「神野……さ…あっ…」
 自分の下で自分が与える快楽に身を捩じらせている結依が心底愛おしい。
「結依」
「…ふ……あ…っ…」
 限られた時間、限られた空間の中でしか触れられない彼女の肌はまるで一種の麻薬のようだ。一度触れてしまえばもう手放すことは難しい。
 無我夢中で彼女の中に自分の欲を叩きつけるその姿は完全に彼女に溺れる愚かな男そのものだった。
「あっ……いや…ぁ……あっ…」
 過ぎる快楽から逃げようと結依の体が上にずり上がろうとする。神野は彼女の華奢な腰を掴んで引き寄せ、それを阻んだ。
「逃げるな」
「…っ……逃げ…てな……あぁっ」
 ぐ、と深くまで入れると結依は頤を仰け反らせて声をあげた。露わになった喉に唇を這わせる。
「も……っ…だ…め…」
「まだだ」
 涙を一筋零しながら懇願するが、神野はそれを聞き入れずに腰を振る。
「…あっ……や…あ……ふあっ…」
「もっと」
「……神…野さ…っ…」
「もっと」
「……や…ぁ……あっっ…」
「…っ……」
 結依の中がうねり、神野のそれを締め付ける。己の欲を全て吐き出すと神野は荒く呼吸を繰り返す彼女の胸に顔を埋めた。
 ずっとこのままでいられたならどれだけ幸せだろうか、とそんな在りもしないことを思いながら―—―—―—。




「大丈夫か?」
 走った後のように浅い呼吸でベッドに沈む結依の髪を撫でながら問うと、彼女はやんわりと微笑んだ。
「……平気…です…」
 今日もまた無茶をさせてしまった、と内心で反省するも次回会った時にはそんなものはどこかへ放り出され、結局彼女を抱き潰してしまうのだ。
 それもそのはず、結依と会うのは金曜日の夜だけでそれも一ヶ月に一度あるかないかというくらいの少ないものだった。それ故、逢瀬の時にはたがが外れ、つい加減を忘れてしまう。
「悪いな」
「謝らないで」
 結依はそれだけ言うと髪を撫でていた神野の手に自分のそれを重ねた。情事の名残を示す体温の高さをその手のひらから感じながら、神野は紅潮した彼女の頬にキスをし、そのまま口元へ移ると柔らかな唇を啄む。
 ふふっ、と小さな笑い声が上がり、それから結依の舌が神野の唇をなぞった。まるで猫がじゃれるような仕草に思わず相好が崩れる。
「あまり煽るな。また抱きたくなる」
「どうぞ?」
 からかうような言葉に苦笑すると神野は彼女に覆いかぶさり、生意気なことを言う口を塞いだ。次第に深くなるキスに彼女もまた応える。
「……ん…っ…」
 鼻から抜けるような甘い声が聞こえる。滑らかな頬に手を添え、親指で撫でるようにしてやれば結依の腕が神野の首に縋るように巻きついた。
「結依……」
 この僅かな時間の中だけは、二人はただの甘い恋人同士であった。
 会社では上司と部下、その立ち位置を変えず決して必要以上には近寄らない。どちらからともなくそうしたことだが、いまや二人の間では暗黙のルールだ。
 これが不倫でなければ万が一バレたところで何とでも言い繕える。だが、この関係はそう簡単なものではない。社内では周囲の人間を、そして家では妻を欺き通さなければならないのだ。
 妻に言う名目は決まって"会社の飲み会"。実際に飲み会に参加し、それが終わってから彼女の部屋で数時間、可能な限りの時間を過ごして帰る、という流れだ。
 決して妻に不満があるわけではない。恋愛の末、結婚した彼女への想いは今では家族愛になりつつあるが、それでもちゃんと愛情はある。
 これが妻への裏切り行為であるということは重々分かっているし、もちろん罪悪感にも駆られる。何の疑いも持たずに自分を信じ切っている彼女を捨てるということは出来ない。
 
―— だけど…… ―—
 
 もっと早くに結依と出逢っていれば、と何度思っただろうか。
 正直、部署を異動して初めて結依に会ったとき、思わずその姿を目で追っていた。裏表のなさそうな明るい彼女の笑顔がしばらくの間、頭から離れなかった。
 その人柄は仕事にも表れているようだった。真面目で礼儀正しく、いつも懸命に頑張っている彼女に好意を抱くようになるのに時間はあまりかからなかった。
 だが、自分はすでに妻がいる身だ。結依とどうにかなりたいと思うことはなかった。否、思わないようにしてきたのかもしれない。
 しかし、そんな小さな防壁は彼女からの思いがけない行動であまりにも呆気なく崩壊した。
 タクシーの中で不意に交わされた眼差し。酒のせいか、少し潤んだ瞳がやけに艶めかしく、思わず息を呑んだ。
 だが、好意がある、ないという以前に彼女は大事な部下だ。神野は理性を総動員して感情を抑え、彼女からの告白を正論で諭してその場を切り抜けようと思った。
 それなのに結依は引き下がることはせず、迷うことなく真っ直ぐに向かってきた。拙くも情熱的なキスで気持ちをぶつける彼女を心底愛おしいと感じ、そして自分のものにしたいと思った。
 仕事で長く付き合っている結依を見ていれば、妻帯者に気軽にこんな誘いを持ちかけるような人物には到底思えない。

"自分だから"

 妻帯者であろうと自分だから我慢がきかなくなったのだ、とそんな甘い期待が心を揺らし、気付けば彼女の唇を奪っていた。
 そのまま傾れ込むように結依の部屋に行き、その勢いで彼女の体を開いた。滑らかな白い肌に残る自分の跡を見ながら、神野は背徳感に異様な興奮を覚えた。
 初めてではないにしろ、恐らくこういう行為は慣れていないのだろう。それでも痛みを堪えながら辛くてもいい、と言う結依の健気な姿に残っていた神野の理性は焼き切れた。
 それからはもう無理、と涙を零しながらも自分の欲を全て受け入れてくれる結依に甘え、何度もその体を貪った。
「神野さん?」
「ああ、すまない。少しぼんやりしていた」
 結依の声で意識が過去から呼び戻された。そんな神野を彼女は一瞬不思議そうに眺め、それからクスッと笑った。
「神野さんがぼんやりするなんて珍しいですね」
「そうか?」
「ええ」
 何を考えていたのか分かってしまったのか、結依は少しだけ寂しそうに微笑んだ。その笑みに胸が痛み、拭い切れない罪悪感を覚える。
「そういえば今日部署で聞いたんだが、明後日誕生日なんだって?」
「はい」
 それを誤魔化そうとして頭の中に思いついたことをそのまま口にすると、彼女もまた話が逸れたことに少し安堵したように頷いた。
 そうか、と返してからハタと気付き、そして自分自身に呆れた。
「すまない、何も用意してこなかった」
 そうそう簡単に二人きりになれないのだから、誕生日当日は祝ってやることが出来ないだろう。プレゼントをあげるのなら今日しかないのにそんなことにすら気が回らなかった。
「何もいらないですよ」
 結依はそう言って屈託なく笑ったが、男としてはそうもいかない。
「折角だ、何か欲しいものとかないのか?」
「んー……」
 神野が尋ねると結依は少し戸惑ったあと、ちらりと伺うように彼に視線をやった。
「ん?」
 言い出しにくいのかと思って促してやれば、彼女の小さな唇が躊躇いがちに開いた。
「それならひとつだけお願い、聞いてもらえますか?」
「いいよ」
 神野が二つ返事で答えると、彼女は一度口籠ってからようやくそれを言った。
「"お休み" って言ってくれませんか?」
「え?」
 まるで予想していなかったことに神野は思わず聞き返してしまった。
「神野さん、帰る時いつも "じゃあ" って言うんですけど……それ、何か寂しくて…」
 少し恥ずかしそうに目を伏せながら言葉を続ける。
「だから代わりに "お休み" って……言って欲しいんです」
「………」
 結依からお願い事をされたことなど今まで一度もない。そんな彼女が初めてしたお願い。
 
―— 何でこの子は…… ―—
 
 そう思いながら神野は緩みそうになる口元を手で覆った。
 あまりにも可愛らしい我が儘。
 帰り際に "じゃあ" と言われるのが嫌だったなんて気付かなかった。言ってくれればすぐにでも変えてあげたのに、それを今の今までずっと言わずにいたとは。
 しかも、欲しいものはないかと半ば無理やり言わせた誕生日プレゼントがそれとは、本当に思いもよらなかった。他にも言いたいことや欲しいものなど山のようにあるだろうに、それには一切触れようとしない。
「そんなのプレゼントにならないぞ」
「いいんです。それだけで」
 そう言って結依はふわりと微笑んだ。
「神野さん」
「ん?」
「……好きです」
 結依の告白に神野は黙ったままキスをして答えた。
 彼女が望む言葉を言ってやることが出来ない。
 彼女が望む未来を見せてやることが出来ない。
 ならば手放すべきだと分かっている。けれどそれをしたくないと思っている自分がいる。ずっとこの手に閉じ込めておきたいと願う自分がいる。
 なんて矛盾した浅ましいほど身勝手な欲望なのだろう。そのことに我ながら吐き気がする。
 彼女がその望みを口にしたことが一度もないのをいいことに、神野はそれに触れることはなかった。そしてこれからも触れることはないだろう。
「時間、大丈夫ですか」
 唇が離れると同時に結依が言った。ちらりと時計を見ればもういい時間になっている。
「ああ、そろそろ帰る」
 そう言って名残惜しさを感じながらも体を離し、神野は手際よく服を身に着けていく。数分も経たないうちに準備を終えると、ベッドに横たわったままの彼女の元へ戻って行った。
「結依」
 さらりと彼女の髪を撫で、それから唇に軽くキスを落とす。
「……お休み…」
 そう言ってやると結依は少しだけ切なそうに、そしてひどく嬉しそうに目を細めた。
 もう一度だけ髪を撫で、神野は部屋を後にする。その身の内には言いようのない罪悪感と、それに反する充足感が渦巻いていた。






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