あの夜から五日、ティナリアの表情は日を追うごとに翳り、口数も少なくなっていった。瞳は常に伏せられ、白い頬に長いまつ毛が影を落としている。
 ルークが抱きしめてもキスをしてもあれ以来ティナリアが拒むことはなかったが、いつも心ここにあらずといった様子でただじっとルークの腕の中にいるだけだった。
 そんな様子を見ていると、この手で確かに触れているのに気がつけばふっと消えてしまうんじゃないかと不安になる。ルークは彼女がそばにいることを確かめるように、毎日何度も抱きしめた。
 部屋で執務に追われているいまもティナリアのことが気にかかって仕事が手につかない。
「ルーク様、どうかされましたか?」
 ペンを放り投げて椅子の背もたれに寄りかかったルークを見て、ジルが声をかけた。
「少し疲れた」
 ため息混じりに言った言葉にジルが苦笑した。普段なら疲れるなどと滅多に言わないルークが、今日は執務を始めてからそれほど時間が経っていないのにそう言ったからだろう。
 ジルの苦笑に返す言葉もなく、ルークは気付かなかった振りをして手元に視線を落とした。
「お茶でも淹れましょうか」
「ああ……いや、ティナリアを呼んで来てくれないか」
「かしこまりました」
 ルークはあの夜にあったことをジルには話していなかった。ジルもあれ以来、しつこく聞いてくることはなく、ルークはその気遣いをありがたく思った。
 会釈をしてジルが部屋を出ていくと、ルークは椅子にもたれたまま窓の外を眺めた。紅葉もすでに終わり、葉が落ちている木々がやけに寂しく見えた。




「ティナリア様」
 彼女の部屋の前に立ちノックをしたが、中からは一向に返事が返ってこない。ジルははて、と首を傾げた。
 先ほどすれ違ったアリスからは部屋で読書中だと聞いていたのだが、どこかへ出かけたのか、はたまた眠ってしまったか。後者であれば起こすのは忍びないが、主の為にとジルはもう一度大きめにノックをした。
「……はい…」
 少し間を置いて小さな声で中からティナリアの返事が聞こえた。ジルは静かに扉を開くと一礼をして部屋に入った。
「お休み中でしたか。申し訳ございません」
「少し眠っていたみたい」
「今日は日差しが暖かいですからね」
「……何か用でしたか?」
 そう言ってティナリアはジルの他愛もない話を控えめに遮った。まるで近付くな、と言われているような雰囲気だ。
「ルーク様がお呼びです。執務室にいらして頂けますか」
「……分かりました」
 ティナリアは気が乗らないようだったが、ゆっくりと立ち上がって簡単に身なりを整えた。ジルが扉を開けるとありがとう、と小さく礼を述べて先にルークの部屋へと歩いて行く。
 ジルも続いて出ようと思ったがティナリアが使っていたブランケットが目につき、足を止めた。せっかくだから簡単に片付けていこう、と思い直した彼は再び部屋の中に戻った。
 柔らかなブランケットを畳んで椅子の手すりにかけたとき、カサっと何かが落ちる音がした。何だろう、とジルが足元に目をやると、そこにはシワになった小さめの紙が落ちていた。
「ゴミか」
 そう呟き拾い上げたジルは、くしゃりとシワになったそれの中に文字があるのを見つけ、何気なくシワを軽く伸ばした。そしてそこに書かれていたものを目にした瞬間、彼の顔は一気に青褪めていった。
「っ……これは…」

"ティナ"

 そう始められている手紙には目を疑いたくなるような内容が書かれていた。
 本来ならばティナリアの私的な文書を無断で読むことなどもっての外だが、いまはそんなことを言っている場合ではない。ジルは見過ごすことの出来ないその手紙から目が離せなかった。
「まさかこんなことが……」
 この手紙を受け取ったのはおそらくあの夜会だろう、とジルは思った。あの夜のルークとティナリアの様子がおかしかったのはやはりアレンが絡んでいたのだ。
 あれ以来、ティナリアは沈みがちになり、ルークもどこか不安がっているように見えたのもこのせいだろう。しかし、まさかこんなことになっているとは思ってもみなかった。

―― ルーク様はこのことを知っておられるのか? ――

 知っていればいくらルークでもあんなに平然としていられるはずがない。とにかくこの事を知らせなければと思い、部屋を出ようとしたところでハッとしたように立ち止った。
 この手紙を見せれば手っ取り早いが、ティナリアがどういう答えを出したのか分からない今は安易に騒ぎ立てるような迂闊なことはしないほうがいいだろう。
 そう考えたジルは手紙を椅子の上の見えにくい所に戻すと出来る限りの平静を装い、ティナリアの部屋を出た。
 普段からルークとティナリアが二人でいるときは席を外すようにしていたから、しばらくは自分がいなくても大丈夫なはずだ。ひとまず落ち着いて考えよう、とジルは自室へと戻って行った。
「十日後の午後六時……」
 部屋に戻ったジルはついさっき読んだ内容を口にした。手紙には確かにそう書かれていた。あれが夜会のときに受け取ったものであるとすれば、アレンが迎えに来る日まであと五日しかないということになる。
 それにしても、とジルはため息を吐いた。
 次代総督の妻を略奪しようとは命知らずもいいところだ。ティナリアとアレン、二人の絆を甘く見ていたのかもしれない。ティナリアがどういう答えを出したか殊更、不安に思った。
「アリスさんなら……」
 嫁いできたときからティナリアが唯一、心を開いていた人物であるアリスならばこのことを知っているかもしれない。しかし、ここ数日の彼女から何かを隠しているなどといった様子は見られなかったように思う。
 万が一、知っていて隠しているのだとしたら問題だ。共謀していたと見做みなされればアリスとて無事では済まないだろう。

―― そうなった時は……俺には守れない…… ――

 どんなにアリスを愛していても、忠誠を誓った主を裏切ることは出来ない。けれどおそらくそれはアリスも同じなのだろうと思う。常にティナリアの味方でいるアリスが自分ではなく、彼女をとることは容易に想像がつく。
 だからこそこの手紙の計画をアリスが知らないでいてくれることをジルは切に願った。




「呼びだしてすまないな」
「……いえ…」
 部屋に入ってきたのはティナリア一人だった。ジルはいつも通り気を利かせてどこかに行ったのだろう。
「おいで」
 椅子に座ったまま手招きをすると、ティナリアはゆっくりとそばに寄ってきた。その手を取って軽く引っ張れば、バランスを崩した彼女を容易く腕の中に閉じ込めることが出来る。
 そうやって自分の膝の上に座らせた彼女を抱きしめると、ルークはようやく安堵の息を吐き出した。

―― なぜこんなに不安になるんだ…… ――

 自分でも不思議なほどティナリアがそばにいないと不安になってしまう。彼女に溺れているとかそういった次元ではない。ティナリアがいなければ生きていけないような気にすらなってしまう。
「ティナリア……」
 伏し目がちなティナリアを覗き込むようにしてようやく不安そうに揺れている彼女の瞳を捉えたルークは、己の不安を隠して穏やかに微笑んで見せた。
「どうした?」
「………」
 ティナリアは小さく首を振った。
 ここ数日、彼女は応える代りにいつも首を振っていた。そのほとんどが縦ではなく横にで、まるで放っておいてと言わんばかりに弱々しいものだった。
 シルクのような金の髪を梳きながら、ルークはその髪の一束を手に取るとそれに口付けた。
「また……微笑わらってくれなくなったな…」
 その言葉にティナリアはパッと顔を上げた。困ったような彼女の表情がルークには泣きそうに見えてしまい、彼のほうが困ってしまった。
「無理に笑えと言っているんじゃない。すまないな、独り言だと思ってくれ」
「……ごめんなさい…」
 ルークは再び俯いてしまったティナリアの額にそっとキスをした。
「謝ることはない。笑いたいときに笑えばいいんだ」
「………」
 そう言ったあと、ティナリアの身体から少しだけ力が抜けたように感じられた。ルークにもたれ掛かってくる重みが少しだけ増える。それがルークには嬉しかった。
 無理をして気を張り詰めているようにも見えるティナリアが自分といることで少しでも穏やかになれるのならこれほど嬉しいことはない。彼女を抱きしめる腕にきゅっと力が籠った。
「今度またどこかに出かけようか」
「え?」
「メイナードの屋敷でもいいし……そうだ、市場にも連れていくと約束していたな」
「でも……」
 そう言いかけた唇を優しく塞ぐと、ルークはふっと微笑んでティナリアの頬を撫でた。
「たまに遠出すれば少しは気が晴れるだろう?」
「……そう…ですね…」
 煮え切らない返事をするティナリアの顎を持ち上げると、ルークはもう一度ティナリアに口付けた。
「それまでに仕事を片付けないとな」
「では私は部屋に……」
 そう言って立ち上がったティナリアの手首を掴んで引き止める。情けないと言われても、ティナリアには目の届くところにいてほしかった。
「出来ればこの部屋にいてくれないか」
「………」
 シンと静まり返った空気が二人の間を流れる。沈黙に耐えきれなくなったようにルークがその手を放すとティナリアは膝から離れ、部屋を出ていってしまった。
 これには苦笑するしかなかったルークだが、しばらくしてからティナリアが部屋に戻ってきた。その手にはさっきまでなかったトレーがあり、ティーポットとカップが二つ載っていた。
 部屋の隅でカチャカチャと準備をし、ルークのデスクまで運んでくる。紅茶のいい香りが部屋に広がった。
「ありがとう」
「……いえ…」
 ティナリアは部屋から持ってきたのだろうか、小さめの本を抱えて椅子に座った。自分の分のお茶もあるということはルークの望み通り、ここにいてくれるのだろう。

―― 全てが壊れた訳じゃない…… ――

 あの夜会の日からティナリアは確かに離れていった。アレンとの間には自分など足元にも及ばないほどの強い絆があるのだろう。
 けれど、ルークとティナリアが二人で過ごしてきた時間はアレンにだって奪い取れるものではない。こうして頼めばそばにいてくれるのも、そういった時間があったからだとルークは思った。
 決して穏やかな時だけではなかったが、それでも二人で重ねてきたこれまでの時間の分、ルークとの間にも絆はあるはずだ。
 いまのルークにとってはそれだけが微かな希望の光だった。






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