窓の外は憂鬱になってしまうほどの雨が未だに降り続いている。天気が良ければここから海が見えるとアレンが言っていたが、今は海どころかすぐ先の道すら霞んで見える。
―― 今頃、お屋敷はどうなってるのかしら…… ――
自分がいなくなったことで騒ぎになっていないか、それによってアリスが責められたりしていないか、ティナリアは心配で堪らなかった。
だけど、そうなってしまうことはアレンの手を取ると決めたその時から分かり切っていたことだ。それよりも今はこれから先のことだけを考えなくてはいけない。アレンとの未来のことだけを。
それなのにティナリアの頭の中には様々な思いが次から次へと浮かんでくる。今もまた昨夜のことを思い出して気持ちが沈んだ。
―― どうしてあの時…… ――
アレンにベッドに倒されたあの時、思わずまるで拒絶しているかのように身体が強張ってしまった。すでに男を知らない身体ではないのに、なぜか恐ろしく感じてしまった。
それに気付いたのか、アレンはそれ以上なにかをするわけではなかった。だが、彼を傷つけてしまったのではないか、とティナリアはひどく罪悪感を覚えていた。
あのままアレンが続けていたら自分はどうしていたのだろうか。受け入れたのか、それとも――――――。
そんな考えを振り払うようにティナリアが頭を振ったちょうどその時、アレンがトレーを持って部屋に戻ってきた。
「お待たせ。お腹空いただろう」
トレーには温かそうに湯気を立てているスープや数種類のパンがのっている。少し遅い昼食だ。
あれから二人で眠ってしまい、起きたときには正午を過ぎていた。その為、食べそびれてしまった食事をアレンが宿屋の主にかけ合って作ってもらったのだった。
ティナリアは今しがた考えていたことを全て心の底に押し込めて、目の前に置かれたトレーからアレンのほうへと視線を移した。
「ありがとう」
その言葉にアレンはにこりと笑顔で答える。
「それにしてもあれだけ寝たのにまだ眠い。天気のせいかな」
アレンは苦笑するようにそう言いながら、ティナリアと向かい合うようにして椅子に腰かけた。
「食べようか」
「うん」
胸の前で手を組んで祈りを捧げるとティナリアは手前にあったパンを小さくちぎって口に入れた。元来、贅沢なことを好まないティナリアにとってはこんな質素な食事でも充分であった。
素朴な味が意外と美味しいと思いながらふと視線を上げると、アレンは食事に手をつけないまま穏やかな笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
「なあに?」
愛おしいものを見つめるようなあまりにも優しく真っ直ぐな視線に、少しだけ気恥しくなったティナリアは首を傾げながらそう聞いた。
「いや……なんか懐かしいなと思って」
「懐かしい?」
「ティナの食べる仕草とか……こうやって一緒に食事することが」
その言葉に当時の光景がティナリアの頭の中に浮かび上がった。二人で笑い合いながら一緒に過ごしていた懐かしい光景に自然と口元が弧を描く。
「これからはこれが当たり前になっていくのにね」
アレンの笑顔にティナリアの胸が音を立てた。昔と変わらない、優しい笑顔。この笑顔を見るたび、ティナリアの心はいつも高鳴った。
けれどその高鳴りは以前とは少し違い、チクリと棘が刺さったような痛みを伴っていた。
「そう……ね」
ティナリアはそう言って手元に視線を落とすと、その痛みを誤魔化すように持っていたパンをちぎった。
「……いつ出発出来そうなの?」
「ああ、店主の話だと天気も三、四日で持ち直すようだからその頃には出発出来るよ」
「それからは……?」
「このラロシェ港から南にあるダズという街に行こうと思ってる」
「ダズ?」
「そう、国境にある大きな街だよ。人の出入りも多いから見つかりにくいと思うんだ。あまり小さな村とかだと新参者は目立つからね」
確かにその通りだろう。木を隠すなら森の中というし、大きな街でひっそりと暮らすほうが案外気付かれないかもしれない。
―― だけど…… ――
何処にいても追手の心配はいらないように思えた。
全てを知った上でティナリアを逃がしたルークがいまさら捕まえようなどとは到底思えなかったからだ。けれどそれをアレンに言うのはなぜか気が重かった。
「ティナ?」
つい自分の考えに気を取られてしまい、ティナリアはハッとしたようにアレンを見上げた。
「どうかした?」
「あ……なんでもないの。ちょっとぼんやりしてしまって……」
「ならいいけど。それにしても外に出られないのは退屈だね」
そう言ってアレンはパンを口に放り投げながら窓の外に目を向けた。それを追うようにティナリアも視線を移す。
「そうね」
「ティナは昔から外で遊ぶのが好きだったからな」
「アレンだってそうだったでしょう」
自分だけお転婆なように言われて、ティナリアは心外そうに眉を顰めながらアレンに言い返す。
「ティナがすぐ外に飛び出して行くから探しに行ってたんだよ」
「……そんなにお転婆だったかしら」
「うん」
間髪入れずにアレンが笑いながら頷いた。
「いつも楽しそうに笑ってた。快活で優しくて……俺の自慢の女の子だったよ」
「……アレン…」
アレンの手がティナリアの頬に伸びた。彼女がその手にそっと頬を寄せると、アレンはまるで眩しいものを見たかのように目を細めた。
「食事が終わったら少し昔話でもしようか」
懐かしむように言ったその言葉にティナリアは小さく微笑んで頷いた。
「ルーク様、どういうことですか」
そう問い詰めてくるジルの横で珍しくアリスが不安げな表情を向けてくる。ルークは足元に落としていた視線を上げると怪訝な顔をしているジルをじっと見た。
「話した通りだ。しばらくの間、アリスにはメイナードの屋敷に行ってもらう」
このままティナリアがいないことが判ってしまえばひどい騒ぎになってしまうだろう。せめて二人が国外へ逃げるまでの時間くらいは稼いでやりたい、とルークはしばらくの間だけでも彼女の不在をカモフラージュする方法を思いついた。
体調を崩したティナリアを養生させるためにメイナードの屋敷に移したと言えば、ここでああだこうだ言うよりかはよっぽど気付かれにくいだろうと思ったのだ。
しかし、ティナリアの侍従であるアリスが王都にいては辻褄が合わない。そのためにアリスにはメイナードの屋敷へと移ってもらう、とつい今しがた二人に話をしたところであった。
「それくらいしか思いつかなくてな。悪いが行ってくれないか」
ルークはそう言いながらジルからその横にいるアリスへと視線を移した。いまだに不安げな表情をしているアリスがおずおずと口を開いた。
「どうして……私を罰しないのですか」
「罰する?」
アリスの言葉にルークが首を傾げながら返すと、彼女は視線を下げて話し始めた。
「………私はティナリア様のご様子がいつもと違っているのに気付いていました。でも……お止めすることもせずに……」
「分かってる。けれどそれはティナリアの為を想ってのことだろう。そんなことでお前を罰しようとは思っていない」
その一言にジルとアリスの視線が痛いくらいに集中したのを感じた。
「ティナリアもそれを望んでないはずだ。だからお前には何も話さずに行ったんだろう」
「………」
「それにあいつの最後の願いも聞けないようじゃ、本当に情けない男になってしまうからな」
ルークはそう言いながらふっと苦笑を漏らした。
「ルーク様……」
そう言ったアリスの眉が少しだけ下がった。それを見ないようにしてルークはジルのほうを向いた。
「そういうことだ」
「……こんな子供騙し、いつまで通用するか分かりませんよ?」
「気付かれたらそれまでだな。愛想を尽かされたとでも言う他ない」
肩を竦めるようにしてルークが軽く言うと気が抜けたのか、それまで険しい表情だったジルもようやく苦笑を零した。
「かしこまりました。ルーク様の仰る通りに」
「二人を引き離すのは忍びないんだが」
チラッとアリスのほうを見てそう言うと彼女の顔がほんのりと上気した。ジルはそんな彼女を優しそうな瞳で見守っている。
―― 初めからこうやって優しくしてやっていれば……ティナリアは… ――
そんなことがふと頭をよぎる。しかし、いくら思ってみたところで過去を変えることなんて出来るわけがない。そして出来たところで結果は変わらない。
ルークは二人に気付かれないようにその思いを頭の片隅に押し込めると、彼らに向かって再び口を開いた。
「まあ養生に行ってるという以上、見舞いに行かないのは怪しまれるから適当なところで顔を出すようにする。その時にジルも一緒に来ればいい」
「ありがとうございます」
そう言ってにこっと笑う、いつも通りのジルがありがたかった。昨夜のように落ち込まれたままでは余計につらいものがあるからだ。
「では早いうちがいいな。あとどれくらいで用意出来る?」
「持っていくものもそれほどありませんので、すぐに参れます」
アリスの返答を聞いてルークが頷いた。
「では準備が出来たらここに来てくれ」
「かしこまりました」
「ジル、手伝ってやれ」
「はい」
そうして二人が退室して急に静かになった部屋でルークは一人、ぼんやりと外を眺めた。昨夜から降り続いている雨は一向にやむ気配がなく、見るからに重たげな雨雲が朝の陽ざしを遮っている。
―― この雨ではまだそれほど遠くまでは行っていないか…… ――
陸路であろうと海路であろうとこんな天候では思うように進むのは難しいだろう。特に海路ならば出港すら無理だろうと容易に考えられた。
今頃どこかで雨宿りをしながら寄り添っている二人の姿が目に浮かび、ルークの胸はジリジリと痛んだ。捨てることの出来ない感情を押さえ付けながら、ルークはアリスたちが戻ってくるのをただただ待っていた。
「ルーク様、準備が整いました」
一時間を過ぎた頃、アリスとジルの二人が再度、ティナリアの部屋へと戻ってきた。ジルの手にはアリスのものであろう、少し大きめなカバンが下げられている。
「では行こうか」
「はい」
そう言って立ち上がったルークの後に続いて二人も廊下へと出る。
「ところでルーク様、この場面を誰かに見られてはお終いなのでは?」
「見つからなければいいだけのことだ」
ジルのもっともな意見にルークは事も無げにそう言ってのけた。
普通なら人に気付かれないように出るのは難しいが、度々屋敷を抜け出しているルークにとってはお手の物である。普段、人が滅多に通らない廊下を辿りながら庭に出ると裏口から外へ抜け、呼んでおいた馬車に乗り込んだ。
「さすがに三人もいると面倒だったが、運良く誰にも会わなかったな」
「……いつもああして外に出られているんですね…」
呆れたようなジルの声が聞こえてくるが、ルークは明後日の方向を向いたまま、聞こえなかったフリをして馬車を走らせた。
「このままですとお帰りになられるのは明け方になってしまうのでは……」
ガラガラと音をたてる馬車の中でジルの隣に座っているアリスが口を開いた。ルークは今気づいた、とでもいうように彼女のほうを見やる。
「そうだな……今日はそのまま泊まって、明日の朝、ジルと出立しよう」
「そう言われると思って用意して参りましたよ」
ため息をつきながらジルがそう言うと、ルークは彼の方を見ずに気怠そうに片手を振った。
「さすがだな」
「全く……」
ジルは心底呆れたといった風に一言呟き、今度こそ黙ってしまった。シンとした車内に響く雨音がより一層大きく聞こえる。
雨で視界の悪くなった外の景色を眺めていたルークだったが、しばらくしてゆっくりとその瞼を閉じた。