初めて神野に抱かれたあの日から一年。二人の関係は未だ続いている。
「もう……終わりにしなきゃ…」
 結依は誰もいない部屋でシーツを撫でながら一人呟いた。
 神野が帰った後、いつも微かな温もりを探すようにシーツに手を滑らせる。だが、さっきまで彼がいたベッドはすでにその温もりを失い、ひんやりとしている。
 結依の目から涙が落ち、シーツに小さなシミを作った。
「……っ…」
 声にならない嗚咽が漏れる。
 別れよう。
 何度そう思っただろうか。けれどその決断を下す勇気はなく、結局こうして彼を受け入れてしまうのだ。
「……神野さん…」
 恋に落ちてしまったあの日からこの心を捉えて離さない、優しくて残酷な恋人。
 神野が愛を囁くようなことは一度もなかった。結依もそれでいいと思っていた。そうすれば妙な期待など抱かずにいられたから。
 だが、彼は愛を囁く代わりに結依をひどく優しく甘やかした。時には愛撫で、時には瞳で、それは体だけの関係とは到底思えないほどだった。
 その優しさは嬉しくもあったが、それ以上に苦しくもあった。
 会って抱き合って彼の温もりを感じられればそれで充分だったのに、優しくされればされるほど彼への想いが膨らんでいってしまう。まるで麻薬のように、甘美な毒のように心が侵食される。
 結依の瞳から涙が一筋流れた。
 
―— どうして……こんなにも… ―—

 神野の笑顔が脳裏に浮かぶ。
 優しくなんてして欲しくなかった。どうしてこんなにも好きにさせてしまったの、と記憶の中の彼に問うが、愛しい男はただ笑みを浮かべているだけ。
 終わらせなくては。
 この関係に終止符を打たない限り、前にも後ろにも進めない。




 いつからだろうか、結依の様子がおかしいと感じたのは。
 だが仕事中に訊くわけにもいかず、彼女の部屋に行った時にでも、と思っていたがタイミングが合わない。なかなか巡って来なかった機会が訪れたのはそれから一ヶ月ほど経った頃だった。
「今日の夜、部署の皆で飲みに行こうってなったんですけど、神野さんもいかがですか?」
 幹事が持っていたメンバーが記してある紙に結依の名前があったのを目敏く見つける。
「じゃあ参加させてもらおうかな」
「ではあとでメール入れておきますね」
「ああ」
 ようやく二人で会うことが出来る、と神野はほっと息を吐いた。
 その夜、メールに指定されていた店に少し遅れて到着すると飲み会は始まっており、すでに出来上がっている者も何人かいるようだ。上着を脱ぐ間にちらりと場を見回し、結依の姿を探す。
 どうぞ、と言って勧められた席はちょうど彼女の斜め向かいだった。緩みそうになる頬を堪えながら席に着く。だがその直後に聞こえた言葉に穏やかだった感情が波立った。
「篠川って彼氏とかいるの?」
「いない……けど」
 結依がちらりとこちらを見たような気がしたが、神野はそれに気付かないフリをした。いない、と言ったことに苛立ちが募る。
「へえ、意外。いるとばっかり思ってた」
「はは」
 若干困ったように眉を下げ、結依が笑う。そんな彼女を覗き込むようにして男は言った。
「じゃあさ、俺とかどう?」
「え?」
「実は入社した時から気になってたんだよね」
「えと……」
 神野は表情に出さないようにしてその会話に耳をそばだてる。結依にしつこくアプローチしているのは彼女の同期の西田だ。他の社員もそれに気付いたのか、数名がやんやと囃し立て始める。
「お待たせしましたー!」
 そこにトレーいっぱいにグラスを乗せた店員が威勢のいい声を上げて入って来た。結依はこれ幸いとばかりにバッグを持ち、化粧室に行く、と言って逃げるようにその場から立ち去った。
 周りから残念そうな声が控えめに上がるのを横目に安堵の息をつきかけた神野だったが、西田が立ち上がった瞬間にすぐにため息に変わった。
 今すぐにでも立ち上がって、おそらく結依を追って行ったのだろう彼を止めたい衝動に駆られたが、そんなことをしてはあまりにも目に付き過ぎる。神野はジョッキの持ち手をグッと握り締め、そのまま一気にビールを呷った。
 ようやくお開きになるといつも通り同じ方向の者はそれぞれタクシーに相乗りすることになり、神野と結依も何気ない顔をして同じタクシーに乗り込んだ。
 その時、彼女からふわりと香ったのはいつもと違うパフューム。
 口を開けばきっと彼女を糾弾してしまう。それを抑えるために黙り込んでしまった神野に怯えているのか、結依も何処となく落ち着かない様子で俯いている。やけに静かな車内が余計に空気を重くしていた。
 結依のマンションの前でタクシーを止め、そのまま一緒に降りようとしたら彼女の手が神野の顔の前でストップをかけた。
「今日は帰って下さい」
「どうして」
 苛立ちを隠し切れない声音で問うと、彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「……どうしても…です」
「それじゃあ納得いかない」
「神野さ……」
「いいから降りて」
 そう言って彼女の体をタクシーの外に押し出し、料金を払ってから神野も外に出た。すると右手でもう片方の腕を押さえ、まるで体を守るようにしながら俯く結依の姿があった。
「結依」
「……ごめんなさい…」
「待て」
 神野は通り過ぎようとした彼女の腕を掴み、引き止めた。いつもより低い声に怯えたように、掴んだ彼女の腕がびくりと動いた。
「部屋で話をしよう。上がらせてもらうぞ」
「ダメ……神野さん!」
 苛立ちはすでにピークに達していた。
 神野は半ば無理やりエレベーターに乗せ、彼女の部屋の前まで行くと鍵を開けるように促した。さすがにこんな夜中に部屋の前で大きな声は出せないと思ったのだろう、結依は渋々バッグから鍵を取り出し、部屋のドアを開けた。
「ほんとに今日は……」
 部屋に入り電気も付ける間もなく、神野はそのまま彼女の体を壁に押し付けた。後ろでドアが閉まる音が聞こえる。
「痛っ……」
「男物の香水、ね」
 後ろ向きに押し付けていたのでどんな表情をしているのか分からないが、彼女の背中がぎくりと強張った。
 彼女は普段から香水はつけていない。彼女から香るのは少し甘いシャンプーの香り。それなのに今は胸糞が悪くなるような作られた香りが鼻につく。
「席を立ったあの時、匂いが移るほど西田の側に居たわけか」
「………」
 黙秘を続ける彼女に苛立ちと歯痒さを感じる。
「答えないのは後ろめたいことがあるからか?二人きりで何をしていた」
「……神野さんには……関係ありません」
 思いがけない言葉に神野の腕に力が籠り、目がすっと細められた。
「……へえ…」
 そう呟くと神野は彼女の腕を引いてこちらを向かせ、その唇を強引に奪った。
「ん……っ…は…」
「関係ない、ね。将来さきを見せてあげられない俺には知る権利もないということか」
「………」
 頭を押さえられていて俯くことが出来ない結依は、せめてもの抵抗と言わんばかりに目を伏せた。
「俺を見切って西田に乗り換えるつもりか」
 募った苛立ちをぶつけるように問えば、下がっていた彼女の視線が戻ってきた。
「違……」
「この関係を望んだのはお前じゃないのか?終わらせたいというのならちゃんと幕を引け」
「……神野…さん…」
 結依の瞳からぽつりと涙が零れたのを見て神野はようやく満足感を得られたような気がした。そしてそれと同時に己の弱さと卑怯さに反吐が出そうになった。
 確かに最初のきっかけを作ったのは結依かもしれない。だが、本来なら振り払うべきそれを振り払わず、手を伸ばしたのは神野だ。その時点でどちらが、ということはなく二人同罪だ。
 それなのに神野は罪を押し付けるような言い方をして結依を追い詰める。そうして何処にも逃れられなくなった彼女をこの手の中に絡め取ろうとしているのだ。
 
―— 情けない……だけど… ―—

それでも彼女を手放したくはなかった。彼女を想うのなら放してやるべきだと分かっていても、どうしても放したくなかった。
「それが出来ないのなら……」
 放しはしない、という言葉を呑み込み、神野は自嘲の笑みを口の端に浮かべながら結依の涙を舐めとった。




 分かっている。
 初めから二人の関係に未来などないということくらい。それを承知の上で神野に抱かれることを選んだのだ。
 だから別れの理由は彼が言う様なことではない。ないが、終わりにしなければいけない、そう思っていたのは事実だ。それなのに―—―—。
「は……っ…あ…」
 嬉しい。
 結依の体をバスルームの壁に押し付け、感情のままに動いている神野の瞳に映るのは情欲と、そして嫉妬。
「…ん……っ…」
 自分のものだ、と主張するように体中に痕を付けられ、咬みつくような乱暴なキスが吐息を奪う。
 だが、それすらも結依には嬉しくて堪らなかった。
 
―— 別れるなんて……出来ない… ―—
 
 幕を引け、と言った神野の瞳が苦しそうに歪められるのを見て、結依の中で何かが崩れた。
 おそらくそれはこの数ヶ月の間、ぐるぐると思い詰めていたものだろう。それは脆くもあっという間に崩れ去り、そしてそこにはただ彼への想いだけが残った。
 一度も将来さきを夢見たことがない、と言えば嘘になる。結依だって女だ、結婚や家庭を持つことに憧れはあった。だけどそんなものが欲しいのなら、最初から神野に手を伸ばしたりしない。
 "将来さき" よりも "刹那いま" が欲しい。
 こうして抱き合っている時だけは、神野は自分のものになる。この温もりが全てだ。
 
―— だから…… ―—
 
 幕はちゃんと引く。
 だけどそれは今じゃない。終止符を打つのはまだ先でいい。
 必ずこの手で終わらせるから、だから今はまだ―—―—このままでいさせて。
「他のことを考えるな」
「…っ…あっ…」
 激しく突き上げられ、結依は抱きつくように彼の首に腕を回す。シャワーの音に混じって嬌声がバスルームに響く。
 本当に神野の為を考えるのであれば今すぐにでも別れるのが一番いい選択のはずだ。誰にも気付かれていない今ならばまだ間に合う。万が一バレてしまえば彼にとっては致命的だ。
 だからここで身を引くのが最善のはず。愛しているのならそうするべきだ、と誰もが言うかもしれない。
 だけど、と結依は思った。
 相手の為を想い、自らの心を犠牲にする。それが愛している証なのだというのなら、身を引くことが出来ない自分は神野を愛していないということになるのだろうか。
 己の存在が枷になると分かっていても、神野の幸せを奪いかねないと分かっていても、どうしても離れることが出来ないと涙を流すこの想いは愛ではないのだろうか。
 それならば、この想いは一体なんなのか。
 彼を欲するたびに感じる、この焦がれるような想いは。
 もがき、苦しみ、傷付きながら、それでも手放せず抱き続けるこの想いを愛と呼ぶことが出来ないのなら、なんと呼べばいいのか。
「…神野……さ…ん…」
 手を伸ばせば彼の手が触れ、指が絡められた。
「結依」
 名前を呼ばれるだけで、瞳を見つめられるだけで、こんなにも心が震える。
 
―— 誰か……教えて… ―—
 
 焼き尽くすようなこの衝動を、愛と呼べないのなら。
 誰か、教えて。


 ―—―—―— この想いの名を。



end...      .





STORYs TOP | 前ページへ | Afterword






inserted by FC2 system