「ルーク様、少しよろしいでしょうか」
 そう言ってジルがルークの部屋を訪ねたのは夕食を終えたあとのことだった。ルークは着替え終わったばかりの服をくしゃっと丸めながらジルのほうに向き直る。
「なんだ」
 あの後、ルークがティナリアを部屋の中に留めた為に例の話をするタイミングを失ってしまい、結局こんな時間になってしまったのだ。
 しかし部屋に入ったものの、なかなか話を切り出すことが出来ずに、ジルは閉じられた扉のすぐそばで立ったままでいた。
「どうした?何かあったのか?」
 ジルが言いよどむことは滅多にない。そんな彼が珍しく躊躇っているのが見て取れ、ルークは怪訝そうに声をかけた。
「……ルーク様、折り入ってお話がございます」
 そう告げるジルの声はいつもと違って低く、不安に彩られていた。それに声音の違いに気付いたらしくルークは真剣な目を彼に向け、何も言わずただ黙って言葉の続きを待った。
「日中、ティナリア様をお呼びに部屋を訪れた際……ティナリア様宛の手紙を見つけてしまいました」
「手紙?」
「初めは紙屑と思い拾い上げたのですが、中に文字があったのでつい開いてしまいまして」
「誰からだ」
「差出人は恐らく……アレン=ジル=ティグス様です」
「………」
 ルークは黙ったまま椅子に腰かけると、手を組んで少しだけ顔を伏せた。その様子を不安そうな顔で見ていたジルは先を続けていいものかと口を噤みかけた。
「それで?」
 ルークのその言葉にジルは躊躇いながらも再び口を開いた。
「無礼を承知で読ませて頂きました」
 返事をしないルークだが、微かに頷くような仕草が続きを促していた。ジルは手を握り締めると覚悟を決めて手紙の内容を口にした。
「結論から申し上げます。ティグス様がティナリア様を攫いに来ます。おそらく五日後に」
「………」
 ルークの肩がピクッと動いた。けれど俯いたままの彼の表情は読み取ることは出来ず、ジルはそのまま話を続けた。
「ティグス様のご婚約はローレン卿の目を逸らせる為の工作です。裏ではティナリア様を攫う為に準備をしていたのでしょう」
「なるほどな」
「失礼ながらルーク様、先日の夜会でティグス様とお会いになられましたよね?」
「……ああ、会ったよ。ティナリアも会っている」
「手紙には十日後の午後六時と書いてありました。夜会のときに手渡されたのだとすれば、あと五日です」
「五日……」
「ただ、ティグス様も先の婚約発表で下手を打っていますし、ティナリア様が応じるかどうか、賭けのような部分もある手紙でした」
「そうか」
 話しながらジルは次第に不安に駆られていった。
 激昂するのも覚悟の上で話をしたのにもかかわらず、ルークの声は幾分沈みがちではあるが、怒りは見えず至って穏やかなものだったからだ。
「ルーク様?」
「なんだ」
 そう言ってようやく顔を上げたルークの表情を見てジルは驚いた。ルークは薄っすらと微笑んでいるようにさえ見えた。
「なぜ……お怒りにならないのですか」
「どうして怒るのだ」
「もしかしてご存じだったのですか?」
 まさかとは思いながらもジルはそう尋ねていた。しかしルークはふっと笑って首を振った。
「いや、手紙のことは初耳だが……なんとなくそんな気はしていた。ティナリアの様子もおかしかったしな」
「ならばティナリア様をお引き留めに……」
「いい」
「なぜです?ティナリア様のあのご様子は迷っているからではないのですか!なぜお引き留めにならないんですか?!」
 声を荒げたのはジルだった。普段からあまり声を荒げることのないジルの声に、今度はルークが驚いたように目を見開いた。
「お前が大声を出すなんて珍しいな」
「申し訳ありません。ですが……」
 バツが悪そうに目を伏せたジルの言葉を遮って、ルークが落ち着いた声で話し始めた。
「嫁いできた頃のティナリアを覚えているか」
「ええ」
「あの頃の彼女はまるで感情のない人形のようだった」
 笑いもせず、怒ることもせず、感情を押し殺したまま日々を過ごしていたティナリアの姿がジルの脳裏に浮かんだ。美しい、人形のような花嫁だった。
「それが少しずつ崩れて……本当の笑顔を初めて見たとき、あんなに美しいものはないと思った」
 思い出すようにぽつりぽつりと話すルークは優しい表情をしているのに、ひどく寂しそうに見えた。ジルは目を伏せている彼をじっと見つめながら黙って話を聞いた。
「あの笑顔を守る為なら何でもしようと思ったよ。全てを投げ打ってでもな」
「それがティグス様の手に渡ることになっても……ですか」
「……ああ」
 ふっと自嘲するような笑いを零し、ルークは言葉を続ける。
「ティナリアの心は今でもあの男のものだ。あいつにとって俺は二人の仲を引き裂いた敵。その上、無理やりに純潔を奪った男だ。憎みこそすれ、俺を選ぶことなどないだろう」
「ですが、ティナリア様が迷っておられるのなら」
 その言葉にルークは再び首を振った。
「ティナリアが決めることだ。あいつが幸せに笑えるのならどちらでもかまわない。あいつから幸せを奪った俺がとやかく言える権利はないんだ」
「……ルーク様…」
 すでに決めていたことのように、ルークの声には決意が滲んでいた。
 ジルが言葉を失くして呆然としていると、ルークがつと視線を合わせてきた。その真っ直ぐな視線からも決意の強さが窺える。
「ジル、ティナリアには俺が知っていることを絶対に言うな。余計な気を遣わずに決めて欲しいんだ」
「……かしこまりました」
 これ以上、何を言ってもルークは聞かないだろう。そう思ったジルは腑に落ちないながらも、主に向かって一礼をして退室した。

―― きっとティナリア様は迷っておられる……お引き留めすればあるいは…… ――

 駆け落ちしようとまでした恋人が迎えに来る。おそらくそれはティナリアにとってこの上なく嬉しいことだろう。
 しかし、アレンはティナリアの信頼を一度失っている。それが自分の為だったとしても、彼女には大きな傷を残したはずだ。そしてその間にルークとの間にあった距離は少しずつ近付いていっていた。
 以前は確かに壁を作り、誰も近寄れないようにしていたティナリアだったが、最近ではルークのそばに寄り添う姿がよく見られていた。そのときの彼女は決して不幸そうにも、苦痛そうにも見えなかった。

―― いや……あのご様子ではむしろ…… ――

 ティナリアが再びアレンを信じたとしても、ルークに心を開いているのは間違いないはずだ。それを訴えかければ彼女の心がこちらに傾くことだって充分に考えられる。
 けれどルークの命令は絶対だ。ジルが勝手な行動を起こすことは出来ない。
 胸につかえたものを吐き出すように大きなため息を吐くと、ジルは足取りも重たく渋々と仕事に戻っていった。




 見慣れた部屋の中をアレンはゆっくりと眺めていた。物心がついた頃からずっと使い続けてきた自分の部屋だ。
「これももう見ることはない……か…」
 壁にある小さな傷に触れながら懐かしそうに呟いた。アレンがまだ小さい頃に癇癪を起して傷つけたものだった。幼い頃はずいぶんとやんちゃな性格だったと皆からよく聞かされていた。
 すでにやんちゃという歳ではないが根本的なものはあまり変わっていないのかもしれない、とアレンは小さく笑った。

―― 無謀もいいとこだな…… ――

 次代総督の妻を奪いに行く。それがあまりにも無謀だということくらい重々承知の上だ。ここまで準備出来たことすら信じられないようだった。
「用意は出来たのか」
 その声にアレンが振り返ると扉のそばにイヴァンが立っているのが目に入った。
「またお前か」
「またとはなんだ。親友が見送りに来てやったというのに」
 そう言ってイヴァンは何食わぬ顔で部屋の中に入ってきた。アレンのすぐ隣に立つと同じようにその壁の傷跡を見つめる。
「間に合ってよかった。もう行ってしまったかと思ったよ」
 アレンと視線を合わせずにじっと壁を見たままそう言ったイヴァンの声はどことなく寂しそうに聞こえた。
「いつ発つんだ」
「三日後。ティナを連れてそのままのラロシェの港に行く」
「そうか」
 少し間を置いてアレンが顔を向けるとイヴァンも彼のほうを向いた。互いにふっと笑うとアレンが軽い口調で言った。
「立ち話もなんだな。座ったらどうだ」
「ああ」
 そうして二人は部屋の真ん中にある椅子に向かい合うように腰かけた。
「ラロシェの港までは馬車か?」
「そのつもりだ。さすがにティナを馬に乗せるのは目立つから」
 いくら外套やストールで顔を隠しても限度がある。ティナリアの容姿はそんなもので誤魔化すことは出来ないだろう。それを思ったのか、イヴァンもすぐに納得した。
「それで、お前の婚約者には何も言わずに行くのか」
「……彼女には本当にすまないことをしたと思ってるよ。少し経ったら手紙くらいは出そうと思ってる」
「そうか」
 そう言いながらアレンはこの為だけに利用した婚約者を思い出す。
 ノエルの笑った顔は嫌いではなかったし、自分に好意を持ってくれていたのは誰の目から見ても明らかだった。それをこんな形で裏切るのは良心が痛むが、それでもアレンにはティナリア以外に求めるものはなかった。
「ティナリア嬢は来てくれそうか?」
 心配そうなイヴァンの声でアレンはふと我に返り、弱気な笑みを浮かべて肩を竦めた。
「分からないな……もう一度信じてくれるかどうか…」
「なんだ、婚約のことは説明していないのか」
「時間がなくてね。手紙には簡潔に書いたけど」
「あとは祈るだけ、ということか」
「そうだな」
「………」
 シンと静まり返った部屋にクックッと押し殺したような声が響く。アレンとイヴァンの肩が初めは小さく、次第に大きく揺れていった。そしてとうとうイヴァンが堪え切れないといったように笑いだした。
「まさか本当に行くとは……稀に見る阿呆だ」
「ああ、自分でもそう思ってるよ。でもお前に阿呆呼ばわりされたくないな」
「それもそうだな」
 笑いながらそう言い合う二人の瞳は、まるでなにか悪戯をするときの子供のように輝いていた。
「しっかりやれよ、アレン。せっかく俺が手を貸してやったんだからな」
「感謝してるよ。お前がいたからここまで来れた」
「借りは返してもらうけどな」
「前にも聞いたな。まあ、いつか返すよ」
「俺の下で働いてもらうのも一興だと思わないか」
 イヴァンが悪戯っぽくそう言うと、アレンもつられて明るく笑った。
「お前に使われるのだけはごめんだよ」
 そう言い合いながらようやく二人は笑い声を収めた。
 部屋の中のどことなく沈んでいた空気はすでにどこかへといってしまったようで、かわりに穏やかな雰囲気に変わっている。
「まあ……いつでも頼ってこい」
「……ああ、すまんな」

―― こいつには口が裂けても言えないが…… ――

 イヴァンのその言葉に張り詰めていた気持ちが解れていく。口には出さなかったが、悪友の一言にこれほど救われるとは思いもしなかった、とアレンは心の底から感謝した。
「じゃあ、また」
「ああ」
 いつも通りの別れの挨拶を交わし、イヴァンは屋敷をあとにした。
 もしかするともう二度と会うことはないかもしれない親友の後ろ姿を、アレンは感謝の意を込めて見えなくなるまでずっと見送っていた。






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