エリザの姿を見送るとルークはティナリアの元へと急いだ。
 しかし、彼女と別れた場所に戻ってもそこにティナリアの姿はなかった。ルークは慌ててホールの中を見回したが、自分が贈ったあの深緑のドレスは見当たらない。

―― どこに行ったんだ…… ――

 とりあえず歩きながらティナリアの姿を探すが、あまり前を見ていないせいでさっきから人にぶつかってばかりだ。
「失礼」
 ぶつかった女性に咄嗟に愛想笑いをしながらそう言うと彼女は頬を染めてルークを見上げてきた。その女性の表情を見て、ルークの脳裏にさっきのエリザの言葉が甦る。

"女はすぐに誤解するものですわ。奥様もまた……ね" 

 足は止めないまま、しばらく何かを考えていたルークだが、自分の想像に呆れ、頭を振りながらふっと小さく笑った。意味深に聞こえたその言葉も、いま思えばエリザにからかわれただけのように思える。

―― まさかな…… ――

 そう否定しながらも、ルークは自分の考えが合っていたらどれほど嬉しいだろうと思った。そこまでティナリアが心を開いてくれていたならどれほど嬉しいことか。
 そんな想像をするだけで顔が緩んでしまう。随分と重症のようだ、と苦笑するルークだったが、傍目からはそれすらも何処となく嬉しそうに見えていた。
 ふと硝子の向こうに見える中庭に目が留まった。ティナリアは外に出て歩くのが好きだったことを思い出し、ルークはそちらに足を向けた。
 薄明かりの中、目を凝らして見ると少し奥のほうに人影が見えた。金の髪が夜の闇にぼんやりと浮かんでいる。
 間違いなくティナリアだと確信したルークはホッと安堵の息をついた。が、彼女のそばに行こうと踏み出したルークの足は何かに掴まれたようにぴたりとその場から動かなくなってしまった。
 ひとつに見えた影が揺れ、後ろからもう一人の姿が現れたのだ。
 ティナリアの心にいつまでも居続ける男。
 その姿を見た瞬間、ルークの頭にカッと血が上った。飛びかかって殴りつけたい衝動に駆られるが、それよりも激しく込み上げてくるのは己の甘さへの怒りだった。

―― 俺はなんて馬鹿な期待を…… ――

 ルークはさっき考えてしまったことを心の底から恥じた。痛いくらいに握りしめられた拳は血の気を失って微かに震えている。
 エリザとの関係を誤解してこの場にいられなかったのだとしたら。ティナリアが嫉妬してくれたら。そんな想像をしていた自分が道化のように思える。
「…っ、そんなわけ……ないだろうが」
 吐き捨てるように呟いた言葉は情けないほどに掠れていた。
 少しばかり心を開いてくれたところでティナリアが嫉妬などしてくれるはずがない。分かり切っていたことなのに、近頃のティナリアの様子に思わずそんな甘ったれた考えが生まれていた。
 しかしそんなのはただの願望でしかなかったのだと目の前の光景が言っている。少しでも近付きたいと必死になっているルークを嘲笑うように、ティナリアがいまでも愛しているのはアレンただ一人なのだ、と。
 そしてその男がこの場に来ていることに気付かなかった自分の愚鈍さに苛立った。
「ティナリア!!」
 気付いた時には彼女の名前を叫んでいた。
 嫌な予感がルークの頭をかすめ、彼は弾かれたように走り始めた。




 自分の意思を持っているかのように、ティナリアの手は勝手にアレンへと伸びていく。熱に浮かされたような瞳でティナリアはアレンを見つめた。
「ティナリア!!」
 夜の静寂を切り裂いた声にハッと我に返った。ティナリアが後ろを振り向くと、険しい顔をしたルークがこっちに向かってくるのを目にした。
「ルー……」
 名前を呼ぶ間もなく、あっという間にルークの腕の中に抱きすくめられる。身動きが出来ないほど強く抱きしめる腕をほどけるはずもなく、ティナリアは困惑の表情を浮かべてルークを見上げた。
 押し付けられた彼の鼓動はいつもより早く、いつもより大きく感じられる。
「ティナリア……」
「………」
 いつもは低く心地よく響く彼の声がいまは焦りの色を含んでいる。掠れた声はひどく切なげで、見上げた彼の顔はいまにも泣き出しそうな少年のように見えた。それが不安定なティナリアの心をさらに動揺させた。
「頼むから……勝手にいなくなるな」
 ティナリアをぎゅっと抱きしめながら言ったその言葉は、普段の強気なルークが嘘のように弱々しく聞こえる。
 だが、それも気のせいかと思うほど、ティナリアからアレンへと移した瞳には彼への敵意がありありと浮かんでいた。肩を抱いてティナリアを横に立たせると、ルークは不敵な笑みを浮かべた。
「……これはティグス子爵、お久しぶりですね」
 ルークの落ち着いた声音が逆にこの場を冷やしていく。
「クロード様もお変りないようで」
 先程、自分に向けられていたものとは打って変わってアレンの声も至って穏やかだ。それなのに両者の瞳の奥には各々が抱いている感情が燃え上がるように顕わになっている。
「こんなところで妻と何の話を?」
 アレンの社交辞令を無視してそう言ったルークの言葉にティナリアの身体が硬くなった。手には先ほどアレンから渡されたあの手紙がまだ握られているのを思い出し、陶器の肌が一気に蒼白になる。
「偶然こちらでお見掛けしまして、先日のお礼を申し上げていたところです」
「ああ、婚約発表のことですか。あの時は申し訳なかった」
「いえ、とんでもない」
 傍から見ればごく普通の会話なのに、ティナリアには彼らの一言一言が針のように感じられていた。
 互いに射るような視線を投げつけ、痛いくらいの静寂が広がる。その静寂を切って口を開いたのはルークだった。
「今日も婚約者殿と?」
「……ええ」
 一瞬、アレンが息を呑んだのが分かった。
「婚約者殿にも挨拶したいところですが、あれ以来、妻は少し体調を崩してまして。今夜も早めに失礼しようと」
 "体調を崩した" という言葉にアレンの表情が翳った。
「……そうでしたか。ティナリア様、どうぞお大事にして下さいね」
 アレンはティナリアに視線を向けると悲しげな笑みを浮かべた。その瞳はまるで "ごめんな" と語りかけているかのように切なく、優しかった。

―― どうしたらいいの……どうしたら… ――

 ルークとアレン、この二人の間に立たされたいま、ティナリアの混乱は極限に達していた。
 ただひとつだけ確かに言えることがあった。
 それはアレンが自分を連れだそうとしていることがバレたら、おそらくルークは黙ってはいないだろうということ。それだけは何としても避けなければならないと本能的に思った。
「……は…い…」
 ルークに気付かれるのを恐れたティナリアは懸命に動揺を隠そうとしたが、絞り出すようにした声は震え、隠し切れるものではなかった。
「では私達はこれで」
 そう言って軽く会釈をし、ルークはティナリアの肩を抱いたまま静かに踵を返した。
 その刹那、アレンの指先がティナリアの手に触れた。ハッと振り返ると彼の唇がゆっくりと言葉を出さずに動いた。

"待ってる"

 ほんの一瞬だった。真剣な眼差しがティナリアの心臓を跳ねさせる。
 ルークの手を振り解いてアレンの元へ駆け寄ることも、振り返ることすら出来ず、ティナリアはぎゅっと手を握り締めた。
 その手には最後に触れたアレンの温もりと小さな手紙だけが残っていた。




 ティナリアの様子がおかしいのはすぐに分かった。
 けれど自分の中に燃え上がった負の感情を抑えることが出来ず、気が付いたらティナリアの華奢な肩を掴み、強引にこちらを向かせていた。
「……あいつと何を話していた……あいつがここにいることを知っていたのか?」
 大声で怒鳴ってしまいそうなのをなんとか堪えてそう言ったルークの声はひどく冷たく、まるで以前の彼に戻ってしまったかのようだった。
 ティナリアは怯えたように身体を硬くすると、顔を伏せたまま力なく首を振った。掴んだ肩が小さく震えているのがルークの手に伝わってくる。

―― くそっ……怯えさせてどうする…… ――

 自分に対する怒りとアレンに対する嫉妬を全てティナリアにぶつけてしまったような言い方をしてしまい、ルークはさらに自己嫌悪に陥った。
 肩を震わせながら俯いているティナリアはいつもより小さく、いまにも消えてしまいそうなほど儚く見える。
 ルークは自分を落ち着かせるように深いため息を吐くと、ティナリアの頬を包み込むようにして上を向かせた。彼女の瞳に零れ落ちそうなほど涙が溜まっているのを見て、ルークの心臓は鷲掴みにされたように痛んだ。
「……ティナリア…」
 その声はもういつものように優しいものになっていた。
 一瞬だけ上げられたティナリアの視線はすぐに伏せられ、彼女の青褪めた頬に長い睫毛が影を落としている。その拍子に涙が一粒零れ、その肌に跡を残していった。
「ティナリア」
 涙をすくうように頬に口付け、それから躊躇いがちに彼女の唇を塞いだ。ずっと外にいたせいか、血の気が引いているせいか、ティナリアの唇はいつもよりひんやりとしている。
 宥めるような優しいキスを何度も何度も繰り返した。
「……すまない、怖がらせたな…」
 唇を離したルークはそっとティナリアの身体を抱き寄せ、流れる髪を梳くように撫でた。"すまない" と何度も呟きながら。

―― 離れないでくれ……これ以上… ――

 ティナリアの髪に顔を埋めながら、ルークは心の底から願った。
 いまでも想い続けているアレンに会ってしまえばより一層、その想いは募っていくだろう。ようやく微笑みかけてくれるようになったルークとのこれまでの時間をいとも容易く壊していくほどに。
 現に、こうして抱きしめているティナリアはじっとこの腕の中に納まっているが、その心はどこか別のところにあるように感じられた。
「……そばにいてくれ……」
 気付いたらそう呟いていた。
 情けなくてもなんでも、ティナリアを手放したくはなかった。
「……ルーク…」
 小さく聞こえたティナリアの声にルークはパッと身体を離した。覗き込んだ彼女の瞳は涙が残ったまま、不安そうに揺れている。
「…ルーク……私…」
 ルークはほんの少しだけ微笑むと、ティナリアの言葉を遮るようにそっとキスをした。
「話さなくていい……何も…言わなくていい…」
「………」

―― そばにいてくれるのなら……それだけでいい…… ――

 そう思いながら、ルークは愛しいティナリアの存在を確かめるようにぎゅっと強く抱きしめた。






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