陽もすっかり落ちた頃、ルーク一行はメイナードの屋敷へと到着した。貯蔵してあったもので簡単な食事を済ませ、各々が部屋へと入っていった。
 ベッドに腰掛けたルークは懐かしいものを見るように部屋の中を見渡した。
 ほんの数か月前、初めてティナリアが自分を受け入れてくれたあの部屋だ。目を閉じれば今でもあの時の女神のごとく美しい姿がはっきりと浮かんでくる。
「……ティナリア…」
 小さな声で愛おしい名前を呼んでみると、その声は例えようもないほど甘く残酷な響きとなってルークの耳に届いた。

―― ティナリア…… ――

 心の中で再び呼んだ。
 毒が回るようにじわりじわりと鈍い痛みを伴いながらルークの中に沁み込んでいく。ゆっくりと、確実に、そして深いところまで広がり続けた。
 いま何処にいるのか。いま何をしているのか。
 アレンの腕の中にいるティナリアを、そしてその腕に抱かれる姿を想像しては、切りつけられるような痛みだけがルークに残されていく。

―― 嫌だ…… ――

 望むものは全て手に入った。出来ないことなんて何もないと思っていた。
 けれどティナリアに出逢って、初めて全てが覆された。そんなものは全て自分の傲慢な考えでしかなかったのだと気付かされた。
 生まれて初めて心から欲しいと願った愛しい人はいなくなった。愛した人の心を手に入れることがこれほどまでに難しいなんて知らなかった。

―― 手放すべきじゃなかった…… ――

 ティナリアがどんなに泣いても、どんなに罵られようとも、この手の中に閉じ込めてしまえばよかった。
「……何故……引き止めなかった…」
 後悔の念に駆られ、ルークの口から弱々しい声が零れ落ちた。
 あの時、ジルは言っていた。"ティナリアは迷っている" と。引き止めれば留まるかもしれないと言っていたのに、頑としてそれをしなかったのは何故か。
 その理由は一つ。
 ティナリアの為でも何でもない。ただ拒絶されるのが怖かったのだ。
 差し伸べた手を跳ね除けられてしまうのならば、いっそ初めから出さなければいいのだ、と諦めていた。99%拒絶されても残りの1%にかける、なんていう勇気はルークにはなかった。
 彼女の為だ何だとうそぶきながら、結局は自分が傷付きたくないだけだったのだ。
「……ティナリア…」
 いくら呼んでももうこの声が届くことはない。もうその姿を見ることは叶わない。
 ルークはひんやりと冷たいシーツに顔を埋めて、己の情けなさを声もなく噛み締めていた。




「アレン、やっぱり外に出るのは無理かしら」
 雨足が少し弱まった頃、窓の外を見ていたティナリアがアレンのほうに顔を向けてそう尋ねた。宿に籠って三日目ともなると、やはり少しは外に出たくなってくる。
「部屋にいるのも飽きた?」
「そういう訳じゃないんだけど……初めてこういう所に来たからちょっと見てみたくて」
「んー……」
 アレンは唸りながら考え込むように顎に手を添えた。
「無理……よね」
 しゅんとしたようにそう言ったティナリアが可愛くて、アレンは思わず笑ってしまった。
「いいよ。この雨で人も少ないし外套を深くかぶっていれば目立たないだろうから」
「本当?」
「ああ。ただし、少しだけだよ」
「ありがとう、アレン」
 そうして二人は準備をすると、外套を目深にかぶって階下へと降りて行った。
 宿の扉を開けるとザーザーという雨音がより一層鮮明に聞こえてくる。宿主から借りた傘をさして雨の中に足を踏み出し、目的もないままゆっくりとあたりを歩き始めた。
「この港はいつもならそこら中に出店が出ているんだけど、さすがにこの雨だとやってる店も少ないみたいだね」
「市場なの?」
「ああ。結構大きな市ですごく賑やかなんだ」
 他愛ない話をしながら雨の中を歩く二人の姿はまるで昔から離れることなくそばにいたかのように自然で、ティナリア自身の心も落ち着き始めていたように思えた。

―― 大丈夫……アレンと生きていける…… ――

 こうしてゆっくり離れていた時間を埋めていけばいい。それが埋まればきっと昨夜のように体が強張ることもなくなるだろう。
 そう思いながらふとティナリアが横を見ると、彼女の目に一人の女性の姿が映った。壮年のその女性は小さな木枠のテントの中で装飾品を売っているらしかった。
「アレン、少し見てもいい?」
「いいよ」
 この雨の中でやっている数少ない店の一つに興味を引かれ、ティナリアとアレンはその店に立ち寄った。
「いらっしゃい」
「少し見せていただいても?」
「ああ、好きなだけ見ていきな。こんな日に来るお客なんて数えるくらいだからね」
 思いがけず若々しい声で、人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら店主がそう言った。王都に比べれば質の落ちるものではあるが、やはりこういったものを見るのは楽しいようで、ティナリアは手に取ってみたり、じっと眺めたりしていた。
「おや、お嬢さん、あんた珍しいのしてるね」
「え?」
 夢中になって品物を見ていたティナリアは、いきなり言われた言葉の意味が分からずに首を傾げた。
「それだよ。ほれ、あんたがしてる首飾りさ」
 ティナリアがハッとしたように首元を押さえた。店主は外套の隙間から覗くその首飾りを目ざとく見つけたようだった。
「たまにうちにも入ってくる物だけど、滅多に使われない石だからね」
「そう……なんですか」
 ティナリアは一瞬でも狼狽えたことをアレンに気付かれないよう、平静を装いながら答えた。
 ルークから貰ったものは全て置いてきた。髪飾りも、宝石も、誓いの指輪も。けれど初めて手ずから贈ってくれたこの首飾りだけはどうしても置いていけず、こうして今も華奢な首元に納まっていた。
 だが、いまにして思えばそれはルークの想いを全て断ち切ることが出来なかった証のような気がしてならない。
「私が仕入れたのと同じ物のようだけど……お嬢さんの顔に見覚えはないねぇ。まあうちしか扱ってないわけじゃないしね」
 店主は独り言のように首を傾げながらそう言った。そして何かを思いついたようにティナリアに向かって微笑みかけた。
「ところでお嬢さん、知ってるかい?その石の言葉」
「……喜び……」
 反射的に小さく呟いたティナリアに店主は驚いたように眉を持ち上げた。
「おや、よく知っていたね」
「あ……前に、人から聞いて…」

"そうやって微笑わらっていてくれ"

 あの時のルークの言葉が蘇った。微笑む自分を嬉しそうに見つめるルークの姿も共に浮かび上がる。
「いい石言葉だと思わないかい?一ヶ月くらい前にもたまたま通りかかった男が買っていったことがあってね。黒髪の男前でさ、身なりが良かったからきっと王都のお偉いさんだろうと思うけど……それを教えてやったらえらく優しい顔をして首飾りを見てねぇ」
 店主の言葉にティナリアの心臓が外に聞こえてしまうのではないかと思うほど大きく鳴った。まさか、という言葉が喉まで出かかる。確信はないが、黒髪の男はおそらくルークだ。時期もぴったり合う。
 ティナリアの心境も知らずに店主は思い出したように話し始めた。
「きっと恋人にでもあげるんだろうね。あんなに優しい目は久々に見たよ」
「……そう……ですか…」
「あんたは隣の兄さんから貰ったのかい?」
「………」
 ティナリアは答えることが出来ずにただ黙って目を伏せた。だが、雨の中の客が嬉しかったのか、それとも元来話し好きなのか、店主が話を止めることはなかった。
「その石、実はもう一つ言葉があってね。"最愛" っていうんだよ」
「…最……愛…」
「それを貰えるあんたは幸せ者だね」
 その言葉の後、今までずっと黙ったままだったアレンがティナリアの肩を抱いて自分のほうに引き寄せた。
「その石がなくたって幸せですよ」
 見せつけるようにしてそう言ったアレンに向かって店主は軽快に笑った。
「そりゃあいい。仲良くやんな」
「ええ、もちろん。さあ、そろそろ行こう」
 そう言って半ば無理やりティナリアを立ち上がらせると、店主に会釈をしてその店を後にした。
 ティナリアは激しく打ち付ける心臓の音がアレンに聞こえてしまいそうで体を離したかったが、彼の腕の力はそれを許してくれなかった。

―― ここは……ルークが言っていた港町なの…? ――

 この首飾りを選んでいるルークの姿が目に浮かんだ。優しい笑みをその瞳に湛えながら眺めているルークの姿。
「ティナ」
「………」
「ティナ」
 二度呼ばれてようやく気付いたティナリアがアレンのほうに顔を向けると、彼はいつものように優しくにこりと微笑んだ。けれど、ほんの少し隠し切れなかった影を含んだ笑顔が突き刺さるように彼女の心を痛めた。

―― きっとアレンは気付いてる…… ――

 この首飾りが誰から贈られたものなのか、そして自分がいまひどく動揺してしまっていることも。
「もう戻ろうか」
「……うん…」
 そう言って肩をぎゅっと抱きしめたアレンに小さく頷くと、ティナリアは彼に促されるまま、再び宿の中へと戻っていった。
 しかし、落ち着きかけていた彼女の心の中はざわめき、一向に治まってくれはしなかった。




 ティナリアがルークの元を去って三日、少しずつ威力を弱めながらも雨はまだ降り続いている。港についた時、すぐにでも出航出来ていたならこんなにも心を掻き乱されることはなかっただろう。
 運命の悪戯か、それとも必然なのか。ルークといつか来ようと言っていた港町で、いまアレンと共に船出を待っていた。
 アレンから贈られた碧い石の指輪。そして、ルークから贈られた雫のような首飾り。この二つを身に着けながらティナリアは再び心が波立つのを感じていた。
 まるで天が彼女の心を試しているかのようだ。
 荒れる海にも似た心の中で、ティナリアは自分の感情の渦に呑み込まれていった。






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