ノエルをそばに置くことを了承したはいいが、彼女が住む場所をどうするかということで頭をまた悩ませた。ノエルを居間に置いてイヴァンと二人で別室へと移動し、アレンはそこで話をした。
「もちろん、ここに決まっているだろ」
 当たり前のような顔をして床を指さしながらそう言い捨てるイヴァンをじとっと睨み付け、アレンはため息を吐いた。
「結婚もしていない女性が男の家に住むなんて、周りからどんな目で見られるか分かってるのか?」
「夫婦ということにすれば問題ないじゃないか」
「そんなことしたら彼女の名に傷がつく」
 もしもこの先、ノエルに想う者が出来たのなら心置きなく幸せになってもらいたい。そうなればやはり不穏な噂などないに越したことはないし、自分が再び彼女の幸せを邪魔するようなことがあってはならない。
 アレンのそんな心の内を読んだのか、イヴァンが呆れたような顔をして肩をすくめた。
「彼女も子供じゃないんだ。自分の言動の責任くらい自分でとれるさ」
「しかし……」
「じゃあお前は彼女に一人で暮らせ、と言うのか?」
「………」
 確かに治安は悪くないとはいえ、女性が一人で生活するにはそれなりに大変だろう。ましてや彼女は温室育ちの令嬢だ。見知らぬ街で一人で暮らせというのは無謀過ぎる。
 結局、イヴァンのその一言でアレンは折れ、この家で一緒に暮らすことになった。
 だが、同じ屋根の下で暮らすとはいえ、寝室まで共にするわけにはいかない。幸い、空き部屋があったのでそこを片付けて彼女の部屋にすることにした。
「なんだ、一緒でいいじゃないか」
 からかうようにそう言ったイヴァンに向かってアレンは本気で睨み付けた。
「馬鹿なこと言うな」
「冗談だよ」
 イヴァンは心底楽しそうに笑い、それからふと真面目な顔つきになった。
「アレン」
「何だ」
「お前も自分の幸せを考えろ。彼女もそれを願ってるはずだ」
 彼女――――――。
 イヴァンが言ったのがノエルではないことはすぐに分かった。心優しい美しい少女の面影がアレンの脳裏に浮かぶ。
 きっと彼の言うとおり、彼女は今でも心の片隅で自分のことを心配しているだろうと思う。それを取り除いてあげるには自分が彼女と同じくらい幸せにならなければいけない。
 彼女には何の不安も心配もなく、ただ幸せに笑って暮らして欲しかった。
「ああ……分かってるよ」
 そう言ったアレンの背中をポンと叩き、イヴァンは少し心配そうな瞳で微笑んだ。
「しばらくお前たちの様子を見ていたいところだが、明日にはもう王都に戻るよ」
「早いな」
「まあ、仕方ない」
 すでに伯爵家を継いでいる彼がいつまでもこんなところにいるわけにもいかないのだろう。宣言通り、イヴァンは翌日馬車に乗って王都への帰路についた。




 イヴァンとの会話を思い出しながらキッチンで食後のお茶を入れているノエルにちらりと目を向け、気付かれないように小さく息を吐いた。

―― 妙な感じだな ――

 ノエルがここで暮らし始めてからすでに数日が経っていたが、自分以外の誰かがこの家にいるということに未だに慣れずにいた。
 何処となく覚束ない手つきでティーポットとカップを乗せたトレーを運んでくるのを見て、アレンはくすっと笑うとソファーから腰を上げた。
「大丈夫?」
「はい……あっ!」
 小さな悲鳴と共に手にしたトレーがぐらりと傾いた。アレンは咄嗟に伸ばした手でそれを支え、ノエルから取り上げる。
「俺が運ぶよ」
「あ、いえ……」
「いいから。ほら」
 そう言って空いた手でノエルの背中を押しやると、彼女は眉を寄せて申し訳なさそうにうつむき、ソファーに腰を下ろした。
「ごめんなさい」
「……火傷はしてない?」
「はい」
 ノエルはよくこんな風に謝っていたが彼女が謝れば謝るほど、アレンの中の罪悪感は膨らんでいった。本来、謝らなければならないのは自分の方なのに、と改めて思い知らされる。
 僅かに感じる気まずさを隠しながらアレンは話題を変えようとして、カップに紅茶を注ぐ彼女に優しく声をかけた。
「今日は何をしていたんだい?」
「あ……この近くを少し散策して、それから……」
 ノエルはそこで言葉を区切ると気まずそうにキッチンに目をやった。
「お料理を……しようと思ったんですけど…」
「料理?君が?」
 意外だった答えにそう訊き返すとノエルの頬が赤く染まった。
「でも、その……失敗してしまって…」
 恥ずかしそうに瞳を伏せてそう言う彼女の姿は可愛らしかった。その様子に思わずアレンが声を漏らして笑うと、彼女は赤くなった頬を膨らませた。
「笑うなんてひどい」
「ごめんごめん。まあ、料理なんてすぐに出来るものでもないさ」
 そう言って宥めてやると、ノエルはしゅんとして身を縮ませた。
「女なのに料理も出来ないなんて恥ずかしい」
「女性だからといって初めから上手くいく人は少ないよ。ティナだって……」
 無意識のうちに口をついて出てしまった言葉に、それまで和やかだった二人の間の空気が一瞬で凍り付いた。

―― しまった…… ――

 顔を伏せる刹那、ノエルの瞳が悲しそうに細められたのをしっかりと見てしまい、アレンは自分の不用意さに心底嫌気が差した。
 膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめている彼女になんて声をかけたらいいのか迷っていると、不意に彼女が顔を上げた。
「そうですね。上手になるように頑張って練習します」
 そう言ってにこっと笑ってくれたノエルにほっとする。アレンも気を取り直して彼女に微笑みかけ、今度は用心深く言葉を選んで口にした。
「失敗してもいいから今度は食べさせてくれるかな」
「笑わないですか?」
「ああ、もちろん」
「約束ですよ」
 彼女の嬉しそうな笑顔を見て胸が痛んだ。
 ノエルは押し掛けるようにここに来たことを申し訳なく思っているのだろうが、あの時 "迷惑じゃない" と彼女に言った言葉は嘘ではない。
 仮の婚約者だったとはいえ、そこまで想ってもらえるのは嬉しかった。
 ただ、どう接していいのか解らないのも正直な気持ちだった。償いの為に彼女をここに留めているというのに、今のようにこうやって傷を広げてしまうのではないかと思うと怖くなる。
 出来る限りの願いを聞いてやり、優しくしてやりたいのに、上手くいかない。

―― ノエル……君は本当にここにいていいのか…? ――

 しかし、これは彼女が望んだことだ。彼女がそばにいたいと望む限り、アレンからそれを拒絶することは決してない。
 アレンは頭の中に何度も浮かび上がる疑問を呑み込み、彼女に優しく微笑み返した。




 寝室へと入ったノエルはベッドにうつ伏せに身を投げた。
 数時間前にアレンと交わした会話を思い出しただけで、彼女の胸は抉られたように痛んだ。あの時なんとか堪えた涙がいまになって瞳に溢れてくる。
 だが、すぐ隣はアレンの部屋だ。泣き声など聞かれては彼がまた気に病んでしまうに違いない。
 そう思うと声を出すわけにもいかず、ノエルは枕に強く顔を埋め、小さく肩を震わせながら必死になって嗚咽を呑みこんだ。

"ティナだって……"

 ここに来てからその名前を聞いたのはこれが初めてだった。
 アレンの心の中にまだ彼女がいることはよく分かっているはずだった。けれど、頭では分かっていても実際に彼の口から聞くのは想像以上に辛かった。
 穏やかに流れていた時間もその一言で一瞬にして消え去り、優しく笑いかけられて舞い上がっていた気持ちも簡単に地に落とされてしまった。
 彼の表情には自分への申し訳なさと気まずさ、それから隠し切れない彼女への想いが浮かんでいたように思えて、それが余計に虚しさを掻きたてた。
「……アレン様…」
 枕に顔を押し付けたまま、ノエルは小さく呟いた。自分の耳にさえ届かない程小さな声は枕に吸い込まれて消えていく。
 後先も考えずにこんなところまで追いかけて来た自分をそばに置いてくれることだけでもありがたいと思うべきなのに、一緒にいる時間が増える度、それ以上の願いが心に湧き上がってきてしまう。

―― だめ……これ以上を望んではだめ… ――

 そばにいられればそれでいい。そう決めてここまで来たのだから、それ以上、多くを望んではいけない。
 ノエルは痛む心と湧き上がる感情を抑えるように、胸元をきゅっと握りしめた。




 こうして本来ならばもう二度と逢うことはなかったはずの二人が再び出逢い、仮初めの夫婦としての生活が始まった。
 互いの複雑な思いや感情が交錯しながら、表面上では穏やかな日々がゆっくりと過ぎて行った。






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