―—―—―— 十二年前。




 北海道は春の訪れが遅い。入学式の今日もまだ桜は咲く気配を見せない。
 花も葉もない寂しい桜の木を見上げながらぼんやり歩いていると、肩にとんと誰かがぶつかった。見知らぬ女の子がごめんね、と言って去って行く。
 万葉の中学からは割と多くの生徒がここに入学したが、彼女の仲の良かった友達は皆、違う高校へと進んだ。あまり知っている人がいない万葉は少し不安気だった。
 玄関前にはクラス分けが書かれた紙が貼ってある大きなボードがいくつか並んでおり、自分の名前を探して端から順に追っていくと、二組の欄にそれを見つけた。
 万葉はもう一度クラスを確認してから玄関に入り、自分の下駄箱を探した。
『新入生の皆さん、おはようございます。あと三十分で入学式が始まります。玄関ロビーに張り出されているクラスに移動して下さい』
 真新しい白い上靴に履き替えているときに校内放送が流れ、万葉はまだ慣れない校舎の中を少し急ぎ足で教室へと向かった。
 決められている席に座ってしばらくすると、担任の先生が簡単に自己紹介をし、それからすぐに廊下へ並ばされた。出席番号順なので前後に知らない子たちが並び、万葉は心細げに辺りをきょろきょろと見回す。
 左胸に桜色の花のついた胸章を付けた生徒が全員並び終えると一組から順に歩き出し、万葉のクラスもその後について行った。体育館では保護者が左右に並ぶ中央の道を、まだ初々しい新入生が歩いて行く。
 万葉は緊張しながらもちらちらと左右に視線を送る。と、右の中程に母の姿が見えた。向こうも気付いたようで、万葉ははにかみながら小さく手を振った。
 生徒が着席すると司会役の教師が開会の言葉を述べた。壁に貼られている式次第通りに進行し、新入生代表の挨拶もつつがなく終わる。
「それでは一年生の担任の先生をご紹介します」
 そう言って一組から順に教師が壇上へ上がり、手短に自己紹介と挨拶を済ませる。長い式に段々と飽きてきた生徒たち、その中でも主に女子の注目が集まったのは六組の担任の時だった。
「六組担任の前嶋葵です。担当科目は美術です。これから一年、楽しく過ごしましょう」
 さすがに大きな声が上がることはなかったが、明らかに周りの女子たちもそわそわしている。案の定、隣に座っていた女の子からつんつんと指でつつかれた。
「ねえねえ、今の先生かっこよくない?!いいなあ、六組。担任交換して欲しー」
「そう……だね?」
 なんと言って返したらいいのか分からず、万葉は曖昧にそう答えてぎこちなく笑った。ちらりと周りを見回せば同じような光景があちこちで見られた。もはや、他の教師の挨拶は聞いていない。
 
―— 確かにかっこいいかもしれないけど…… ―—

 タイプではないなあ、などと思いながら万葉はすでに壇から降りている六組の担任を見やった。
 スラリとした長身、無造作にセットされた髪、そして何より離れた場所からでも分かるほど整った顔立ち。確かにこれならば大抵の人が "かっこいい" と言うであろう。
「以上をもちまして平成〇〇年度入学式を終わります」
 万葉を含めたほとんどの生徒の意識が例の教師に向けられているうちに、入学式は終了していたらしい。新入生は皆立ち上がり、入って来た時と同じ道を通って再び教室へと戻って行った。




 入学式から数日経っても前嶋葵の話題は尽きなかった。
「ほんと前嶋先生かっこいいよね」
「あ、うち三年にお姉ちゃんいるんだけど、前嶋先生、"葵ちゃん" て呼ばれてるらしいよ」
 誰かがそう言った途端、周りからきゃーっと黄色い悲鳴が上がる。
「かわいい!うちらもそう呼んじゃおっか」
「いいね、そうしよ」
 教室の中心ではしゃいでる女子グループを余所に、万葉は窓辺に寄り掛かりながら苦笑した。
「すごいね、前嶋先生の人気っぷり」
「まあ、あれはイケメンでしょ。騒ぐ気持ちもよく分かる」
 ジュースを片手にそう言って頷いたのは入学式のときに横から万葉をつついた女の子、森末紗耶だ。彼女とは出席番号順で席が前後だったということもあったし、その上とても人懐っこい性格だったので、少し人見知りしがちな万葉もすぐに仲良くなれた。
 そっか、と気のない返事を返すと、紗耶は思いついたように尋ねてきた。
「そういえば万葉、部活決めた?」
「んー……美術部に入りたかったんだけど、まだ迷ってる。紗耶は?」
「茶道部とかいいかなあって」
「茶道部?なんか意外かも」
 万葉が言うと紗耶は笑った。
「おしとやか女子、モテそうじゃない?」
「それか」
「あとお菓子食べれるしね」
 目的が別のことなのが紗耶らしい。万葉はくすくすと笑った。
「なんで美術部迷ってんの?」
「顧問の先生ってきっと前嶋先生でしょ」
「多分ね」
「なんかあの先生苦手なんだよね」
 万葉はそう言って眉を下げた。
 いつも人に囲まれているイメージのある "葵ちゃん"。これといった理由はないが、なんとなく苦手だった。
「まあまだ期限まであるし、ゆっくり考えよ」
「そうだね」
 とはいったが、やはり前々から入りたかった美術部が気になり、数日後、万葉は一人で放課後の美術室に向かった。
「あれ、誰もいない」
 一般教室よりも広い美術室。そのドアの小窓から中を覗いてみたが、がらんとしていて誰かがいる気配はない。鍵をかけ忘れたのだろうか、試しにドアを横に引いてみると予想に反してそれは開き、万葉は左右を見やった後、恐る恐る中へ入った。
 絵の具の匂いが籠った教室をあちこち眺めながら歩く。威勢のいい掛け声が聞こえて窓の外を見れば、グラウンドでは野球部が練習をしていた。
 万葉が部屋の中に視線を戻した時、隅にあった机に目が留まった。引き寄せられるようにそれに近付くと、その上に置いてあったスケッチブックを手に取った。
「美術部の人のかな」
 どこにも名前は見当たらなかったが、ここにあるということはきっとそうなのだろう。万葉は何気なくスケッチブックを開き、そして手を止めた。
「……きれい…」
 白い紙に描かれた向日葵畑。
 色のないただのデッサンだが、風が吹けば今にも動き出しそうと思えるほど生き生きとした絵だった。他のページも開いてみたが、どれも目を奪われるような風景が描かれている。
 
―— すごい……きれい… ―—

 思わず見入っていると、不意にガラっとドアが開く音がした。万葉はびくっと体を強張らせ、持っていたスケッチブックを慌てて机の上に戻した。
「あれ?」
 その声に後ろを振り向くと、入り口には例の美術教師が立っていた。
「どうした?一年生……だよな?」
「あ、あの……」
 もごもごと万葉が口籠っているうちに葵は勝手知ったる様子で教室に入ってくる。
「ああ、もしかして美術部の入部希望者?」
「まだ迷ってて……それで…」
「見学か。ちょっとタイミング悪かったな。活動は基本的に自由だから描きたいときにここ使っていいんだけど、今日は誰も来てないんだ。楽だけど本気でやりたい子にはちょっと可哀想かもしれないな」
 そう言って葵はちょっと困ったように笑った。
「まだ提出まで期間あるし、その後でも構わないけど、入りたかったら俺のとこまで入部届持ってきて」
 万葉は返事の代わりにこくんと頷いた。その後ろをひょいと覗いた葵が安堵の息を漏らす。
「やっぱここにあった」
 葵が取り上げたのはさっきまで万葉が見ていたスケッチブックだった。
「あ」
「え?」
 思わず声を上げてしまい、葵と思い切り視線がぶつかった。
「あ、もしかしてこれ見た?」
「……すみません…」
 怒られると思ってしゅんと身を縮ませた万葉の耳に、くっくっと笑い声が聞こえた。
「いや、別にいんだけどさ。俺のだし」
「え?それ、先生が描いたんですか?」
 驚いて顔を上げると、今度は葵が驚いたように万葉を見下ろした。
「そうだけど……何?」
「すごく……すごくきれいだったから……誰が描いたのかなって思ってて」
 思ったことを口にしたら葵は少し眉を寄せて頭に手を当てた。何か余計なことを言ってしまったのだろうか、と内心焦っていると彼がぽつりと呟いた。
「……どうも」
 その様子をぽかんと見ていた万葉は思わず小さく吹き出した。まさか照れるとは思ってもいなかった。
「笑うな」
 葵に頭をコツンと軽く小突かれ、万葉はピタリと笑いを止めた。そっとその場所を手で押さえ、少しだけ俯く。
「まあ、あれだ。俺の絵を見たのは内緒な」
 それから葵が照れ隠しのように素っ気ない口調で言った。素っ気ないけれど冷たくは感じないその声は嫌いではなかった。
「どうして?」
「プライベートで描いた絵はあんまり見せたくないんだけど、誰かが見たって言えば自分にも見せろって来るだろ」
 なるほど、と万葉は心の中で頷いた。確かに葵ならば寄ってくる生徒は多そうだ。
「だからこれは秘密、な?」
 その言葉になぜか胸が跳ねた気がした。万葉はいたずらっぽく笑う葵に一瞬見惚れ、それから慌てたように頷いた。
「あ、そうだ。お前、名前は?」
「矢野です」
「矢野、ね。そろそろここ閉めたいんだけど、もういい?」
「あ、はい。すみません」
 葵に促されて万葉は教室の外に出た。ガチャガチャと鍵を閉め終えると、葵は振り向いてスケッチブックを持っている手を上げた。
「じゃあ、矢野。気を付けて帰れよ」
「は、はい。さようなら」
「はい、さようなら」
 そう言って二人は反対方向へ廊下を歩いて行く。
 途中、万葉はちらりと後ろを振り返った。肩越しに見えた葵の後ろ姿は夕焼け色に染まっていて、とてもきれいだ、と思った。






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