謝りながら泣きじゃくるティナリアの背中をまるで小さな子供をあやすようにぽんぽんと叩く心地良いアレンの手に、彼女は幼い頃を思い出した。

"大丈夫だよ"

 泣いている自分を見つけるとアレンはそう言っていつも頭を撫でてくれた。
 温かくて優しい大好きな手。
 その手で撫でられているうちにティナリアは悲しいことも嫌なことも忘れて安心することが出来た。穏やかなその一言がいつもティナリアに元気を取り戻させてくれた。
 小さかった自分にはまるで魔法のように思えていた。アレンといる時間はどんな時よりも温かく、幸せだった。

"ずっと一緒にいようね"

 そう言って無邪気に笑い合っていた幼い頃。アレンがそばにいることが当たり前だった。そしてその当たり前がずっと未来さきまで続くのだと信じていた。
 ぴたりと合っていたはずのふたりの歯車はいつから違えてしまったんだろう。
 いま、ティナリアがそばにいて欲しいと願う人はアレンではなくなっていた。抱き締めてほしいと望むのはアレンの腕ではなくなっていた。
 泣いている自分の頭を撫でてくれる温かな手、安心をもたらしてくれる魔法の手はいつの頃からか目の前にいる彼ではなく、遠く王都にいるルークのものになっていた。
 だけど、アレンを愛したのは偽りではなかった。
 無邪気で、幼くて、何も知らなかった自分だったけれど、アレンに抱いた想いは誰に何と言われようと確かに "愛" だった。
「ティナ」
 アレンの声で呼び戻されたティナリアは、言葉を出さずに視線を彼に向けた。
「……俺のこと愛してた?」
 そう問いかけるアレンに、彼女は涙を浮かべながら微笑んだ。
 幼いころから今まで心に積もり続けたアレンへの愛情と、感謝の気持ちを込めて、ティナリアは一言一言を大切に紡いでいく。
「……愛してたわ……誰よりも大切で…………誰よりも……愛してた…」
 抱き締めるアレンの腕に力が籠った。
「………ありがとう……」
 そう小さく呟いたアレンの声はまるで泣いているかのようで、ティナリアの心に切なく響いていった。
 しばらくしてシンと静まり返った静寂の中、アレンがそっとその体を離した。優しく彼女に微笑みながら言い聞かせるように口を開く。
「夜が明けたらティナは王都へ戻るんだ。いいね?」
「アレンは……?」
「俺は戻らない」
「………」
 アレンの言葉にティナリアは返すことが出来なかった。彼女は拳をぎゅっと握りしめて俯いた。

―― 私のせいだわ…… ――

「ティナのせいじゃないよ」
 まるでティナリアの考えを読んだみたいにアレンがそう言った。
「でも……」
「大丈夫」
 幼い頃の魔法の言葉。アレンはそれを唱えて微笑んだ。
「そんな顔、ティナには似合わないよ」
「……アレン…」
「ティナの笑顔は本当に花が咲いたみたいで……昔からそれが大好きだった」
「………」
「……だから微笑わらって、ティナ」
 それを聞いたティナリアは零れそうな涙をなんとか堪えると、真っ直ぐにアレンを見つめて静かに微笑んだ。それがアレンにしてあげられる唯一のことだと思った。
 その笑顔を見たアレンもまた穏やかに微笑み返す。
「幸せに……ティナ………愛してたよ……」
 そう言ってアレンはティナリアの唇にそっと口付けを落とした。あまりにも優しくて、切なくて、ティナリアの閉じた瞳から一筋の涙が零れた。
 それが彼の最後のキスだった。




 泣きつかれたのか、緊張の糸が切れたのか、ベッドの中であどけなく眠るティナリアの姿を愛おしそうに見つめていたアレンは、彼女の頬をそっと包み込んだ。

"愛してた"

 そう言ったティナリアの声が耳元で聞こえる。
 あの日、この手を離さなければその言葉が過去形に変わることもなく、いまでもこの腕の中で笑いかけてくれていたのだろうか。
「……この期に及んで女々しいな……」
 呆れたような笑いを含みながらアレンはそう独り言ちた。
 本当は分かっていた気がする。いずれこうなるであろうことは。
 ティナリアは生まれてからほとんどの時間をあの島で過ごし、狭い世界の中で生きていた少女だった。
 そこで出逢った自分に対して感じた気持ちはまるで刷り込みのように彼女の心に浸透していったのだろう。そしていつしかそれは恋に変わっていた。
 確かに彼女が差し出してくれた気持ちは紛うことなく愛であったと思う。けれどその小さな世界が崩れてしまえば、その中で感じていた愛はどうなってしまうのか。
 世界が変われば感じ方も全てが違ってくる。様々な人と出逢い、その中で彼女の心が変わってしまうのは仕方のないことだったのではないか、とアレンは思った。

―― それでも…… ――

「……ここに来てくれてありがとう…」
 ひどく苦しんだだろう。正直で優しい心の持ち主が、自分の気持ちも分からなくなってしまうほどに苦しみ、悩み、どれだけの涙を流してきたのだろうか。
 泣きじゃくったせいで赤くなっている彼女の目元を指で撫で、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「……俺のための涙はもう流さなくていいよ…」
 これから先、もう二度とティナリアに逢うことはないだろう。だからこそアレンは祈るように願った。
 二人が交わした約束のことも、それを果たすことが出来なかったことも、何も気に病むことなくただ幸せに笑っていて欲しい。心の底からそう思った。
 アレンは彼女の手を取ると、その指にはまった碧い石の指輪を抜き去った。
「さよなら……ティナ……」
 撫でるように髪の束に触れ、そっと頬に口付ける。そしてティナリアの寝顔をもう一度眺め、アレンはその部屋を後にした。
 宿の主人に馬車の手配を頼み、宿代や荷物など全てのものを清算すると彼はそのまま停泊させてあった船へと乗り込んだ。しばらくして出航の合図がかかり、アレンを乗せた船はゆっくりと港を離れて広い海へと舳先を向けた。
 次第に小さくなっていく街に向けていた視線を手元に落とすと、アレンはその手に持っていた指輪を目の高さまで持ち上げた。
 朝陽の光を纏ってキラキラと輝く碧い石、それはまるでかつて自分に向けられていた彼女の瞳のようだった。アレンはそれをじっと見つめ、それに向かって呟いた。
「………愛してたよ……」
 島にいた頃の屈託のない笑顔のティナリアが脳裏に過る。どんな宝石よりも美しく、眩しいほどに輝いていた、何よりも大好きだった笑顔。
 アレンは穏やかな笑みを浮かべ、親指でその指輪を弾いた。キンッと小さな金属音を鳴らし、宙へ浮かんだそれは緩やかな弧を描いて海の中へと落ちていく。

―― どうか幸せに…… ――

 この手で幸せにしてあげることは出来なかったけれど、幸せを願うことならこれから先もずっと出来る。
 碧い石が海の色に溶けて見えなくなると、アレンは船の進む先を見つめた。
 その表情は優しく、そしてどこか晴れやかな笑顔だった。




 翌朝、目が覚めた時にはすでにアレンの姿はなく、部屋のテーブルの上に置かれた一枚の手紙だけが残っていた。
 ティナリアはそれを手に取ると、折りたたまれたその紙をゆっくりと広げて見慣れた文字に視線を落とした。

『君が起きた時にはもう俺は海の上にいるだろう。
 王都まで送ってあげることが出来なくてすまない。無事に着けるかそれだけが気掛かりだ。
 だけど、これ以上そばにいると攫ってしまいたくなるから、君が目を覚ます前に離れることにしたよ。
 正午に宿の前に来るよう馬車の手配はしておいたから、それに乗って王都に戻るといい。

 ティナ、最後に微笑わらってくれてありがとう。
 どうか幸せに……遠くからずっと祈っているよ……』

 手紙を読み終えたティナリアは小さく息を吐くと、折り目に沿って丁寧に手紙を折りたたんだ。それを大切そうに胸に当てるとゆっくり瞳を閉じる。
 予想はしていた。目を覚ましたらきっとアレンはいないということを。
 けれどそれは手紙に書いてあったように攫ってしまいたくなるからではない。きっとティナリアが苦しまないようにと思ってのことだろう。

―― だけど…… ――

 苦しんでもいい。それが自分の犯した裏切りに対する罰ならば、どれだけ苦しくてもいい。
 それでもいいからアレンを見送りたかった。一目でもいいからその姿を目にしたかった。最後に心から "ありがとう" と伝えたかった。ただの自己満足なのかもしれないけれど、そうしたかった。
 ティナリアは窓際に立つと、静かにそれを開いた。昨日までの雨が嘘のように青い空が広がっている。潮の香りを孕んだ風が入り込み、ティナリアの金の髪をふわりと揺らしていった。
 窓の外に見える海原にはたくさんの船が停泊している。しかし、その中にアレンの姿はもうないだろう。
「……アレン……」

―― ありがとう…… ――

 ティナリアはじっと遠い海を見つめながら、告げることの出来なかった言葉を心の中で強く唱えた。アレンに届くように、と。
「本当に……愛してた……」
 ありがとう、と心の中で何度も繰り返し唱える彼女の顔に涙はもうなく、アレンが好きだと言った花のような笑顔が浮かんでいた。






孤城の華 TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system