まだ混乱の治まらない頭を小さく振ってからアレンは部屋の中の光景を見やった。
 そこには相変わらずな態度で椅子に座って頬杖をついているイヴァンと、その奥で居心地が悪そうに身を小さくしてうつむいているノエルの姿があった。
「イヴァン」
 ほんの少し苛立ちを含ませた声でアレンが呼ぶと、イヴァンはそんなことも意に介さない様子で笑いながら答えた。
「そう怒るな。突然来たのは謝るよ」
「そんなことはいい。それより何でノエルを連れてきた」
 努めて声を抑えていたつもりだが、どうにも抑えきれていなかったようだ。視界の端でノエルがさらに身を小さくさせたのが映る。
「彼女が望んだことだ」
「どうして彼女がそんなことを望むんだ」
 そう言いながらノエルが言った言葉を思い出す。

"逢いたかった"

 確かに彼女はそう言っていた。だけどその理由が解らないのだ。
「ノエル嬢、そろそろお話をされたらいかがです。この朴念仁にはあなたがここに来た理由がまだ解らないようだ」
 咬みつくように詰め寄るアレンを余所にイヴァンはため息を吐きながら奥に向かって声をかけた。突然声をかけられて驚いたのか、ノエルの華奢な肩が小さく震える。
 伺うように恐る恐る顔を上げたノエルは不安げで、そして何処か追い詰められたような瞳をしていた。
「ノエル、どうしてこんなところに来たんだい」
 いくら突然の出来事に驚いていたからといってさっきの態度はないだろうと反省し、アレンはなんとか落ち着きを取り戻すと彼女を怯えさせないように出来る限り声を抑えて訪ねた。
「………」
「ノエル」
 答えようとしない彼女の名前をもう一度呼ぶ。すると、きゅっと引き結ばれていた唇がゆっくりと躊躇ためらいがちに開かれていった。
「……どうしても……もう一度お逢いしたかったの…」
 さっきと同じ答えにアレンは小さく息を吐いた。
「ノエル、君はリディア家の令嬢だ。こんな場所に来るべきじゃない」
「でも……」
「君には申し訳なかったことをしたと思っている。いくら謝っても足りない。君が望むならどんな償いでもするよ」
「……アレン様…」
「だけど伯爵も心配しておられるだろう。すぐに王都に帰るんだ」
 アレンはそう言って諭したが、ノエルはゆっくりと首を振るだけだった。そして放たれた言葉にアレンは耳を疑った。
「私、もう戻らないつもりで家を出て参りました」
「そんなこと伯爵が許すわけ……」
「数日前、父が婚約話を持ってきたのです。でも私は……」
 ノエルはアレンの言葉を遮るとそう言って彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。その瞳には誰が見ても判ってしまいそうなほどアレンへの恋情が込められていた。
「他の誰かに嫁ぐなんて考えられませんでした。だから……嘘を吐いたの」
「嘘?」
「お腹に誰のものか分からない子供がいる、と」
「………」
 予想もしていなかったことに呆気にとられ、アレンは言葉を無くした。その彼の表情を違った風に捉えたノエルは慌てて手を振りながら話を続けた。
「もちろん子供なんていないわ。家を出る為の嘘です。それを信じた父は激怒して私を勘当しました」
「なんてことを……イヴァン、お前まさか…」
 イヴァンが入れ知恵をしたのかと思い、睨みつけるような視線を向けたが、彼は飄々ひょうひょうとした顔で肩をすくめた。
「俺は何もしてないよ。ただお前の居場所を探して彼女に教えただけだ」
「それにしたってなんで止めなかったんだ」
「誰かに逢いたい気持ちはお前が一番よく解ってるんじゃないのか?」
「………」
 アレンはその言葉にぐっと詰まったように口を噤んだ。
「アレン様」
 呼ばれて振り向けば、ノエルの真っ直ぐな瞳とぶつかった。
「さっき望むならどんな償いでもする、とそう仰いましたよね」
「ああ」
「それなら……私をそばに置いて下さい」
「ノエル、それは……」
「お願いします」
「………」
 アレンは黙ったまま眉をひそめた。険しい表情になっているのは自分でも分かる。
 
―― ノエルをそばに……? ――
 
 恐らく今後もこの身が追われることはないだろうと思うが、それでも誰かをそばに置くことなど考えたこともなかった。ましてやそれが貴族の令嬢だなんて夢にも思わない。
 それなのに自分の元に現れた彼女はそばに置いてくれ、と請うてきた。
 アレンは迷った。
 常識的に考えれば王都へ送り返してやるのが一番だということは重々承知だ。だが、ここにいることが彼女の願いなら聞いてやらなくてはいけないような気にもなっていた。
 あの時、婚約者役として選んだのがノエルでなければ、今頃彼女は他の誰かと結婚し、幸せに暮らしていたに違いない。
 そんな未来を壊したのはアレンだ。ティナリアだけを求めて他の誰かを傷付けても構わないと思っていたその愚かな行動が、一人の女性を巻き添えにしてしまったのだ。
 ならばその責任を取って彼女の願いを聞き入れてやるべきなのではないだろうか。
「……アレン様…」
 消えてしまいそうなほどか細いノエルの声にアレンの心は決まった。
「ここは君が今まで暮らしてきたような場所じゃない。楽な暮らしなんて出来ないんだよ?」
「それでもいいの。あなたのそばにいたいんです」
「……分かったよ、降参だ」
 そう言ってアレンは小さく息を吐くと、手のひらを見せるように両手を肩の辺りまで上げた。
「お、素直だね」
「煩い。こうなることがわかってて連れてきたくせに」
「まあね」
 イヴァンはも可笑しそうに笑いながら椅子の背もたれに寄り掛かった。
「ノエル、君もどうしてこんな奴に頼んだりしたんだ」
 今までの重い空気を掃おうとして軽い口調でそう言った時、ノエルが唐突に抱きついてきた。思わずよろけそうになるのを堪え、アレンは彼女の体をしっかりと受け止めた。
「ノエル?」
「……本当…ですか?」
「ああ、好きなだけここにいるといいよ」
「……アレン様…」
 アレンは困ったように眉を下げながら微笑むと、ノエルの頬にぽろぽろと零れる涙を優しく拭った。




 その姿を見た瞬間、息が詰まりそうになった。
 二年前、突然消えてしまった婚約者がいま目の前にいる。それだけで心臓が激しく胸を打ち付けた。
「……アレン…様…」
 その名を呼んだ途端、涙が溢れて視界を歪ませた。
 婚約解消の旨と短い謝罪の言葉が綴られたアレンからの手紙が届けられた時ですらノエルが涙を流すことはなかった。ただその手紙を握りしめ、激怒する父とそれを宥める母をどこか他人事のように眺めているだけだった。
 婚約を交わすまでアレンのことをあまり知らなかったし、初めて言葉を交わした時も "いい人" だという程度しか思っていなかった。
 けれど、何度か会っているうちに彼の優しさに、そして時折見せる寂しそうな瞳に惹かれていった。その瞳に秘密が隠されていたなんて気付くことなく、ノエルはいつしか想いを寄せるようになった。
 しかし、その気持ちは他ならないアレンによって地に落とされた。
 彼には他に想う人がいる。
 そのことに気付いたのは婚約発表の日だった。噂に違わぬ美しさの "華の乙女" が壇上で倒れたあの時のアレンの表情を見てはっきりと分かった。
 それでも夫婦となればきっと自分を見てくれるに違いない、とノエルは愚かにもそう信じていた。あの手紙をもらうまでは————。
 ノエルは空虚になった胸にくすぶる想いが風化して消えていってくれるのを待ったが、いくら時が流れても想いは消えてはくれなかった。
 そこに湧いて出た婚約の話にノエルは決意し、イヴァンに頼んだ。アレンを探してほしい、と。
 しばらくしてアレンが見つかったと知らせを受けたノエルはいてもたってもいられず、自分でも驚くような行動をとったのだ。
 誰の子かもわからない子が腹にいる、と告げた父の顔は見物であった。婚約を解消されるという醜聞ですでに一度父の顔に泥を塗っているノエルは予想通り、すぐに勘当を言い渡された。
 そしてイヴァンの案内の元、アレンがいる街、ダズへとやって来たのだった。
「それにしても本当に大胆なことをしたね」
 とりあえずノエルを椅子に座らせて三人分のお茶を出しながらアレンがそう言って笑った。
 少し落ち着いたノエルは彼のその言葉に自分の行動がどれほどのことであったかを改めて再認識し、恥じるように頬を染めて俯いた。
「それだけ会いたかったってことだろう。男冥利に尽きるじゃないか」
「茶化すな」
 からかうように笑っているイヴァンに向かってアレンは眉を寄せながらため息を吐いた。
「あの、アレン様」
「何?」
「本当はご迷惑……ですよね」
 恐る恐るノエルが尋ねると、アレンはふっと柔らかく微笑んだ。
「驚きはしたけど、迷惑じゃないよ」
「………」
「そんな顔しないで」
 泣きそうな顔にでもなっていたのだろうか、アレンはそう言うとノエルの頭をぽんぽんと軽く撫でた。その手の温かさにノエルはさらに泣きそうになった。
 一世一代の願いを許してくれたアレン。しかし、彼の気持ちはノエルのそれとは違う。
 アレンへの想いは恋情。
 ノエルへの想いは償い。
 
―― それでも……そばにいたい… ――

 その違いを解っていてもなお、そう願ってしまう愚かな自分がいる。俯くフリをして彼らから顔を隠し、ノエルは寂しそうに笑った。






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