翌朝、目が覚めたアレンは起き上がってからふとベッドに眠るノエルに目をやった。久しぶりの遠出で長時間馬車に乗ったせいで疲れたのだろう、彼女は起きる気配はなく、ぐっすりと眠っている。
 こうして寝顔を見るのは初めてだが、ずいぶんとあどけない。
 このままゆっくり寝かせてあげたいところだが、肝心のメインは今日だ。ノエルが行きたがっていたファラスの丘に行くには彼女が居なければ意味がない。
「ノエル」
 アレンはベッドに腰掛けると、そこで眠る彼女に声をかけた。だが、ノエルは小さな声を上げて少し身じろいだだけで目を開けようとしない。

―― まるで陽だまりで眠っている猫みたいだ ――

 そう思ってくすっと笑いながらアレンはノエルの頬にそっと触れた。
「……ん…」
「おはよう、ノエル。もうそろそろ起きないとファラスの丘に行けなくなるよ」
 ノエルの瞼がゆっくりと開き、ぼんやりとした瞳がアレンを捉える。それが次第にはっきりしてくると驚いたように飛び起きた。
「おはよう、ノエル」
 アレンが再びそう言うとノエルは恥ずかしそうに視線を伏せ、おはようございます、と小さく答えた。
「ゆっくり眠れた?」
「私はベッドを使わせてもらったから……アレンのほうが…」
「俺は大丈夫だよ」
 そう言ってくすっと笑うと、ノエルの口元がほっとしたように和らいだ。
「そうだ、せっかくだし朝食は街で何か買っていこうか。朝市が開かれているはずだよ」
「朝市?楽しそうだわ」
「じゃあ決まりだね。準備が出来たら出かけよう」
「はい」
 それから小一時間ほどで身支度を整えた二人は宿を出て市場に行き、朝食となるものを見て回った。
「あの、少し覗いてみてもいいですか?」
 歩いている途中で遠慮がちに袖を引かれてアレンが振り向くと、ノエルは小さな露店に視線を向けた。どうやら装飾品の店のようだ。
「いいよ。ゆっくり見ておいで」
 アレンの一言に嬉しそうに微笑みを浮かべ、ノエルは店の前に歩を進めた。
 その後ろを追うようにしてアレンもその店に行くと、彼女はすでに店先の品物をキラキラとした瞳で眺めていた。やはり女性は可愛いものや綺麗なものに心を奪われるらしい。

―― そういえばティナもそうだったな…… ――

 ノエルの後ろ姿を見ているうちに、あの雨の港町で装飾品を見ていた彼女の姿が思い出された。しゃがみ込んで瞳を輝かせる少女のような姿が重なる。
 そして、ふとアレンは妙な違和感を覚えて首を傾げた瞬間、ノエルが振り向いた。
「見て、アレン。すごく綺麗」
 子供のように無邪気な声ではしゃぐノエルを見て、アレンは違和感の正体に気付いた。
 ティナリアを思い出したときに必ずある痛みがなかったのだ、と。
 小さな痛みを生み出すその棘は、届かない胸の深くに刺さったままいつまでも取れることはないと思っていた。それなのに何故かいまは痛むことはなかった。

―― どうして…… ――

「……本当だね」
 困惑したアレンは思わず胸に手を当てながらも、どうにか笑顔を繕ってそう言った。だが、その笑顔が作られたものだと気付いたのだろう、ノエルが形のいい眉を下げて心配そうな顔をした。
「どうかしました?」
「いや、何でもないよ。それよりもどれか気に入ったものはあった?」
 話題を変えようとして軽い口調で尋ねるとノエルも気を遣ってか、すぐに微笑んでその話に乗ってくれた。
「ええ。でもどれも高くて」
 ちらりとそれを見やったが、ノエルはすぐに視線を戻して少し残念そうに笑った。
「買ってあげるよ」
「いえ、ここに連れて来て貰えただけで十分です」
 アレンの申し出に驚いたノエルは慌てたように手を振ってそう言った。
「寄り道してしまってごめんなさい。行きましょう」
「本当にいいのかい?」
「ええ」
 にっこりと微笑むノエルにそれ以上言うことも出来ず、先に店を出て行った彼女を追ってアレンもまた店をあとにした。
 それから手軽な朝食を買い込んだ二人は辻馬車を拾いに停車場に向かった。ちょうどよく停まっている馬車があったのでそのまま乗るつもりでいたアレンだったが、ふと思い立って足を止めた。
「アレン?乗らないのですか?」
 少し前を楽しげに歩いていたノエルが振り返ってそう言った。
「……ちょっとここで待っててくれるかな?」
「え?」
「すぐに戻るからここで待ってて」
 アレンは念を押すようにそう言うと返事も待たずにいま来た道を小走りで戻っていった。
 停車場には一人ぽつんと取り残され、不思議そうに首を傾げてその背中を見送るノエルの姿があった。




 ガタガタと馬車に揺られながら、ノエルはちらりとアレンに視線を向けた。アレンは外の景色を眺めているのでノエルが見ていることに気付いていないようだ。

―― さっきのは何だったのかしら? ――

 戻ってきたアレンにいくら聞いても、どこに行っていたのか教えてはくれなかった。悪戯っぽく微笑みながら "あとでね" と言うばかりだ。
 気になって悶々としていると、不意にアレンがノエルのほうを振り向いた。思わずビクッと体が跳ねる。
「ん?どうかした?」
「い、いえ。何でもありません」
「そう?あ、もう着くみたいだよ」
 アレンがそう言った少し後、馬車はゆっくりと停止した。御者が開けた扉から太陽の光が入り込み、ノエルは眩しさで目を眇めた。
 先に降りたアレンから差し伸べられた手に自らの手を預けて馬車から降りると、そこに広がる景色に一瞬にして目を奪われた。思わず感嘆の声が零れる。
「わぁ……」
 目の前に広がる広大な草原が陽の光を浴びてキラキラと輝いている。小高い丘からは見下ろす街は小さく、おもちゃのようだ。
「すごい……綺麗…」
「向こうまで歩いてみようか」
 アレンは今いる場所から少し離れたところにある一本の木を指差した。
 何もない草原にただ一本だけのびのびと葉を茂らせて立っている木。おそらくあれこそがノエルが目的としている、願いが叶うという言い伝えのある樫の木だろう。
 ノエルは一も二もなく頷くと、跳ねるように駆けていった。
「そんなに急ぐと転ぶよ」
「こう見えても駆けっこは得意なんですよ」
 そう答えると後ろからアレンの笑う声が聞こえた。あまりにも穏やかな笑い声がノエルの心を切なく揺らす。

―― そんな風に笑わないで…… ――

 願いを叶える為じゃない。きっとこの願いは叶わないと分かっている。だから想いを断ち切る為にこの地に来たのに、こんな声を聞いたら決心が鈍りそうになる。
 ノエルは樫の木の下に辿り着くと、深く息を吸い込んで上がった息を整えた。
「大丈夫?」
「ええ」
 すぐに追いついたアレンに微笑み返すと、彼もふっと相好を崩した。
「何ですか?」
「いや、連れてきてよかったなと思って」
 そう言った声が、自分を見つめるその瞳が、いつもより優しげに感じられ、ノエルは思わず胸が高鳴るのを抑えられなかった。
「あの、アレン」
「何?」
「少しの間、ここから動かないでもらえませんか?」
「いいけど……どうして?」
「それは……」
 願い事をしているところを見られたくはないから、とは言えずにノエルは黙り込む。
「分かった、ここにいるよ」
 アレンは無理に聞き出そうとはせずに微笑むと、汚れることなど気にする素振りを見せずに草の上に腰を下ろし、木の幹に背中を預けて目を閉じた。
 それを見て安心したノエルはそこからぐるりと半周して、アレンがいる反対側に移動した。
 大きな樫の木に手を当ててゆっくりと上を見上げた。生い茂る葉を風が揺らし、さわさわと心地良い音を奏でている。それを聞きながらノエルも瞳を閉じた。

―― どうか私を………私だけを…見てくれますように… ――

 何度も心に思い浮かべたこの願い。
 どうか叶えて。そうでなければ粉々に壊して。もう愚かな期待などしなくて済むように――――――。

―― アレン…… ――

 最後に一度だけ心の中で強く呼び掛けると、ノエルはゆっくりと瞳を開けた。
「ノエル」
 ちょうどその時、手をついていた幹の反対側からアレンの声が聞こえた。
「そっちに行ってもいいかい?」
「……ええ、もういいですよ」
 もう願うことはない。ノエルは寂しそうな微笑みを浮かべて答えた。
 その返事を聞いてすぐにアレンが彼女のそばにやって来る。彼のその手の中に握られているものにノエルはまだ気付いていなかった。






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