あれからどれくらい時間が過ぎたのだろうか。抱きしめたティナリアは身動き一つしないまま、大人しく腕の中に納まっていた。
「……ティナリア?」
腕を緩めて小さくそう呼びかけると、ティナリアが少しだけ顔を上げた。しかしその瞳はどことなく虚ろで顔も青白いままである。
冷たい風にふわりとなびく金の髪に指を絡めながら、ルークはざわつく心を懸命に押し殺した。
「屋敷に帰ろうか」
そう言うとティナリアは力なく首を振った。
「どうしてだ?いまにも倒れそうなくらい顔色が悪いのに」
「だめです……いま帰ったらまた…」
帰るのを拒むのはアレンがいるこの場に留まりたいからか、と訝しんだルークだったが、その一言で彼女が嫌がる理由を察知した。この状況で体調を崩して帰ったとなれば、病だ何だとまた妙な噂が流れるかもしれない。恐らくティナリアはそれを案じているのだろう。
「そんなことは気にするなと言っただろう。俺はお前の身体のほうが心配だ」
「でも……」
「帰ろう」
ルークはそっとティナリアの唇を指先でそっと塞ぐと、彼女の言葉を遮ってそう言った。しばらく黙りこんだティナリアだったが、ルークの意思に負けたのか、ようやく縦に首を振った。
「こうしていれば少しは楽だろう」
そう言って自分に寄りかからせるように腕を組ませ、ティナリアを気遣いながらゆっくりと歩き出した。遠慮がちに体重を預けてくるティナリアが愛おしい。
ホールを横切るときにティナリアの身体に力が入ったのに気付いたが、ルークは真っ直ぐに前だけを見て堂々とエントランスへと向かって行った。
二人の姿を認めた門番がすぐにクロード家の馬車を呼んでくれたようで、家紋の彫られた立派な馬車が二人の目の前に止まる。組んでいたティナリアの手をとり、彼女を馬車へと乗り込ませた。
「眠っててもいいぞ」
ルークの言葉にティナリアの反応はなかった。走り出した馬車の中、彼女はずっと俯いたままでルークと目を合わせることさえなかった。
いつの間にか降り出してきた雨の音が重苦しい二人の沈黙をさらに暗いものにしていくように感じられた。
「ルーク様……何かあったんですか?」
部屋に戻ったルークにお茶を用意しながら、ジルは不安そうに尋ねた。
先刻、屋敷へと帰ってきた二人の様子は出立前とは全く違っていた。ティナリアは塞ぎこんだように俯いたまま、アリスすら拒んで一人で部屋へと戻って行った。
そしてアリスが狼狽えた視線をルークに向けたが、彼もそれに取り合わず、自室へと向かったのだった。
「………」
ルークは黙り込んだまま、堅苦しい服を脱ぎ捨て、動きやすいものに着替えている。
「ルーク様」
「……なんでもない」
「なんでもないわけないでしょう。ティナリア様のご様子は明らかにおかしい……」
「なんでもないと言ってるだろう!!」
ジルの言葉を遮るようにルークが怒鳴った。そのすぐ後にバツが悪そうな顔をすると、ルークは片手で目を覆うようにしながら深いため息を吐いた。
「……すまない、一人にさせてくれ」
ジルは手に持っていたティーカップをテーブルに置くと、背を向けているルークに向かって一礼した。
「かしこまりました。出過ぎた真似を……お許しください」
「……ああ」
扉の閉まる音を聞きながらルークは窓の淵に腰かけた。心配してくれていたジルを突っぱねてしまったことに対して申し訳なさがこみ上げてくる。
だが、怒鳴るつもりはなかったものの、いまは誰にも話したくはなかった。
話せば己の情けなさまで曝け出してしまいそうで、ルークのプライドがそれを許さなかった。
ティナリアのあの様子では、アレンがあの場にいたことを知らなかったというのは嘘ではないだろう。けれど裏切られたと思っていた男に会っただけであそこまで混乱するだろうか、とルークは些か腑に落ちないものがあった。
さっきも感じた、嫌な予感が頭をよぎっていく。ルークは頭を振って不吉な考えを追い払うと、自分のつま先を眺めるように視線を下に落とした。
―― ティナリアの心はいま、アレンのことでいっぱいだろう…… ――
そう思ってからすぐに "いま" ではないと改め、そして打ちのめされるほどに思い知らされた。
「……俺が入り込む隙間など……初めからどこにもなかったな…」
ルークはそう呟き、ふっと笑った。自嘲するような乾いた笑みがより一層、自分を惨めにさせた。
昔も、今も、そしてこれからも、ティナリアの心を一分の隙もなく占めているのはアレンに他ならない。いくら笑顔を向けてくれても、心を許してくれたわけではなかった。
雨足はさっきよりも強くなっているようだ。ルークの耳には、窓に打ち付ける雨音がやけに悲しく聞こえていた。
極度の緊張から解かれたせいか、ティナリアは糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。深緑のドレスが花のように床に広がる。
ソワイエ家の庭でアレンと別れたあと、ルークに抱きしめられているうちに噂のことに頭が回る程度には落ち着いたが、それでも何でもない顔をして彼と話が出来るような気分にはなれなかった。
明らかにおかしな自分の様子にきっとルークは疑いを持ってしまっただろう。だけどあの状況で何を話せば良かったというのか。
ティナリアは瞳を閉じると自身を落ち着かせるように深く息を吐き出した。
―― アレン…… ――
ティナリアはそっと胸に手を当てた。ルークに見つからないように咄嗟に隠したアレンからの手紙。
"ああするしかなかった" と彼は言っていた。だけどそれ以上詳しいことを話してくれなかったアレンの言葉は、ティナリアを余計に混乱させるだけであった。
この手紙を読めばその言葉の意味も解るだろう。
よろよろと立ち上がるとランプの灯されたテーブルに近付いた。静かに引いたつもりの椅子が立てた音はやけに大きく部屋の中に響いた。
その椅子に座り、ポケットから小さく折りたたまれた手紙を取り出す。ドレスの上から無意識に握りしめていたせいで、手紙はくしゃりとよれてしまっていた。
開かないままで手紙をじっと見つめるティナリアの瞳には大きな不安が浮かんでいる。震える手でゆっくりとそれを開き、灯りのそばに近付けた。
少し癖のあるアレンの字。懐かしいその字を見ただけで胸にこみ上げるものがあった。
『ティナ
長い間、待たせてすまない。ようやく君を迎えに行くことが出来る。
俺の婚約はひどく君を傷つけるものだっただろうと思う。
けれどあれは君の父上の目を逸らせるためにしたことだったんだ。
そうでもしなければ俺は自由に動けない。
出来ることなら君が知ることなく終わらせたかった。
君には一片の不安も感じて欲しくなかった。
今更こんなことを言っても信じて貰えないかもしれないけれど……。
だけどもし、いまでも俺を信じてくれるのなら、今度こそ一緒に逃げよう。
二人で交わした約束を、今度こそ叶えよう。
あの日、君の手を離してしまったことを死ぬほど後悔した。
もう一度この手を取ってくれるのなら、もう二度と、何があっても絶対に離したりしない。
だから……もう一度、俺を信じて欲しい。
きっとこれが最初で最後の機会になるだろう。
十日後の午後六時、屋敷の裏門から出て二本目の路地に馬車を回す。
君が来なければそれが答えだと受け入れるよ。
願わくばもう一度逢えることを……愛してる、ティナ』
読み終えたティナリアの顔は涙で濡れていた。何度も何度も読み返し、最後には涙が溢れて何も見えなくなった。零れ落ちた涙でインクも所々滲んでしまっている。
その内容は彼女にとって衝撃的なものだった。
―― 私のためにあの婚約を……こんなに長い時間……一人で…… ――
そうとも知らず、見捨てられたと勝手に傷つき、裏切られたと絶望していた自分がなんと愚かであったことだろう。ここまでしてくれていたアレンをどうして信じきることが出来なかったのか。
―― 裏切っていたのは……私だ…… ――
信じきれず、悲観し、側にいてくれたルークの優しさに甘えて心を揺らした。
堪え切れずに漏れてしまう嗚咽を抑えるように、ティナリアは自分の口に冷たくなった手のひらを当てた。止め処なく流れてくる涙が手から腕にまで伝っていく。
ソワイエ家での自分の態度はひどくアレンを傷つけてしまっただろう。あの時の寂しそうな彼の顔がティナリアの脳裏に甦ってくる。
「…っ……アレン…」
ティナリアは入り乱れる自分の感情についていけず、テーブルの上に突っ伏した。手に持ったままの手紙はくしゃくしゃに握りしめられている。
本当は嬉しかった。
今でもアレンが自分を忘れていなかったことが。抱きしめて愛してると言ってくれたことが。迎えに来たと手を差し伸べてくれたことが。
ティナリアにとってそれはずっと待ち望んでいたことで、なによりも嬉しいことのはず。
それなのに、彼女の心はいま引き裂かれそうなほど苦しかった。
"あいつと何を話していた……あいつがここにいることを知っていたのか?"
彼女の頭の中に聞こえてくるのはアレンの声だけではなかった。
しばらく聞くことのなかったルークの冷たい声。その声には怒りと、そして悲しみが籠められていた。それを思い出し、ティナリアの心臓が鈍く痛んだ。
―― どうして……どうしてこんなに苦しいの…… ――
アレンは幼い頃から慕ってきた大切な恋人で、無茶な約束を果たす為に自分の家を、この先の人生すら投げ出してここまで来てくれた。
自分が選ぶべき相手はアレンだと分かっている。あと十日の間、嫁いできた頃のようにルークに対して壁をつくり、心を許さないように離れて過ごせばいいのだ、と。
心を閉ざすのは簡単だ。けれどルークの優しさに、彼の包み込むような温かさに、溶けてしまった心を再び凍らせることは出来なかった。
―― すでに許してしまった心は……どうしたらいいの…… ――
待ち続けた男か。それとも支え続けてくれた男か。
自分の心さえわからずにティナリアは泣き続けた。自分自身を責めるような彼女の泣き声は、それに呼応するような雨音に溶けて夜の闇へと消えていった。