テーブルの上で泣き疲れていつの間にか眠っていたらしい。目覚めたときにはすでに陽が昇っていた。
 ドレスのままずっと座っていたから身体が変に強張ってしまっている。ティナリアは立ち上がると屋敷の中でいつも着ているゆったりとした服を取り出し、どうにか一人でドレスを脱ごうと試みた。
 だが、やはり着るのに手がかかるものは脱ぐのにもそれなりに手がかかる。きつく締め上げている後ろの釦は簡単に外れてくれない。
 ティナリアが四苦八苦しているとノックの音もなくルークが部屋に入ってきた。
「入るぞ」
「……ルーク…」
「なんだ、着替え中か。アリスはどうした?」
 いつもと変わらない口調で問うてくるルークに、ティナリアは俯きながら首を振った。
 一晩中泣きはらした瞳はきっと真っ赤に染まっているだろう。それを見られたくなかったのだ。
「一人では脱げないだろう。後ろを向け、外してやる」
「いえ、そんな」
「いいから」
 逆らう間もなく、肩を掴まれてくるりと後ろを向かされる。そしてティナリアが苦戦していた釦を手際よく外していくと、不意にルークが口を開いた。
「具合はどうだ?」
「……大丈夫です」
「そうか……よし、終わったぞ。こっちを向け」
「………」
 釦を全て外し終えたルークがそう言ったが、ティナリアは頑なに背を向けたままだった。
「ティナリア」
 痺れを切らしたようにそう言ったルークの声がわずかに冷たくなったように聞こえ、ティナリアは顔を伏せながら恐る恐る振り向いた。
「いい子だ」
 昨日のことを聞かれるのかと怯えていたが、彼からは問い質すような気配は窺えない。俯いた視界にルークの靴が映ったとき、ティナリアは温かい腕に包み込まれていた。
 優しく髪を撫でる手はいつもと何ら変わりない。それなのに撫でられるたびになぜかティナリアの心には鈍い痛みが積もっていった。
「顔を上げて」
「………」
 そう言われてもティナリアは顔を上げず、じっと足元を見続けていた。しかしルークの手がティナリアの両頬に添えられると、俯いていた顔をそっと持ち上げられてしまった。
 正面から真っ直ぐに見つめてくるルークの視線から逃れることが出来ず、ティナリアは吸い込まれてしまいそうな彼の黒い瞳を見つめた。
「目が真っ赤だな」
「……眠れなかっただけです…」
「そうか」
「………」
 ティナリアは再び口を閉ざすと、辛そうに目を伏せた。
 顔を見れば彼女が泣いていたのは一目瞭然だ。ティナリアの言葉が嘘だと分かっているはずなのに、ルークは少しも疑う様子を見せず、その口調も至って穏やかだった。
 けれど声音だけはいつもより暗く、それを隠すようなその穏やかさがより一層ティナリアを沈みこませた。
「俺は……情けない夫だな。いつもお前に悲しい顔ばかりさせている」
「そんなことは……」
 そう言いかけたティナリアの言葉はルークの胸に押しつけられたことで声にならずに途切れてしまった。痛いくらいに強く抱きしめる彼の腕に、ティナリアはいつもとは違う何かを感じた。
「………せば…」
 抱きしめられたティナリアの頭上でルークが何か呟いたがようだったが、その声はあまりにも小さく、ティナリアには聞き取ることが出来なかった。
「……ルーク…?」
「なんでもない」
 聞き返されたルークは困ったように笑うとティナリアの瞼にキスをした。まるで涙の痕を辿るように頬を撫で、柔らかな唇に下りていく。
「……っ…」
 薄く開いた唇からルークの舌が入り込み、ティナリアのそれを絡め取ろうとしている。知らず知らずのうちにティナリアもそれに応え始めていた。
 求めてくるような情熱的な口付けはティナリアの思考回路を鈍らせていく。

―― アレンを裏切るの?……この手をとって……ずっとこの場所で…? ――

 ぼんやりとしていた頭の中にそんな考えが浮かびあがった瞬間、ティナリアはルークの口付けから逃れようと、懸命に彼の胸を押し返していた。
「…や……いやっ……」
 ようやく離れたルークは悲しそうな笑みを浮かべてティナリアを見つめていた。その表情にハッと息をのむ。
「あ……ごめんなさ……」
「謝ることはない。体調が悪いのに無理をさせた。いまアリスを呼んでくるからゆっくり休め」
 それ以上ティナリアに触れようとはせず、ルークはそう言うと静かに部屋をあとにした。
 昨日も今日も、ティナリアの態度でルークが傷ついているのは言うまでもないだろう。けれどティナリアにもどうしたらいいのか分からなかったのだ。

―― いっそ、責めてくれればよかった…… ――

 悲しみを抑えたルークの優しさは、怒鳴られるよりも詰られるよりも辛い。
 ルークが見せた悲しげな笑顔は小さな棘のようにティナリアの心に刺さったまま、いつまでも消えてくれなかった。




 ティナリアの部屋を出たルークは数歩歩いてすぐに足を止め、窓の外に目を向けた。恐らく夜通し泣いていたのだろう、瞳を真っ赤にさせた彼女の残像がルークの頭の中に残っている。
 本当は昨夜のことを聞くつもりだった。けれどティナリアのあの状態を見た途端、ルークの意気込みは急速に萎え、問い質すことも出来なくなってしまった。
 昨夜からずっと考えていたこと。アレンの挑戦的な視線がチラつくたびに、その考えが正しいような気がしてならなかった。

"俺が手放せば……"

 思わず口にしていたその言葉をティナリアに聞かれなくて良かったと胸を撫で下ろした。弱気になった情けない自分の姿に心底呆れ返ってしまう。
 この手を離せば逃げてしまうだろうか。そばにいてくれることは万が一にもないだろうか。
 そう思ってから、ルークは馬鹿馬鹿しいといったように頭を振った。さっき拒まれたばかりなのに、それでもまだ微かな望みを欲しがっている。
「いや……か」
 あんな状態の彼女にすら劣情を抱いてしまう己の浅ましさに目眩すら覚えた。拒まれても当然だ。
 思えばメイナードの屋敷で受け入れてくれてからティナリアは一度もルークを拒むことはなかった。心を許してくれたと勘違いしてしまうほど、温かく迎えてくれたときもあった。
 けれど、ティナリアを手に入れようと必死になって積み上げてきたものが、アレンと会ったあの数分間で足元から崩されてしまった。
 どれだけ時間をかけても、どれだけ優しくしても、手に入らないティナリアの心をアレンはいとも容易く攫っていく。それをまざまざと見せつけられた。
「ルーク様」
 その声にハッとしたルークが後ろを振り向くと、そこにはアリスが申し訳なさそうに立っていた。心配で堪らなかったというのが表情から窺える。
「ああ、ちょうど良かった。ティナリアの部屋に食事を運んでやってくれないか」
「かしこまりました」
 そう言ってからもなかなか立ち去ろうとしないアリスを怪訝に思って、ルークは首を傾げた。
「なんだ?」
「あの……昨夜のティナリア様のご様子だともしかして……」
 さすがに勘の鋭いアリスである、自分の主人の様子でそれを察知したのだろう。けれどそれをルークの口から言いたくはなかった。
「ティナリアに聞け」
「……はい」
「あと……」
 アリスにならティナリアも話すかもしれない。そう思ったが、それを自分が聞き出すのは卑怯な気がしてならなかった。
「いや、なんでもない」
 そう言ってルークはくるっと背を向けるとアリスをその場に置いたまま自室へと向かって行った。




 ルークが部屋を出てから普段用のドレスに着替えたティナリアは、壁にかけたドレスをぼんやりと眺めていた。未だに色の戻らないティナリアの目には綺麗な深緑もただの灰色にしか見えない。
 胸の中にわだかまるものを吐き出すように小さくため息を漏らしたティナリアの耳に控えめなノックの音が届いた。
「ティナリア様、入りますね」
「ええ」
 ティナリアの許しを得て部屋に入ってきたのはアリスだった。
「お食事をお持ちしました」
「でも食欲が……」
「少しでも召し上がりませんか?お体を壊します」
「……そう…ね…」
 心配そうなアリスの顔を見るとあまり無下に断ることも出来ず、ティナリアは目の前に置かれたトレーからあまり重たくないものを選んで口をつけた。
「……何かあったんですか?」
 お茶を淹れていたアリスの手が不意に止まり、顔を上げたティナリアと目が合った。
「…何も……ないわ」
「もしかしてアレン様とお会いに……」
「………」
 いきなり核心を突かれ、思わず肩に力が入った。しかし、アリスに返事をすることはせず、ティナリアは口を閉ざした。
「……私では相談相手になりませんか?」
 アリスが心配そうに覗き込んでくる。それを見ると思わず全てを話してしまいたくなったが、ティナリアはぐっと言葉を呑み込んだ。
「そんなことないわ」
「ティナリア様」
「昨夜は……ただ気分が悪くなってしまっただけ。何もないわ」
 それでもアリスはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、ティナリアのそれ以上は聞かせないような雰囲気に気圧されて口を噤んだ。
 カチャカチャと食器の鳴る音が小さく響く。半分も食べないうちにティナリアはトレーを下げて貰うように頼んだ。テーブルの上には少し冷めた紅茶だけが残されている。
「まだ気分が優れないの。今日は一人にさせて」
「……かしこまりました。何かあったらすぐにお呼び下さいね」
「ええ。ありがとう」
 ワゴンを押しながらアリスが部屋を出ていくと、ティナリアは小さくため息をついた。
 アレンに会ったことを予想したアリスなら、彼がなぜ今になってティナリアの前に姿を現したのかも察しているに違いない。アリスは何もないなんて嘘が通じる相手ではなかった。
 ティナリアもアリスに嘘などつきたくはなかったけれど、彼女にはどうしても本当のことを言えなかった。

―― アリスにはジルがいる……彼女を幸せにしてくれる人がやっと現れたの…… ――

 一見、変わっていないように見えるが、二人は着実に親密になっているようだった。傍目で見ていてもジルといるときのアリスはとても可愛らしく、幸せそうな顔をしていた。
 それを壊すようなことはしたくなかった。
 アレンが迎えに来たことを知れば、ティナリアがどんな答えを選んだとしてもアリスはそれを助けてくれるだろう。だからこそ言えなかったのだ。
 ルークを選ぶのなら問題はない。だがアレンを選ぶのならば、それを知って後押ししたアリスはこの屋敷にいることが出来なくなってしまう。最悪の場合、何か罰を受けてしまうかもしれない。
 けれど、このことをアリスが知らなければ、おそらくルークは彼女に罰は与えないだろう。大切な姉のようなアリスをティナリアの勝手に巻き込むわけにはいかない。
 どちらを選んでも必ず誰かが傷つくのだ。"誰も傷つかずに" などと綺麗事を言うつもりもないが、それでも誰かが悲しむ姿を見たくはなかった。
 ティナリアの心はゆらゆらと定まらないまま、時間だけが足早に過ぎ去っていった。






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