「次はクローゼットか」
 晴れた陽射しが暖かな春の日、全開にした窓からは気持ちのいい風が入り込んでくる。
 大学を卒業したあと実家に戻ったが、通勤するのに少し不便だった為、一年後には結局一人暮らしを始めた。だが、それもあと少しで終わりだ。一週間後には付き合って三年になる恋人の部屋に引っ越すことになっていた。
 この際だから実家の部屋も綺麗に整理していけ、と母からのお達しだが引っ越しは差し迫っており、大々的に出来るのは日曜の今日が最後ということで今朝早くから実家にやって来ていた。
 茶色の扉に目をやって呟くと、すくっと立ち上がって床に置かれたいくつかの段ボールを端に寄せた。それから両開きのそれを勢いよく開ける。
「うわあ……やる気起きなーい…」
 これでもかと言わんばかりに詰め込まれた服やら鞄やらが積み重なっているのを見て、思わず眉を寄せた。いつかまた着るだろう、と取っておいた服などが、結局着ないまま仕舞われている。
 小さくため息をついてから覚悟を決め、ハンガーに吊るされた服をいるものといらないものに分けて床に放り投げていった。
「こんなの持ってたっけ?」
 いまなら絶対に使わないであろう、可愛らしい柄がプリントされたトートバック。苦笑しながらいらないほうにポイっと投げた。
 こういう時じゃないと捨てないことは目に見えているので、ここぞとばかりにクローゼットの中のものを引っ張り出していく。"いらないもの" の山がどんどん大きくなっていった。
 綺麗にカバーをかけられたハンガーを取り出し、中を覗く。と、そこにあったのはとても見覚えのある懐かしいものだった。
「うわ、高校の制服だ!懐かしー……」
 十二年前に初めて袖を通した制服を手にして思わず感傷に浸ってしまう。
 
―— 卒業してもう九年……か… ―—
 
 この制服を着て学校に通っていた頃がひどく昔のことのように感じられた。そう思うこと自体、自分が大人になってしまった証拠かもしれない。
「お、ずいぶん派手に散らかしてんなあ」
「あれ、お兄来てたの?」
 開けっ放しのドアから兄が顔を覗かせた。来るとは聞いていなかったので驚いて尋ねる。
「ああ、母さんがお前来てるから俺も来ないかって。暇だったから来てみたんだけど……何それ、制服?」
 自分と同じく実家を離れた兄がそう言いながらずかずかと部屋の中に入ってきた。
「そうだよ。懐かしいでしょ」
 入れ違いではあるが兄とは同じ高校だ。彼にとっても見覚えのあるものだろう。
「うっわ、懐かしい。制服なんかよくとってあったな。俺そっこーで後輩にやったけど」
「女子はこういうの結構とっておくんだよ」
 卒業してしまえば絶対に着ることはないのに、なんとなく思い入れがあるものは人にあげたり捨てたり出来ない。
「ふうん。あ、そういえば悠平君は?」
「夕方うちに寄るって」
「じゃあ悠平君の顔見て帰るかな」
「そうしてあげて。悠平、なんか知らないけどお兄のこと気に入っているから」
 それは嬉しいねえ、とケラケラ笑いながら兄は部屋を出て行った。
 それから改めて制服をハンガーに掛け、またクローゼットの奥にしまい込んだ。




 ある程度クローゼットの中の服を仕分けると、いらない服たちを段ボールに詰めて部屋の外に置いた。外側に "いらないもの" と紙に書いて貼っておく。
 それから必要な服を綺麗にたたみ、違う段ボールに詰めていく。どうしようかと迷ったものはとりあえずクローゼットに戻した。
 服がひと段落つくと、今度はその下に置いてあった引き出しや小物に手を付ける。
「わ、こんなとこにしまってたっけ」
 奥の方から出てきたのは小さな鍵のついた箱だ。その中に入っているのは学生時代、授業中に友達とこっそりやりとりをした手紙たちだ。少し色褪せた紙を手に取って中を開いた。

"帰りにクレープ食べに行こ"
"三年がグラウンドでサッカーやってる!!田内先輩かっこよすぎ!!"

「ふふ、ホントどうでもいいことばっかりね」
 放課後どこに遊びに行く、とか、数学の授業が嫌だ、とか、誰々がかっこいい、とか、そんな他愛のないことばかり書いてある。
 懐かしそうに手紙を読み返しながら独り言ちた。
 あの頃は何をするのも楽しくて、だけどちょっとしたことで落ち込んで、またすぐに笑っていた。
 箱の中にまだ大量に入っている手紙をちらりと見やり、躊躇ためらいつつも手を伸ばした。一度開いてしまったら全て読んでしまいたくなるのが人の性だろう。
万葉かずは、こっちの物はどうするの……って全然進んでないじゃない」
 母の呆れた声に万葉は手紙から目を離して後ろを振り向いた。部屋の入口に立っている母に苦笑を向ける。
「ごめん、なんか懐かしいものとか見ていたら進まなくって」
「あんたねぇ、早くしないと引越しに間に合わないわよ?」
 エプロン姿で右腰に手を当てたまま小言を言う母の姿は昔と何も変わっていない。
「大丈夫、大丈夫。いざとなったら悠平に手伝ってもらうから」
 持っていた手紙をひらひらと振りながらそう言うと、母はより呆れた顔になった。
「またそんなこと言って。こんな状態見たらいくら悠平さんだって呆れるわ。結婚破棄されたって知らないわよ」
 半分冗談、半分本気で好き勝手に言い放題だ。万葉は笑った。
「それはないね。なんたって悠平がベタ惚れだから」
 来秋には結婚式を挙げることになっている優しい恋人の顔を思い出し、冗談っぽく笑って見せる万葉を、母は惚気のろけるな、と肘でつついて冷やかして部屋から出ていった。
 とはいっても、部屋を見回せばまるで泥棒でも入ったのか、と言いたくなるような有り様だ。母にはああ言ったが、さすがにこれは悠平に見せたいとは思わない。
「早いとこ片付けないと……」
 先ほどまで読みふけっていた手紙の束を箱の中に戻し、鍵を閉める。それから引っ越し先に持っていく方の段ボールにしまった。落ち着いたら箱から出して読もう、と思う。
「さて、次は……と」
 ようやく片付けにも乗ってきたらしい。次から次へと物を引っ張り出してはいらない物は潔く捨てていく。
 手を動かしながらふと、さっきから独り言が多いことに気付いた。が、掃除のときに独り言が多くなるのは仕方がない、とすぐに開き直る。
 しばらく真面目に片付けてようやく目途が付き始めた頃、次に開けた引き出しの中に入っていた物を見て万葉はため息をついた。その物とはアルバムに入れていない写真だった。
 写真は見始めると止まらないからアルバムだけは開かないように、と頑張ってきたのにこれでは台無しだ。ちゃんと片付けてなかった自分が悪いことは分かっているのだが。
「こんなの出てきたら絶対見ちゃうじゃない」
 万葉は文句を言いながらもその写真を手に微笑んだ。たくさんある写真を一枚一枚、その頃を思い出すように眺めていく。
 時折くすくすと笑い声を零しながら次々と写真をめくっていた万葉だったが、その中の一枚にハッとしたように手を止めた。
 
―— まだ……あったんだ… ―—
 
 もう全て捨てたと思っていた。
 万葉は手の中にある一枚をじっと見つめ、それを束から外して自分の脇に置いた。
「………」
 再び写真の束に目を落としたその表情は、さっきまでと違ってどこかかげがあるように思えた。笑うこともなく、淡々と写真をめくる。
 ようやくその全てを見終えると万葉は丁寧に箱に詰め、"写真" とマジックで書いて段ボールの中にしまい込んだ。それから途中で休憩も入れながら黙々と片付けをし、三時過ぎには部屋はあらかた綺麗になった。
 ベッドに腰かけて一息つくと、万葉は今まで触れなかった引き出しから桜の花の模様が描かれている綺麗な箱を取り出した。開けなくても中に何が入っているのか、彼女には解っている。
 ゆっくりとふたを開け、壊れ物を扱うようにして取り出したのは何の変哲もない一冊のスケッチブックだった。そっと紐を解いて表紙を開く。パラパラと紙をめくる音だけが聞こえた。
 そして、万葉はあるページで手を止めた。
 鉛筆だけで描かれたその絵は十年経った今でも褪せることはなく、ただそこにあった。まるで万葉が再び開くのを待っていたかのように。
 万葉はしばらくその絵を眺めていたが、ふいに視線を外すとスケッチブックを膝の上に置き、先程一枚だけよけておいた写真を手に取った。
 そこに写っている自分は幸せそうな顔で笑っていた。一緒に写っている人もまた優しい笑顔でこちらを向いている。
 万葉は写真の表面をそっと撫で、小さな声でぽつりと呟いた。
「……葵…」
 言葉にしただけでそれは魔法のようにあの頃の記憶を鮮やかに蘇らせる。
 
―— 大好きだった…… ―—
 
 誰にも言えない、誰からも許されることのない恋。だけど、解っていても止めることなんて出来なかった。
 大好きだった。
 こんなに好きな人はもう二度と現れない、と本気でそう思った。
 泣きたくなるような幸せも、愛しいとさえ思える切なさも、心が壊れそうなくらいの悲しみも―—―—あの人と出逢わなければ、きっと知らないままだった。
 教えてくれたのは全部、あの人だった。
 
―— ねえ、葵…… ―—






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