誰かが呼んでいる。
 その声に引き寄せられるように瞳を開いたが、薄い灰色の霧に包まれたこの場所では声の主の姿を見ることは出来なかった。どこから聞こえてくるのかすら分からない。

―― この声…… ――

 少し哀しそうな、切なくて優しい声。
 その声が聞こえるたびに胸が締め付けられるように苦しくなる。苦しくて、泣きたくなる。
 心を揺らすその声が聞こえてくるほうに向かおうとしたが、一寸先も見えない霧の中に足を踏み出す勇気はなかった。
 気付かなければここから動かなくていいのだ、とずるい考えが頭をよぎる。耳を塞いで聞こえないフリをして、彼女はその場に蹲った。

―― 聞かなければ……気付かなければ…… ――

 耳を塞ぐと静寂が訪れた。何も聞こえない。何も届かない。
 そして何もない灰色の世界で彼女はひとり涙を零し、声もなく彼の名を呼んだ。




「ティナ、起きて」
 その声に起こされて、ティナリアはまだ覚め切らないまなこをゆっくりと開いた。
「ん……」

―― 夢……見ていた気がする… ――

 けれど何の夢だったのか覚えていない。ただ何とも言えない痛みのようなものが胸につかえている。
「起きて。港に着いたよ」
 ぼんやりとしていたティナリアの視界にアレンが映る。真正面から見下ろすアレンの顔を見てようやく、ティナリアは自分が彼の膝の上で眠っていたことに気付いた。
「あ……ごめんなさ…」
 ティナリアが慌てたように身体を起こしかけるとアレンの手がそれを支えてくれた。起き上がって向かい合った彼は柔らかく微笑んでティナリアの頭を軽く撫でる。
「緊張が緩んだんだろう。まだ夜も明けていないし、部屋に入ったらまた休むといい」
 アレンはそう言っておもむろに外套を脱ぐと、それをティナリアの頭に深く被せた。いきなり目深に被せられたティナリアはやや驚きながらアレンを見た。
「雨がひどいから濡れないようにね」
「雨?」
 そういえば屋敷を出てきた頃にちょうど降り出していたような気がする。アレンが扉を開けるとそこは先が霞んで見えなくなるほどの土砂降りだった。
「さあ、宿の入り口まで走るよ」
「ええ」
 先に下りたアレンは彼女の手を取って馬車から降ろし、そのまま数メートル先の入り口まで駆けて行った。
 パシャパシャと足元で跳ねる水がティナリアのドレスの裾を汚していく。宿の軒下に着いた時には、外套をティナリアに譲ったアレンは頭から足の先までかなり濡れてしまっていた。
「大丈夫?」
「私よりアレンのほうが濡れてるわ」
「俺は平気だから」
 心配そうに問い返すティナリアを遮って、アレンが雨を滴らせながらそう言った。
「早く中へ入ろう」
 そう促して中に入るとアレンはティナリアを待たせて一人で店の主人と思わしき男の元に歩いて行った。その間、ティナリアは物珍しそうに辺りを見回した。
 雨のせいで外観が分からなかったというのもあるが、そこは貴族が宿泊するような場所ではなく、ひどく寂れた港の宿屋だった。一階は酒場も兼ねているのか、丸い机と椅子が数組置いてある。
「お待たせ」
 アレンは戻ってくるなりティナリアの手を引いて階段を上がっていく。歩くたびにミシッと軋む音が耳に届いた。
 三階の突き当たりの部屋に入り、ようやくアレンが手を解いた。ティナリアに被せた外套を取って壁のフックにかけると、彼女の顔に付いた水滴を指で拭ってやった。
「やっぱり濡れてしまったね」
「アレンのほうがひどいわ」
「大丈夫だよ。あっちの箱に少しだけど服が入ってるから、好きなものに着替えておいで」
 そう言って指をさしたほうに目を向けると部屋の隅に少し大きめの箱が何箱か積んであった。ティナリアはその箱に近付き、一番上の箱の蓋をそっと開けてみた。
「これ……アレンが用意したの?」
 箱の中には数枚のドレスが入っていた。ドレスとはいっても町娘が着るような質素で控えめなものばかりであったが、どれも彼女のサイズに合わせてしつらえたものばかりであった。
「そうだよ。気に入らなかったかな」
 ふるふると首を横に振るティナリアを見て、アレンがほっとしたように微笑んだ。
「早く着替えたほうがいい。ティナは昔から雨に当たるとよく風邪を引いていたからね」
「そんなこと……」
 ないとは言い切れなかった。確かに小さい頃は外で遊んではよく風邪を引いていたものだ。
 困ったような表情で噤んでしまったティナリアを見てアレンが愉快そうに笑う。彼女のそばまで行くと別の箱の中から自分の服を取り出した。
「外にいるから着替え終わったら声かけて」
 ティナリアは小さく頷くと再びドレスに視線を落とした。中から一枚取り出すと同時に後ろから扉の閉まる音がした。その音に彼女が振り向くと、部屋の中にはアレンの姿はなかった。

―― 相変わらず自分のことは後回し…… ――

 昔からそうだった。アレンはいつも自分のことは後回しにして、ティナリアを優先してくれた。いまも風邪を引くほど雨に濡れたのは自分のほうなのに、ティナリアの心配ばかりしていた。
 とりあえず早く着替えて暖かい部屋の中で彼を休ませてあげなくては、とティナリアは急いで服を着替え始めた。




「アレン、着替え終わったわ」
 扉の向こうから彼女の声が聞こえてくる頃には、アレンはすでに着替えを終わらせて部屋の前の壁に寄りかかっていたところだった。濡れた服を抱えて、アレンは部屋の扉を開けた。
「よかった、服もぴったりだね。寒くはない?」
「ええ、大丈夫よ」
 質素な服を着ていても、ティナリアの美しさは損なわれることはなかった。少し濡れている毛先がやけに艶っぽく見えて、アレンはふっと目を細めた。
 そんな彼の眼差しに気付いていないティナリアから素朴な疑問が投げられた。
「これからどうするの?」
「本当は夜が明けたらすぐにでも出発するはずだったんだけど、この雨でいつ船を出せるか分からないんだ」
「そう……」
「こんな宿じゃ落ち着かないだろうけど、天候が回復するまではここに身を潜めてるしかないな」
「私なら平気よ。気にしないで」
 そう言ってくれた彼女を狭い部屋の中に置いてある簡素なベッドに座らせて、アレンもその隣に座った。
「よかった」
「なに?」
 唐突に言ったものだから、ティナリアはきょとんとしてアレンのほうを見つめている。その様子が可愛らしい。
「ティナの話し方が昔と変わってなかったから安心した」
「あ……」
 自分でも気付いていなかったのだろうか、ティナリアは自分でも驚いたように口に手を当てている。
「それに……」
 アレンはそう言って膝に置かれていた彼女の左手にそっと触れた。薬指にはめられているものを指先でなぞるように撫でる。
「まだ持っていてくれたんだね」
「……うん……ずっと大事にしてたわ…」
 そう言った彼女の表情はどこか切なそうに見えた。
 幸せな未来を夢見たあの日の指輪。
 それを見つめていたティナリアの頬にアレンの手が添えられた。ふと顔を上げた彼女の瞳を真っ直ぐに捕らえ、アレンは普段よりほんの少し低い声で言葉を続けた。
「ティナ。きっとこれからはずっとこうやって身を隠しながら生きてくことになる。それでも俺と逃げることが出来る?」
 その問い掛けにティナリアの瞳がハッとしたように見開かれた。そして一度だけゆっくりと目を閉じると真っ直ぐにアレンの目を見つめ返してきた。
「…………うん……一緒に行く……」
「ティナ……」
 張り詰めた薄氷はくひょうの上を歩いて行くような不安だらけの中にある小さな幸福。それをようやくこの手に入れた。

―― 絶対にもう放したくない…… ――

 アレンの唇が彼女のそれを塞いだ。雨に濡れた唇は少しひんやりとしていたが、それでもその柔らかさはアレンの心を簡単に奪っていく。
「……ん…」
 次第に口付けが深くなるとティナリアの口から甘い吐息が漏れた。ぞくっとするような感覚が背中を走る。初めて入った彼女の口内を堪能すると、アレンはようやく唇を離した。
 そしてティナリアの細い身体をベッドに倒し、アレンは彼女を抱きしめたまま目を閉じた。
「このまま少し眠らせて」
「……うん…」
 そう言うと少し強張ったティナリアの身体から次第に力が抜けていった。シーツに包まった二人の身体は互いの温もりで雨の冷たさも消えていた。
 抱き合ったまましばらく寝たふりをしているうちに腕の中から小さな寝息が聞こえてきた。アレンはそっと目を開けて彼女の顔をじっと眺めた。

―― あのまま抱いていたらどうなったかな…… ――

 本当はあのまま抱いてしまいたかった。彼女を自分だけのものにしたかった。
 けれどキスの時に強張った彼女の細い身体、押し倒したときに瞳に映った一瞬の怯え。それに気付いてしまった以上、手を出すことなんて出来なかった。

―― 今はこれでいいか…… ――

 この腕の中に戻って来てくれた。それだけで十分だと思っていたはずなのに、どうして人の欲というものは次から次へと際限なく湧き出てくるのか。
 アレンは小さく苦笑すると腕の中の愛しい存在をぎゅっと抱きしめて、ゆっくりと瞳を閉じた。






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