「……っ…」
ぎし、とベッドが軋む音を熱に浮かされたような朦朧とした頭の隅で聞いた。
何度もキスを交しながら長い指がブラウスのボタンに掛けられ、迷いなく服を剥ぎ取っていく。
むせ返ってしまいそうなほど甘いキスに眩暈を覚えた。息を吸う為に唇を開けばすかさずそこに舌が割って入り、応えようとする彼女のそれを絡めとる。
「神野…さ…」
少し離れた時に彼の名を呼ぶ。息が乱れ、声が掠れた。
「今更止めるとか言わないよな?」
そう言った神野の顔は職場の上司ではなく、ただ自分を欲している一人の男だった。いつもかけている眼鏡を外した瞳には明らかに欲情した熱が籠って見え、そのことが死ぬほど嬉しかった。
「言いません……言う訳ない…」
この人がずっと欲しかった。
いつからか分からない。けれど気付いた時にはもう手遅れだった。引き返すことが出来ないほど彼に堕ちていた。
「……あっ…」
神野の大きな手が胸を包み、ゆっくりと撫でられる。少し冷たい指先に肌がざわりと粟立った。
「神野さ……っ…ん…」
すでに固くなって主張している頂きを指で抓まれ、そしてもう片方を口に含まれた。柔らかな舌が遊ぶように動き、そこを刺激してくる。
「……篠川…」
いつもより少し低い声。その声でもっと呼んで欲しい。
「名……前…」
うわ言のように小さく呟くと、肌を這っていた唇がすっと離れた。それを追うように下を見れば顔を上げていた神野と視線がぶつかった。
「名前で……呼んで下さい…」
ささやかな願い事に神野はふっと笑みを浮かべると、唇に触れるようなキスをした。
「結依」
早鐘を打っていた心臓がさらに大きく胸を打つ。思わず涙が出そうになった。
「結依」
名前を呼び、彼の唇が赤い跡を残していく。何度もそれを繰り返され、結依の白い肌の上は花びらが散ったようだった。
「神野…さ…」
男らしい骨ばった指がすでに潤んで熱くなっている場所に触れ、そのまま急くように中へ埋められた。
「……あっ…」
「すごく熱い」
ゆっくりと中を擦っている指が出し入れされるたび、水音が増していく。
けれど恥ずかしさなんてとうになくなっていた。体が疼いて奥の方が悲鳴を上げる。もっと、と彼の背中にしがみ付きたくなる。
神野は結依が反応した場所でくっと指を曲げた。その瞬間、電気が流れたように彼女の腰が浮いた。
「やあっ……っ…あっ…」
「嫌、じゃないだろ」
「……神…野さ……ああっ…」
中心を強めに押され、思わず声が零れた。
情欲を隠そうともせずにそのまま指で伝えてくる神野に翻弄され、結依は高みへと押し上げられていく。
欲しい。
早く。
もっと。
もっと。
「……そんな顔されたらもう抑えられないな」
物欲しそうな顔をしていたのだろう。自分でもはしたないと分かっているが、それを止める術を持っていないのだからどうしようもない。
神野はそう言うと散々中を弄んでいた指を抜き、結依の膝に触れて足を大きく開かせた。期待と切望に息が苦しくなる。
「……結依…」
少し掠れた声がひどく色っぽい、と思った瞬間、彼の欲が一気に結依を貫いた。
「…っ……あっ…」
甘い痛みが奔った。
こういう行為は以前付き合っていた恋人と数えるほどしかしたことがなく、慣れていない結依の体にとって神野のそれは凶器にも似ていた。
だが、その痛みが神野と繋がったことの証に思え、結依の瞳から歓喜の涙が零れた。
「痛いか…?」
心配そうにしている神野に結依は首を振ってなんとか微笑み返す。
「辛かったら言えよ」
「辛くても……いい…」
神野は小さくため息をついてから結依にキスをした。
「……これ以上煽るな」
そう言って彼女の細い腰を掴むと、ぎりぎりまで抜いて再び深くまで貫いた。
「ん……っ…ああっ…」
あとは二人の間に言葉なんて必要なかった。本能のままに体を合わせ、荒れる波の中に溺れていくように、深く深く落ちていく。
結依には時間の感覚さえよく分からなくなっていた。
「大丈夫か?」
結依は力尽きたようにくたりとベッドに沈み込んでいる。彼女の額に張り付いていた前髪を上げるように頭を撫でながらそう言った。
散々鳴かされたせいで声が掠れて上手く話せない。結依が小さく頷くと神野は優しく微笑んでから額にキスをした。
それから神野は立ち上がってこちらに背を向け、床に散らばった服を身に着け始めた。シャツに袖を通しているその後ろ姿をちらりと見やり、結依は無性に泣きたくなった。
数分後には神野はすっかり身支度を整え、ここへ来たときと何ら変わらない姿に戻っている。いつもの、"上司" としての神野の姿だ。
「鍵、かけてからポストに入れておくな」
神野はそう言って部屋に入った時にテーブルの上に投げ捨てたままの鍵を見せた。
「………」
結依は再び頷いた。もうキスはしてくれなかった。
「じゃあ」
「……お休みなさい…」
掠れた声で答えると神野はそのまま部屋を出て行った。バタン、と玄関の扉が閉まる音がしてそれから鍵が閉まる音、カタン、とポストに鍵が落とされた音が聞こえた。
一人いなくなっただけで部屋の中がやけに寒く感じる。
あれだけ抱き合っていたのに、熱はあっという間に冷めて元に戻ってしまう。いや、熱を知る前以上に冷えているようだ。
「……神野さん…」
ぽつりと名前を呼ぶ。結依の瞳から一筋の涙が零れた。
どんなに想っても手の届かない人だと思っていた。いや、こうして肌を合わせた今ですら、きっとこの手は届いていない。
神野の左手の薬指に嵌ったシルバーの細い指輪。その存在が彼はすでに別の女性のものなのだ、と物語っている。
以前付き合っていた恋人は社会人になってすぐ、お互いの仕事の関係ですれ違いが多くなり、あっけなく別れることになった。それ以来、恋人がいたことはない。
元々、人付き合いが得意ではないし、一人でいることも別に苦だと思ったこともなく、二十八歳にもなって情けないとは思うが、男性と付き合ったりという経験はほとんどと言っていいほどなかった。
そんな結依が神野と出逢ったのは二年前のことだった。
結依がいる部署に異動してきた神野は残業で残っている部下にいつも声をかけ、すぐに皆から慕われる上司となった。もちろん結依も好感を持っていたが、最初はただそれだけだった。
けれど上司と部下として彼と接しているうちに好感が好意へと変わっていった。彼の薬指に嵌っている指輪には気付いていたのに、気持ちは膨らんでいくばかりだった。
昨夜、飲み会に神野が参加すると聞いて結依もそれに出かけた。ただ一緒に飲みたかっただけで、別にどうこうしようというつもりはなかった。なかったはずだった。あの時までは。
「……好きです」
帰り道、方向が一緒だということで二人で乗ったタクシーの中で、結依は抑えきれなくなった想いを口にしてしまった。
あれは人のものだ。
何度そう言い聞かせたていたか分からない。それなのに自分の中の女はそれを聞こうはせず、目の前にいる、手を伸ばせば触れられる距離にいる彼を欲しがった。
「俺はお前の上司だ。それに妻がいる」
神野に正論で素気無く拒否され、結依はいま考えても自分でも信じられない行動をとった。いつもより少し多く飲んでしまったお酒の所為かもしれない。
「神野さん」
こちらを振り返った彼の唇をそのまま奪った。
「……知っています。それでもいいんです」
車内は暗くて眼鏡の奥が良く見えない。
その瞳を見るのが怖くて結依は少しだけ視線を下げた。その頭上で小さなため息が聞こえ、自分のしたことの恥ずかしさが込み上げてきた結依はきゅっと目を瞑った。
「篠川」
呼ばれて顔を上げると、そのまま影が覆い被さった。
「…っ……ん…」
自分がしたのとはまるで違う大人のキス。
下唇を舐められ、そのまま舌で唇を割り、口内を自由に犯していく。
「じ……の…さ……っ…」
キスだけで体が火照り、奥の方からぞわりとした快感が生まれる。こんなキスをしたのは初めてだった。
「本当にいいんだな?」
いつの間に外したのだろうか、いつもかけていた眼鏡はなく、綺麗な顔が目の前にあった。
「……は…い…」
結依が息も切れ切れに答えると、神野はその顔を切なげに歪め、もう一度キスをした。
―— 馬鹿な私…… ―—
結依は数時間前のことを思い出し、自嘲するように笑った。
こんなことをしたって彼は手に入らない。重なった時に感じた幸せも、終わってみれば虚無感だけが残っている。
それなのに―—―—―—。
心も、体も、あの人を求めて泣いている。