"もう一度聞くよ"

 そう言って真っ直ぐに捉えられた瞳は逸らすことが出来ず、ティナリアは困惑しながらもアレンの瞳を見つめ返した。
「俺と一緒に逃げることが出来る?」
 それはこの港に来てすぐにアレンが言った言葉だ。
 再び同じことを問われ、ティナリアは即座に確信した。昼間の出来事で自分の心に迷いが生まれたことにアレンが気付いていることを。そして自分の態度が大切な人を不安にさせているのだ、と。
「……アレン…」
「出来る?ティナ」
 畳み掛けるように問うてくるアレンへ返す答えは決まっていた。いや、他の選択肢など始めからなかったのだ。

―― 私は……アレンといなきゃいけないの…… ――

「……うん………一緒に……」
 震えそうになる声を押さえようとしたせいで掠れ声になってしまった。その声ごと奪うようにアレンの唇がティナリアのそれに重なる。
「それなら……証をくれないか」
「……証…?」
 アレンの声が不意に低くなったように感じられて、ティナリアは不安に駆られた。
「今ここで、俺のものになってくれ……」
 考えもしなかったアレンの言葉に衝撃を受けているうちに、己の体はベッドの上に張り付けられていた。思わず戦慄が走り、体は意図せずに強張った。
「アレン……待って…」
「どうして?俺を愛してくれているなら……一緒に来てくれるなら出来るだろう?」
 確かにアレンの言う通りだ。
 愛しているのならこの身を委ねて構わないはずだ。むしろその腕に抱かれたいと思うはずだ。それなのに何故、この体はこんなにも強張っているのだろうか。
「俺のものになってよ……ティナ……」
「…待っ……」
 キスで言葉を遮られ、混乱している頭の中にアレンの一言が入り込んできた。
「……愛してる…」
 その言葉はティナリアの迷う心を後押しするように胸に響いた。アレンの想いに答えなくては、と気持ちが逸る。
「………私……も………」
「ティナ……」
 アレンに口付けられ、閉じた瞳の裏側に浮かんだ影に気付かなかったふりをして、ティナリアは彼に応えた。
「……ん…っ……」
 口付けは深まり、アレンの手が身に纏う服を剥がしていった。そしてその手は胸を包み込み、やわやわと動き始めた。彼とは違うその触れ方に、ティナリアの体は一気に強張った。
 それでも止まることのない手に、舌に、彼女の意識は翻弄され始めていく。
「……や…あっ…」
 彼しか触れたことのないその場所にアレンの指が触れた。ティナリアはぎゅっと目を瞑ると小さな手でシーツをきつく握りしめた。
「ティナリア……こっちを見て…」
 そう囁く声と彼の指に惑わされ、ティナリアは虚ろになった意識の中で違う声を聴いた。

"ティナリア……微笑わらって…"

 そう言って少し寂しそうに微笑むルークの姿が目の前に浮かんだ。その瞬間、ティナリアの心は違う場所に飛んでいた。
「………ルー…ク……」
 すぐそばで息を飲む音が聞こえた気がした。
「……ティナ……」
 悲しそうなアレンの声にティナリアの意識は一気に現実に引き戻された。咄嗟に口を押さえようとも、零れてしまった言葉を戻すことは出来ない。
「……ごめんなさ……」
「あの男に惚れた?」
 ティナリアの心臓が壊れそうなほど大きく鳴った。
「違……」
 首を振ろうとしているのに、体が強張って上手く動いてくれない。アレンはそんな彼女の頬に優しく手を添えると自分のほうに向けさせた。
「じゃあどうしてそんなに辛そうな顔してるの?」
「え……?」
 そんな風にしているつもりなんてなかったティナリアは、自分でも気付かなかったことを指摘されて狼狽えた。
「こうして君に触れているのに、君がここにいると思えないんだ。ねえ……いま、ティナの心にいるのは誰?」
 アレンのその言葉がティナリアの中にあった扉を開いた。頑丈にかけたはずの鍵が壊れ、中にしまっていた感情が溢れ出してくる。

―― 心に……いるのは…… ――

「………ごめ……なさい……」
 感情と共に零れた涙が自分にそれが真実なのだと教えてくれた。

―― ルーク…… ――

 だけど、迎えに来てくれたアレンを捨ててルークの元に戻るなんて出来るはずがない。助けを請うた自分にそんな権利などない。
 "何故謝るのか" と尋ねるアレンに向かってティナリアは何度も首を振り続けた。
「……ごめんなさ……でも私……アレンと……」
 その続きは言うことが出来なかった。ティナリアの言葉は初めて聞くアレンの乾いた笑い声に遮られてしまった。
「ははっ、それは何?罪悪感?」
「……っ…」

"罪悪感"

 その言葉がティナリアの心に圧し掛かる。
「そんな気持ちで俺と一緒に来るっていうの?」
 責めるように言葉を連ねるアレンに、ティナリアは震える声を絞り出した。
「違……私は…」
「違うなら……最後まで出来るよね」
 その声はあんなにも優しかったアレンからは想像出来ないほど、低く、冷たい声だった。




「……や…め……っ…やぁっ…」
 ルークに慣らされた体は次第に潤いを増していき、アレンの指を奥へと入り込ませていく。まるで別人のようなアレンの姿にティナリアの瞳からは幾筋もの涙が零れ落ちた。
 ここまでアレンを追い詰めたのは自分だ。それがさらにティナリアの心を切り刻んだ。
「なんで泣くの?俺と来てくれるんだろう?」
「…っ……あっ…」
 アレンの声が、指が、ティナリアの体と心を責め立てる。身を捩りながら逃れようとするが、腰に添えられた手がそれを阻んでいた。
 そしてティナリアの脚を開こうとアレンが膝に手をかけたとき、彼女の脳裏に愛おしそうに自分を見つめるルークの姿が浮かんだ。
「い…や……ク……ルーク…っ…」
 泣き声に混じりながらついにティナリアは彼の名を呼んだ。意図して呼んだわけではなく、無意識のうちに零れていた。
 そしてその瞬間、アレンの動きがピタリと止まった。
「……なんで……」
「……ごめんなさ……ごめ……」
 頬に添えられたアレンの手で正面から彼と向き合わされたティナリアは、泣きじゃくりながら何度もそう呟いた。
「あの男はティナから……俺たちから幸せを奪った張本人だろ………それなのになんで……なんで…あの男を……」
 苦々しく吐き出すようにそう言ったアレンの姿に心が引き裂かれそうになる。けれど、気付いてしまったこの気持ちを偽ることなんてもう出来はしなかった。
 ティナリアは唇をぎゅっと噛み締めて涙を堪えると、震える声でアレンの問いに答えた。
「………分からない……」
 本当に自分でも分からなかった。大嫌いだったはずなのに、憎いとさえ思っていたはずなのに、いつの間にかこんなにも自分の心を占めている。
 アレンはティナリアの小さな声を一言も零さないようにと身動き一つせずにじっと聞き入っていた。
「あなたの婚約を聞いたとき……私…本当に絶望したの……世界から色が消えるほど…」
「色……?」
「全てが灰色に見えて……いまも私の瞳は色を映さないわ…」
 その時のことを思い出したのか、ティナリアは重たそうに再び口を開いた。
「アレンはもう来ないんだって思ったら何もかもどうでもよくなって……感情が壊れたみたいだった…」
 黙ったまま言葉を待つアレンに、彼女はつかえながらも言葉を紡いだ。途切れそうになるのをなんとか繋げ、真情を吐露する。
「それでもあの人はそんな私を見捨てることなく、少しずつ寄り添って……ずっとそばにいてくれた……だからいまこうやってまた微笑えるの…」
 いままでの様々なことが流れるように思い出される。そして最後に浮かんだのはルークのあの穏やかで悲しそうな笑顔だった。
「全て知った上で……何も言わずに私をここに送り出してくれたのも……あの人だった…」
「……あの男を愛してるの?」
 アレンの瞳が真っ直ぐにティナリアを捉える。ティナリアは覚悟を決めたように瞳を閉じ、ゆっくりと頷いた。閉じた瞳の端から涙が一筋零れ落ちた。
「………愛してる……あの人を……ルークを…愛してる……」

―― 自分でも気付かないうちに……こんなにも…… ――

 しばしの静寂の後、頭上からふっと小さく笑う声が聞こえた。
「……やっと言ってくれたね…」
「え……」
 先程までとは打って変ったように優しげな彼の声に瞳を開くと、そこには穏やかないつものアレンの笑顔があった。
 アレンはティナリアから離れるとベッドの縁に腰かけて彼女に背を向けた。押さえつける腕がなくなったティナリアも上体を起こし、シーツを手繰り寄せながら彼の背中を見つめた。
「分かってたよ、最初から」
「最初から……?」
 困惑の表情を浮かべながらもティナリアは振り返ったアレンを見つめた。アレンはふっと笑いながら彼女の頬に手を添える。
「君の心に迷いがあったことも、君の心がもう俺にないことも……本当は最初から分かってたんだ」
「………」
「だけど俺自身、それを認めたくなかった。一緒にいるうちにきっとまたこっちを向いてくれると思いたかった。でも……やっぱり無理だって気付いた」
 そう言ってアレンは寂しそうな笑みを浮かべた。その表情に胸がギュッと苦しくなる。
「ここに来てからずっと……いや、きっとあの手紙を読んだ時からずっと、俺との約束を違えないように、と……そればかり考えていただろう?」
 確かにそうだった。ただ約束を違えないように、それを果たさなくては、と。いつの間にか約束は希望ではなく、義務にすり替わっていたのかもしれない。
 約束に囚われ、愛しているのはアレンだ、と自分に言い聞かせるようにしているうちに、本当の気持ちを見失ってしまっていた。
「乱暴してすまなかった……でも…これで気付いただろう?」
「……アレン……」

―― それを教えるためにわざと…… ――

 無理やり抱こうとしたのも、昔から "ティナ" としか呼ばないアレンが "ティナリア" と呼んだのも、すべては自分に本当の気持ちを気付かせる為にしたことだったのだ。
 そのことに気付いたティナリアは言葉に詰まって俯いた。あとからあとから溢れてくる涙が頬を伝って流れ落ちる。
「ティナ、泣かないで」
 そう言って泣いているティナリアの頭を撫でてくれる手は昔と何一つ変わらない、彼女の大好きな優しい手だった。
「……ごめ……なさい…」
「いいんだ、ティナ。もう……いいんだよ…」
 そっと抱きしめるアレンの腕の中でティナリアは涙が止まらなかった。

―― アレンを……こんなにも優しい人を……傷付けた… ――

 アレンの優しさに縋って勝手に期待し、絶望し、そして裏切った。彼を傷付けたのは他の誰でもない、ティナリア自身の弱さだった。
「……ごめんなさい……アレン…ごめんなさい……」
 謝り続けるティナリアに時たま相槌を打ちながら、アレンはずっとその体を優しく包み込んでいた。






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