「ティナ、大丈夫?」
 アレンがベッドの上に座っているティナリアに声をかけた。
 市場から帰ってからずっと視線を合わせようとしなかったティナリアがようやくアレンを見た。彼女の頬は白いを通り越して青ざめている。
「え……?」
「具合が悪い?それとも……何か心配事でもあるの?」
 アレンのその一言に、ティナリアの瞳が一瞬怯えたように揺らいだ。
「何も……ないわ」
「本当に?」
「うん」
 そう答えたティナリアをじっと見つめる。彼女がついた明らかな嘘に気付かないふりをしてアレンは笑みを浮かべてゆっくりと口を開いた。
「それならいいけど……ああ、そういえば明日にはようやく出航出来るみたいだよ」
 さっき聞いた話によれば、夜になって小降りになってきた雨は明日の朝にはあがるという。長年この地に住んでいるらしい店主の言うことならおそらく間違いはないだろう。
 これでようやくティナリアを連れて行くことが出来る、と本来ならただ単純にそう喜ぶべきところだ。
 しかし、昼間の市場で立ち寄った店の女店主と話をして以来、ティナリアがめっきり黙り込んでしまったことにアレンは不安を覚えていた。否、この街へ来るまでの間にずっと感じていた不安がより大きくなってアレンに纏わりついてくる。
「ここを出ればもう王都に戻ることはないんだろうな」
「……そうね」
 小さくそう呟いたティナリアが再び視線を下げて黙り込む。それがアレンの不安をさらに煽った。胸の奥で燻っている不安を押し込めてみるが、こちらを見ない彼女の姿にそれはどんどん膨らんでいく。

―― 認めたくない ――

 アレンはそれを隠しながら彼女のそばに行ってその足元に膝をつくとそっとその手を取った。細く白い手はひんやりと冷たく、その指先を温めるように包み込みながら、アレンは覗き込むように彼女を見上げる。
「ティナ、もう一度聞くよ」
「………」
「俺と一緒に逃げることが出来る?」
 アレンはティナリアの海色の瞳を真っ直ぐに捉えながらそう問うた。
「……アレン…」
「出来る? ティナ」
 突然のことに戸惑うティナリアに追い打ちをかけるようにアレンは再び問いかける。

―― 認めたくない……けど… ――

 そしてティナリアが小さく微笑んだ。しかしそれは何処か悲しげな、見ている側が泣きたくなるような、そんな微笑みだった。
「……うん………一緒に……」
 アレンは掠れる声を絞り出すようにしてそう言ったティナリアの唇を塞いだ。

―― ティナ……君は本当に昔から…… ――

 胸の奥の軋むような痛みに眉を寄せる。口付けはゆっくりと深くなっていき、彼女の口から苦しげな吐息が零れた。
「それなら……証をくれないか」
「……証…?」
 何のことを言っているのか分からず、ティナリアは首を傾げた。
「今ここで、俺のものになって」
 アレンは自分の言葉に驚いているティナリアの華奢な肩を掴むと、返事を待たずにそのままベッドの上に押し倒した。金の髪が波打ちながらシーツの上に広がった。
「アレン……待って…」
 ティナリアはそう言って怯えたような表情を浮かべながら押し返そうとしたが、アレンはその手を取るといとも簡単にシーツの上に張り付けた。
「どうして?俺を愛してくれているなら……一緒に来てくれるなら出来るだろう?」
「……でも…」
「俺のものになってよ……ティナ……」
「…待っ……」
 アレンのキスでティナリアの言葉は遮られた。
「……愛してる…」
 吐息が触れるほどの距離で見つめた彼女の瞳が微かに揺らいだ。それはまるで海が波立つようにも見えた。
「………私……も………」
「……ティナ…」

―― 昔から……嘘が下手だね…… ――

 心の中でそう呟いてアレンは穏やかに微笑んだ。優しく柔らかなその微笑みの中に悲しみが混じっていたことにティナリアが気付くことはなかった。
 ティナリアの唇に再びキスをするとアレンは彼女の舌を絡め取るように口内へと入っていった。
「……ん…っ……」
 深い口付けを交わしながらアレンはティナリアの首筋から肩へと手を滑らせ、簡素なドレスを脱がせていく。乱れた服から覗く白い肌に触れた瞬間、彼女の体が強張ったのを感じた。
 しかし、アレンの手は止まることなく、その柔らかな膨らみを包み込んだ。
「…っ……や…」
 耳から首筋へと舌を這わせ、そして膨らみの頂にある実を口に含むとティナリアの口から甘い吐息が零れた。
「……や…あっ…」
 ティナリアの体はルークによって開かれたはずだ。こんなにも敏感で美しい体に触れた男が他にいると思うだけで嫉妬に狂いそうになる。
 するすると太ももを伝って上がってきた指先でティナリアの秘所に触れると、彼女の体がビクッと震えた。ティナリアを見上げると彼女は顔を横に向けて堅く瞳を閉じ、震える手でぎゅっとシーツを握りしめていた。
 アレンはそんな彼女から視線を外すと、まだ十分ではないその場所に指を入れた。ティナリアの細い体が跳ねるようにしなる。
「あっ……っ……」
「ティナリア……こっちを見て…」
 ゆっくりと指を動かしながら耳元でそう囁くと、ティナリアは睫毛を震わせながらそっと瞳を開けた。虚ろな瞳がアレンを捉える。
 そして彼女の唇がゆっくりと音を紡いだ。
「………ルー…ク……」
「っ」
 切ない声で呼ばれた名前にアレンは息を飲み、グッと唇を噛み締めた。
「……ティナ……」
 アレンの声にハッとしたようにティナリアは自らの口を押さえた。虚ろだった瞳は覚め、その顔は見る見るうちに青ざめていく。
「あの男に惚れた?」
 その言葉にティナリアの瞳が大きく見開かれた。
「違……」
 ぎこちなく、それでも懸命に首を横に振ろうとしているティナリアの頬に手を添え、アレンはその瞳を真っ直ぐに見つめた。
「じゃあどうしてそんなに辛そうな顔してるの?」
「え……?」
「こうして君に触れているのに、君がここにいると思えないんだ。ねえ……いま、ティナの心にいるのは誰?」
 その問いかけにティナリアの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
「………ごめ……なさい……」
「なんで謝るの?」
 ぽろぽろと涙を零しながら、ティナリアは何度も何度も首を振った。
「……ごめんなさ……でも私……アレンと……」
 彼女のその言葉を聞いたアレンは嘲笑うかのように乾いた笑い声をあげた。
「ははっ、それは何?罪悪感?」
「……っ…」
 突き放すように言ったその言葉にティナリアの瞳が零れんばかりに見開かれた。驚き怯えるような彼女の表情に心が鈍く痛んだけれどここで止めるわけにはいかない。
「そんな気持ちで俺と一緒に来るっていうの?」
「違……私は…」
「違うなら……最後まで出来るよね」
 アレンはそう冷たく言い捨て、再びティナリアの体に覆い被さった。




 王都では雲の隙間から月といくつかの星が見て取れるくらいには天候が回復していた。
 ルークはそんなパッとしない夜空を見上げながら、深いため息をついた。吐き出した息は冷えた空気の中で白くなってすぐに消えていく。

―― 明日は晴れ……か… ――

 船を待っているのだとすれば明日には出航するはずだろう。これで本当に彼女はこの地からいなくなってしまうのだ。
 探しに行きたい。探して、この腕にもう一度抱き締めて、戻ってきて欲しい、とそう言いたい。
「……女々しいな…」
 ふっと自嘲するように笑い、ルークは再び空を眺めた。
 ティナリアと出会う前に戻っただけなのに、彼女がいないというだけでこんなにも世界が色褪せて見える。些細なことで湧き上がる喜びも、燃えるほどの嫉妬も、全てはティナリアがいたからこその感情だった。
 そう思うと彼女と出会う前の自分はなんてつまらない人間だったのだろう。ただ毎日執務に追われ、気が向いたときに気に入った相手を抱いて、心を動かされることなんて何一つないまま時間だけが過ぎていく。そんな日々の連続だった。
 ティナリアが嫁いできてからというもの、それら全てがガラリと変わった。
 自分の思い通りにいかずにイラつくことも、優しくしてやりたいと思うことも、そして心から誰かを愛しいと想うことも、全てティナリアが教えてくれたのだ。
 ティナリアと共に過ごしたのはたった半年あまりだ。けれどその半年は何ものにも代え難い、大切な時間だった。
 もう一度やり直せるのなら今度こそ幸せにしてやりたい。他の誰かではなく、自分のこの手で。

―― ティナリア…… ――

 ルークはじっと自らの手のひらを見つめた。何も掴むことの出来なかったこの手が、いつかまた誰かを掴もうと足掻くことがあるのだろうか。
 ふと、そんな思いに駆られたが、彼は呆れたように頭を振って馬鹿げた考えを外に放り出した。
「あいつ以外に欲しいと思うことなんてもうないだろうな……」
 そうひとちて寂しげな笑みを浮かべたその時、後ろから控えめなノックの音が聞こえた。
「入れ」
「失礼致します」
 綺麗な一礼をして入ってきたのはジルだった。
「まだお休みになられないのですか」
「あまり寝付けなくてな」
 そう言いながらチラリと時計を見やれば、すでに一時を過ぎているようだった。
「何か用だったか」
「いえ。部屋の前を通ったら明かりが見えておりましたので」
「そうか」
 ルークはバルコニーから部屋の中へ戻ると窓を閉めて椅子に腰かけた。
「何か温かいものをお持ちしましょうか?」
「いや、酒でも一杯飲んで寝るよ」
 肩を竦めるようにして軽く言うと、ジルもふっと笑った。
「左様ですか。ではお早くお休みになって下さいね」
「ああ」
 ルークが片手を上げてひらひらと振ると、ジルは再び頭を下げて部屋を出て行った。
 明日からまた執務に追われる日々が始まる。忙しくしているほうが気が紛れていいかもしれない、とルークは思った。
 ティナリアが養生しているということは屋敷中に知れ渡ることになったが、アリスをメイナードの屋敷に置いてきていることでそれを疑う者は誰一人としていなかった。これでしばらくは言い逃れ出来るはずだ。
 安全な場所に辿り着くまで、ルークは自分なりに彼女の助けになってやりたかった。が、それと同時にルークの心の中にいくつもの矛盾が生まれていく。
 ティナリアが幸せであるようにと願いながら、彼女の幸せを奪ってでもこの手に取り戻したいと思う。
 アレンに全てを委ねるのが一番だと諦めながら、殺してやりたいほど彼に嫉妬している自分に気付く。
 もう二度と会うことはないと分かっていながら、もう一度逢えたらと強く願う自分がいる。
 矛盾だらけではあるが、これが今の正直な気持であった。
「全く……子供のようだな」
 自分に呆れたようにそう呟いた。
 そうしてふと、この屋敷を去ってから彼女が少しでも自分を思い出すことはあるのだろうか、と考えてみた。が、そんなことはいくら考えたって分かるはずがない。
 ルークは立ち上がって部屋の隅に置いてある棚からグラスと酒瓶を取り出すと、薄めもしないまま少しだけ口に含んだ。
 行き場のない想いと共に飲み下した酒は美味いと思うこともなく、ただ喉を焼くような熱さだけを残していった。






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