夜の闇に紛れて一台の馬車が走っていた。総督家の屋敷はとっくに見えなくなっており、降り出した雨は勢いを増して辺りの音をかき消している。
 ガタガタと揺れる車輪の音を聞きながらティナリアは隣に座るアレンの腕に包み込まれていた。馬車に乗り込んでからずっと二人は言葉も交わさずにただ黙って寄り添っているだけだった。
 すっかり冷え切ってしまった身体にアレンの温かさが伝わってくる。ティナリアはその瞳を硬く閉じたまま、懐かしい彼の匂いを感じていた。
「ティナ」
 昔と変わらないその呼び名に懐かしさを覚えながらティナリアはゆっくりと顔を上げた。
 二人の視線が交わるとアレンは柔らかく微笑みながら彼女の頭を撫でた。昔と何一つ変わらないその優しい笑顔と手の感触にティナリアの胸はなぜか痛んだ。
「ティナ……来てくれてありがとう…」
 そう言ってアレンはティナリアの髪に指を絡めて、その束に口付けを落とす。
 ふと、真っ直ぐに見つめてくるアレンの瞳がほんの少し翳ったように見えた。ティナリアはその瞳から目が逸らせずにただ黙って見つめ返した。
「来てくれるとは思わなかったんだ」
「え?」
 アレンの言葉にティナリアの心臓が音を立てた。
「こんなにも待たせてしまった。それに……あの婚約で君を傷つけた。もう一度信じてくれるか不安だったんだ」
「……アレン…」
「どれだけ君に辛い思いをさせたことか……本当にすまない」
 アレンは自分を責めるような苦々しい声音でそう告げる。ティナリアは謝られることに対して心苦しさを感じ、そっとアレンの頬に触れた。
「謝らないで……謝らなきゃいけないのは」
「いや、君を傷つけたのは俺だ。許してくれ、ティナ」
「………」
 私、と続けようとした言葉を遮られ、真摯な眼差しで許しを乞うアレンに向かって何も言うことが出来ず、ティナリアは逃げるように視線を下げた。

―― 許すだなんて……私が言えるわけない… ――

 アレンを待ち続けると約束をしたのに、ルークに心を開いてしまったのは他の誰でもない、自分だ。たとえ何があってもアレンだけを信じなければならなかったのに、ルークの優しさに寄ってしまった。
 そうやってアレンを裏切っていた自分が彼を許すだなんて考えることすらおこがましい。

―― いまも…… ――

 アレンの腕の中にいるというのにルークの最後の表情が、ジルからの言葉が頭から離れてくれなかった。
 黙ってしまったティナリアの頭を彼の手が優しく撫でる。しかしそれすらも梳くように撫でるルークの手を思い出させるだけであった。
「こうやってこの手に抱くのを何度も夢に見たよ」
「私も、ずっと……」

"ずっと待っていた"

 嘘じゃない。本当にずっと待っていた。
 アレンはティナリアにとって唯一の希望であり、その為ならどんなことでも耐えてみせると心に誓っていた。
 それなのに、そう言いたいのに、胸が詰まって言葉が出てこない。代わりに零れたのは一粒の涙だった。一度零れた涙はそれをきっかけに止めどなく溢れてくる。

―― どうして……言葉が出てくれないの…… ――

 ティナリアは居たたまれなくなって思わず目を伏せた。しかし、アレンはその両手で流れる涙ごとティナリアの頬を包み込むと上を向かせ、覗き込むように彼女の瞳を見つめた。
 逸らすことの出来ない、強い眼差し。
 その瞳に全てを見透かされてしまいそうで怖かった。
「泣かないで」
 はらはらと零れる涙を指で拭うとアレンはふっと瞳をやわらげた。
「ティナ……愛してるよ…」
 彼の唇がそっと触れた。
 不意にティナリアの脳裏に別れ際のルークの口付けが甦った。
 アレンとルーク、どちらも優しく触れる口付け。けれど確かに違う二人の口付けに、アレンを選んだのだということを改めて実感しながらティナリアはその瞳を閉じた。




 夜中に差し掛かろうという頃には王都を離れた山道に入っていた。港へと伸びる山道は日中ならばそれなりに商人や旅人などを見かけるが、さすがにこんな夜中では人気がなく本当に静かで、それが余計に雨の音を大きく響かせている。
「この雨ならすぐに出港は出来なさそうだな」
 さっきよりも強く降り出している雨を横目で見ながらアレンは小さくため息をつきながらぽつりと呟いた。
 港についたらすぐに出港する予定だったが、この大雨ではおそらく船を出すことは出来ないだろう。無理に出して事故にでもあったら元も子もない。
 そんなことを考えながらアレンが今後の計画を頭の中で練り直していると、ふと膝の上で動くものがあった。
 柔らかな金の髪を撫でながら、その重みすら愛おしく感じてアレンは相好を崩した。自分の膝の上に頭を預けて眠るティナリアは昔のようにあどけない表情をしている。
 馬車の揺れに眠気を誘われたのか、ティナリアは走り出して数時間後にはアレンの肩に寄りかかって眠りに落ちてしまった。さすがにその状態ではティナリアの身体が辛そうなので、アレンが自分の膝の上に彼女を寝かせたのである。
「ティナ」
 起こさないように自分にしか聞こえないほど小さな声で彼女の名を呼ぶ。
 夜会のときは時間もなかった上に薄暗いところでの逢瀬だったせいでそれほど変わったように思わなかったが、こうしてまじまじ眺めるとティナリアの美しさは以前の比ではなかった。
 だが、その美しさでも隠しきれないほど彼女の顔にはひどく疲れが浮かんで見えた。もちろん、総督家を抜け出すという大事を前に気を張り詰めていたのだろうから疲れるのも当たり前かもしれない。
 けれどアレンにはそれだけではないように思えて仕方がなかった。
 あの夜会の夜も、そしていまも、ティナリアは笑顔を見せてくれていなかった。笑顔どころか彼女の澄んだ瞳には常に戸惑いと不安が見え隠れしているようにも見えた。
「……考えすぎか」
 ティナリアが笑ってくれないだけでこんなにも情けなく不安に駆られてしまう。アレンが苦笑いを浮かべながら静かな寝息を立てるティナリアの頬に指を滑らせると彼女は微かに睫毛を震わせた。
「……ん…」
 起こしてしまったかと慌てて手を離したが、ティナリアはぐっすりと眠ったまま一向に起きる気配を見せない。アレンはほっと息をつきながら再び彼女の頬に手を添えた。

―― やっと……この手に戻ってきたんだ… ――

 アレンは彼女の寝顔とそれに添えられた自らの手を見つめながら溢れそうな想いを懸命に堪えた。
 一年と少し前、将来を誓った矢先にこの手から奪い取られた愛しい少女。その少女は見る間に美しい女へと変わっていき、そしていま、再びこの手の中に戻ってきてくれた。

―― 何があってももう二度と離したくない…… ――

 そう思った時、アレンの目がティナリアの手に留まった。
 華奢な指にはめられている見覚えのある指輪。それはティナリアの十六歳の誕生日、幸せがこの先も続くと思っていたあの日、アレンが求婚の言葉と共に彼女に贈ったあの碧い石の指輪だった。
 それを目にした瞬間、アレンは言いようのない気持ちがこみ上げてきて、塞ぐように手で口を覆った。
「……ティナ…」
 昔のように無邪気な顔で笑いかけてくれるようになるのはずっと先でいい。
 彼女の唇があの頃のように "愛してる" と紡いでくれるのはもっと先でいい。
 あのときのようにこの腕の中からいなくならなければ、これから先ずっとそばにいてくれるのなら、そんな些細なことはどうだっていい。

―― だから……ティナ… ――

「……ずっと一緒に…」
 アレンは小さく、しかし意志の籠った声でそう呟くと、膝の上ですやすやと眠るティナリアの額にそっと口付けを落とした。




 空が白み始めているのに気付き、ルークは椅子にもたれた身体を億劫そうに起こした。
 カーテンの引かれていない窓から差し込むほんのりとした明るさに照らし出された部屋はいつも通り綺麗に整頓されている。いつも通りでないものがひとつあるとするならば、彼女がいないことだけだろう。
 ルークは手のひらを開くとその中にあるものを眺めた。前日、いや、つい数時間前まではティナリアの指にはまっていたはずの銀の指輪だ。

―― もうとっくに王都を出ただろうな ――

 陸路では憲兵や他の人目もあるし、それを避けるためにも自分なら海路でどこか遠くに行くだろう、とルークは思った。それならばおそらくどこかの港に向かっているはずだ。
 そこまで考えてルークは呆れたように笑った。

―― そんなこと考えてどうする……連れ戻しにでも行くつもりか… ――

 納得して自分から手を放したくせに、こんなにも未練がましく彼女を想う自分に呆れて物も言えない。大きく息を吐き出してから馬鹿な考えを振り払うように頭を軽く振ると、ルークは扉のほうに視線を向けた。
「それよりも……」
 あと数時間もすればアリスがティナリアを起こしに来るだろう。
 昨夜はティナリアの具合が悪くなったと嘘をついて夕食を外し、そのあとも誰ひとり彼女の部屋に立ち入らせなかった。ジルが上手くやってくれたようで、アリスもそれを信じたようだ。
 だが、これから先そんな嘘が長く通用するはずがない。ティナリアの不在はあっという間に知れ渡るだろう。その時になんと言ったらいいのかが最大の問題であった。
 "他の男と駆け落ちした" など口が裂けても言えるわけがなく、かといって "実家に戻った" なんて嘘もすぐに気付かれてしまう。
 ティナリアが心から笑えるように、彼女が幸せであるように、そう願って彼女を手放した。だからルークはアレンを罰するつもりもないし、彼らを探すつもりも毛頭なかった。
 しかし、駆け落ちしたことが父である総督に気付かれてしまうと非常に厄介なことになるだろう。それだけは阻止しないと、ティナリアの身の安全さえ危うい。
 ティナリアを失った感傷に浸っている場合ではない。彼女をいままで縛り付けていた償いとして彼女を守る為にしなければならないことを探すべきだ。
 ひとまず、ティナリアの侍従であるアリスには事情を話したほうがいい、とルークは考えた。

―― まあ、アリスなら気付いていそうだが…… ――

 そう思いながらルークは指輪をテーブルの上に置き、アリスが来るまで、と再び瞳を閉じた。昨夜は一睡も出来なかったせいで、目を閉じただけですぐに眠たくなってくる。
 すぐに浅い眠りについたルークの瞼の裏には、自分に向かって幸せそうに笑うティナリアの姿が映っていた。






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