが出来なかった。
「まだ分からない?」
「……分かんない…」
分かるわけがない。生まれて初めて人を好きになった恋愛初心者の小娘に大の大人の、しかもこんな厄介な男の考えていることなんて分かるはずがあろうか。
情けない涙声で答えると頭上から小さな笑い声が聞こえ、それから葵が言った。
「好きだから」
夢だと思った。
ありえないと思っていた言葉。けれど聞きたいと願っていた言葉。
「……嘘…」
「嘘じゃない」
葵はそう言ったけど、万葉にはどうしても信じられなかった。
―— だって…… ―—
万葉は生徒、そして葵は教師だ。
きっと万葉が思うような "好き" ではない。期待なんてしない方がいいに決まっている。それなのに自分の意志とは関係なく、確かめるような言葉が口を衝いて出ていた。
「……生徒として…?」
その問いに葵は苦笑し、それから指で彼女の唇にそっと触れた。
「ただの生徒にキスなんかしない」
指が離れ、代わりに彼の唇が触れた。そっと掠め、すぐに離れる。
「意味、分かる?」
万葉の額に自分のそれをコツンと合わせて葵が言った。その言葉に万葉の瞳から再びぽろぽろと涙が零れ落ちる。
―— 本当に……? ―—
都合のいい夢を見ているようだ。熱に浮かされたような頭の片隅に先日の葵の言葉が蘇る。
「……カン違い…?」
「いや」
「……ほんとに……信じちゃうよ…?」
万葉はしゃくりあげながら葵の胸に顔を埋めたまま小さく言った。その彼女の体を抱き締める腕にぎゅっと力が籠る。
「いいよ」
「好きでいても……いいの?」
それでもまだ不安気に聞くと葵はふっと柔らかな笑みを浮かべ、それから万葉の頬を両手で包んで真っ直ぐに瞳を合わせた。
「いいよ」
真っ直ぐなその瞳と優しい声に嘘はないと思えた。
止まる様子のない万葉の涙に葵は困ったように笑いながら彼女の頭を優しく撫でた。
結局、写生大会は描き終わらなかった万葉がビリということになった。罰ゲームは宣言通り、美術準備室の掃除だ。
その日の放課後、少し、否、かなりの気恥ずかしさを感じながらおずおずと準備室を訪れると、それを見た葵は愉快そうに笑っていた。
「何でそんなに硬くなってんの」
「だ、だって……と、とりあえず掃除します!」
「掃除なんてしなくていいよ。矢野と二人になる為のただの口実だから」
あっさりと言われ、思わず顔が赤くなってしまう。
「それよりもこっち来てくれない?」
そう言って葵は机の上に座り、おいでおいで、と手招きした。
「掃除は……きゃっ」
そろそろと隣まで歩いていくと不意に手首を掴まれてグイッと引き寄せられ、バランスを崩した万葉は倒れ込むように葵の腕の中に納まった。慌てて離れようとする彼女の体を逃がすまいと葵の腕がぎゅっと抱き締める。
「他の奴らならやってもらうけど、彼女にはさせないって」
"彼女"
そのフレーズに胸が跳ねた。
「……か、彼女?」
自信無げに恐る恐る自分を指差すと、葵は笑みを浮かべて彼女を指差した。
「そ、彼女。で、彼氏」
言いながら今度は葵が自分を指差す。
異常なほど頬が熱い。きっと真っ赤になっているはずだ。葵は万葉を見上げ、そして肩を揺らして笑った。
「すげー顔赤い」
そう言って楽しげに笑う葵はひどく余裕がありそうだ。万葉は少しだけ拗ねてぷいっと顔を背けた。
「先生は余裕そうでいいですね」
「そう思う?」
「そりゃ……っ…」
葵の大きな手が万葉の頭を掴むと下にぐいっと引き寄せた。あっという間に口を塞がれて反論する言葉を遮られてしまう。
ようやく離れて見下ろした葵はいつも通り平然として見えた。
「……やっぱり余裕じゃないですか」
「違うって。ほら」
葵はそう言って万葉の手のひらを自分の胸に当てた。男の人だと改めて思わせられる硬い胸板に思わずドキリとする。
だけどそれよりも驚いた。葵の鼓動が自分のそれと同じくらい早かったから。
「な?」
葵の笑顔に当てられ、万葉は顔を俯けた。
―— その笑顔がずるいんだってば…… ―—
いつもは頭ひとつ半くらい上にある顔がいまは机に座ったままで抱きしめているから万葉の目線より下にある。それが余計にくすぐったい。
「じゃあ分かってくれたところでもっかいしていい?」
「き……聞かないで…」
返事に困り果ててさらに俯く。葵は耳まで赤くなった万葉を覗き込むように見て笑った。
「ほんと可愛いなあ」
「嘘ばっかり。この前は面白いって言ってた」
「それこそ嘘だよ。あんまり困った顔するからそう言うしかなかったけど、本当は可愛くて可愛くて仕方ないの」
照れ隠しに言った言葉だったのだが、それに返されたストレート過ぎる物言いに万葉は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った。
「手、除けて」
「やだ」
「矢ー野」
からかう様な口調で手首を掴んで外そうとする葵に、万葉は頑なに抵抗した。
「放して」
「やだね。ようやく掴まえたんだ、絶対に離さない」
手のことを言っているのではない、と万葉にもすぐに分かった。力が抜けるようにするりと手が落ち、真っ直ぐにこちらを見つめている葵の瞳と視線が重なった。
「好きだよ」
そう言って葵はいままで見たことがないくらい優しい笑みを浮かべた。
―— 何……これ… ―—
どうしてだろう、涙が浮かんでくる。
子供みたいなその笑顔を向けられるたび、心の中にふんわりと温かいものが膨らんでいく。優しく髪を撫でるその手が触れるたび、嬉しいのに泣きたいような気持ちになる。
葵はふっと笑って零れそうになった万葉の涙を親指で拭うと、その頬に、唇にキスをした。そしてまた同じ言葉を囁いた。幼い子供に言い聞かせるように何度も何度も。
夏休み目前の少し騒がしい放課後。遠く校庭から聞こえる生徒たちの声。夕焼けでオレンジ色に染まる準備室。寄り添うように伸びる二人の影。
万葉は彼の笑みに応えるように、泣きながら微笑った。
こうして二人の恋は始まりを告げた。
誰にも言えない、誰からも許されることのない、二人だけの秘密の恋。
終わりなど知らず、幸せになれるのだと信じて―—―—―—。