ノエルにここから動かないでくれ、と頼まれて木の幹を背にして座り込んでいたアレンは、その時の彼女の表情を思い出した。
 それまではいつもと同じように嬉しそうに笑みを浮かべていたはずなのに、不意に映った彼女の横顔は何処か寂しげで今にも泣きそうに見えたのだ。

―― 気のせいか……? ――

 そう思いながら手持ち無沙汰になったアレンはおもむろにポケットから小さな包みを取り出した。
 箱の中に入っている物を手に取り、目の高さまで持ち上げる。彼の手の中にあったのは小さな藤色の石が嵌め込まれたペンダント。
 それは今朝、あの市場で立ち寄った装飾店でノエルがじっと見ていたものだった。あの時、アレンが停車場に彼女を残していったのはそれを買いに戻る為だったのだ。
 アレンは微かな風にも頼りなく揺れているそれを見つめながら、記憶の糸を手繰り寄せた。
 いつもなら進んで思い出そうとはしないティナリアの記憶。初めて出逢った日から別れを迎えたあの日までのことはいまでも鮮明に思い出せるが、やはり胸の痛みは感じなかった。

―― 彼女がいてくれるから……か… ――

 誰かがそばにいてくれるだけでこんなにも変わるとは思いもしなかった。自分でも知らないうちに彼女の温かさに癒されていたのだろう。
 そう思った時、不意にいつかのイヴァンの言葉が頭の中に蘇った。

"お前も自分の幸せを考えろ。彼女もそれを願ってるはずだ"

 アレンは手にしていたペンダントをぎゅっと握りしめた。チャリ、と鎖が小さく音をたてる。その握りしめた手を額に当て、祈るように目を閉じた。
 閉じた瞼の裏に様々な人が浮かんだ。多大な迷惑をかけたであろうティグス家、恋敵であったルーク、悪友であり無二の親友であるイヴァン、そして誰よりも大切な存在だったティナリア。
 彼らの姿が薄れて消えていく。再び静かになった心の中でアレンはいいのだろうか、と自問した。
 もう一度、幸せになりたいと願っても。
 もう一度、誰かにそばにいて欲しいと願っても。
 もう一度、誰かを深く愛しても――――――。
 アレンはゆっくりと目を開け、手を下すとそのまま空を見上げた。
 答えを教えてくれる者がいないことなど分かっている。その答えを出さなくてはいけないのは自分だということも。

―― もう……答えは出てる… ――

 アレンは手の中のペンダントをもう一度見つめ、それからふっと口元に笑みを浮かべた。
「ノエル、そっちに行ってもいいかい?」
「……ええ、もういいですよ」
 少しの間を置いてノエルの声が聞こえた。
 アレンは立ち上がって服に付いた埃を払うと、ぐるりと幹を回って彼女の元に歩いて行く。そして彼女の顔を見て、さっきのが気のせいではなかったことを知った。
「どうしたの?」
「え?」
「泣きそうな顔をしてる」
 アレンがノエルの頬に手を伸ばすと、彼女はそれを避けるように顔を背けた。触れそうになった指先が虚しく宙で止まる。
「そ……そんなことないですよ。それより向こうの方まで行ってみましょう。きっと見晴らしがいいわ」
 取り繕うような明るい声が逆に不自然さを増大させる。
「ノエル、何かあったの?」
「何もないですよ」
 そう言って少しうつむいたまま歩き出そうとしたノエルの腕を掴み、アレンは彼女をその場に引き止めた。
「ちょっと待って」
「………」
 背中を向けているノエルの華奢きゃしゃな肩はやけに頼りなく見える。アレンは思わずその肩を抱き寄せてやりたい衝動に駆られたが、それを抑えてノエルの細い首にあのペンダントを付け、彼女の前に回った。
「よく似合ってる」
「……これ……」
「今朝、見てただろう」
 喜んでくれるだろうと思っていたが、ノエルの反応は想像とは違っていた。
「……どうして…?」
 泣くのを堪えているように絞り出された小さな声。よく見れば彼女の肩は微かに震えていた。
「どうして……優しくするの…」
「ノエル?」
「……愚かな期待なんて……もう…したくないのに…」
 独り言のように呟いたのと同時に俯いた彼女の瞳から透明な雫がぽつりと零れ落ちた。
 アレンは胸が締め付けられたように痛んだ。一線を引きながら暮らしていた日々がどれだけノエルを追い詰めていたのか、彼女の言葉を聞いてようやく気付いた。
「ノエル、俺は……」
 自分の愚かさに眩暈を覚えながら、アレンは口を開いた。が、それはノエルの言葉に遮られ、最後まで言うことは出来なかった。




 首にかけられたペンダントは今朝、市場で見た数ある品の中でノエルが一番目を引かれたものだった。薄い藤色の石が光を跳ね返し、キラキラと輝いている。
 どうしてアレンがこれだと分かったのか、そんなことはどうだっていい。問題はどうしてこれをくれたのか、だが、きっと彼は深いことは考えずに手にしたに違いない。
 願いをかけて諦めようとした矢先にこんな優しさを見せるなんて、まるで嫌がらせのようにさえ思えてくる。
 アレンに向けて、というよりも自身に向けて言ったような言葉が無意識のうちに零れ出る。彼は慌てたように口を開いたが、それを遮ってノエルが言葉を続ける。
「あなたは私に対して罪の意識があるだけ……」
 アレンはぎくりと体を強張らせた。それを見たノエルが自嘲したような笑みを口元に浮かべる。
「分かってます……その優しさに付け込んだのですから…」
 ノエルが視線を上げると、彼の困惑した表情が映った。ふっと目を細めて笑みを浮かべるが、その笑みはひどく悲しいものになってしまった。
「……ここに来たのは諦める為でした。あなたの心はあの頃も、今も、あの方のもの……それでも…」
 そこで言葉を区切り、静かに息を吸い込んだ。

―― そばにいたいから…… ――

 そのために邪魔になる想いなら、絶対に叶うはずのない願いならば、諦めてしまったほうがいい。その方が無駄に足掻くよりも楽だから。
「……だから…」
 続けようとした言葉をアレンが聞くことはなかった。
 引き寄せられた腕の中に閉じ込められ、驚く間もなくノエルの唇にアレンの唇が重ねられた。
「……っ…」
 感情をぶつけてくるような口付けに、ノエルは声も出せずにされるがままになっている。何が起きているのか、もはや頭では理解出来なかった。
 ようやく解放された時には驚きでノエルの涙は止まっていた。
「ごめん」
 一言、耳元で小さく謝ったアレンはゆっくりとノエルから体を離し、それから彼女をじっと見つめた。
 真っ直ぐに見つめてくる視線は逸らすことが出来ないほど強く、今まで見たことがないくらい熱っぽかった。
「……ノエル」
 不意に呼ばれた名前にノエルはびくっと体が跳ねた。
「俺がいま一番必要としているのは君だよ」
「……え…」
 一瞬、アレンが何を言っているのか分からなかった。ノエルはただ立ち尽くしたまま、彼の言葉の続きを待った。
「最初は確かに君の言った通りだった。償わなければならないと思ってた。君がそばに置いて欲しいというならそうするべきだ、と」
 自分で言った言葉なのにアレンの口から聞かされるとまるで鋭利な刃物のような鋭さで胸を痛めつける。
「だけど、いまは違う。俺が・・そばにいて欲しいと思ってる」
「それは……あの方の…」
 代わりとして、と言おうとしたが、それを言う前にアレンが首を振った。
「違うよ。代わりなんかじゃない。今更こんなこと言っても信じて貰えないかもしれないが、ティナのことは本当にもういいんだ」
 アレンの言葉に治まったはずの涙が再び滲んでくる。悲しくてではなく、嬉しくて。
「許して欲しい、ノエル。俺は今まで君の優しさに甘えていただけだった。何も言わなくてもずっとそばにいてくれる、と」
「………」
「それがどんなに君を傷付けていたか……今更気付いたよ」
 アレンは変わらずに真っ直ぐノエルを見つめてくる。その瞳の中に嘘は見えない。
「君の心がまだ俺にあるなら……」
 心があるか、なんて聞くまでもないことだ。
 どんなに忘れたくても忘れることが出来なかった。初めて出逢ったあの時から、この心はアレンに囚われたまま変わることはない。
「そばにいてくれないか……これからもずっと…」
 少し緊張したような掠れた声が耳に届いた。彼のこんな声は初めて聞いた気がする。
 ノエルは溢れそうになる涙を堪えながらアレンの瞳を見つめ返した。
「……そばに……いたい…」

―― だけど…… ――

 ノエルの中にはまだ拭い切れない不安があった。あれほど愛されていたティナリアに勝てる自信なんてひとつもなかったからだ。
「だけど……私…きっとまた不安になってしまう……あなたを疑ってしまうかもしれない…」
 吐露したその不安を綺麗に消し去るようにアレンは優しい微笑みを向けた。
「信じて貰えるまで何度でも言うよ」
「……明日になってもあなたの心は変わってしまわない?」
「変わらないよ。君の不安が消えるのなら毎日だって誓おう」
 そう言ってアレンはそっと口付けを落とした。



「明日も変わらず君を愛する、と」



 それは何度も諦めようとしながらも、心の奥底でずっと願い続けてやまなかった言葉。
 ノエルの頬に涙が伝った。
「……絶対…?」
「ああ、絶対に」
 その涙を優しく拭うようにアレンの手が頬に添えられる。今度は彼女の顔が背けられることはなかった。
「ずっとそばにいてくれてありがとう……愛してるよ、ノエル」
「……私も……愛してます…」
 どちらからともなく触れあった唇から互いの温度を感じ取る。
 いま、アレンの一番そばにいるのは自分なのだ、と教えてくれるような、温かな口付けだった。






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