程よく人が集まり始めた頃、アレンはイヴァンから渡されていた招待状を手にホールの中へと入って行った。
 隣にはほんのりと頬を染めたノエルがいる。カモフラージュの為とはいえ、仮にも婚約者がいる身で夜会に一人で来るわけにもいかず彼女を連れてきたわけだが、これから自分を裏切る男の腕に嬉しそうに手を添える姿に罪悪感を覚える。
 そっと彼女から視線を外し、アレンは痛む心に気付かないフリをした。
「アレンじゃないか」
「ああ、本当だ、久しぶりだな」
「こちらのレディが噂の婚約者殿か?」
 ホールに入ってすぐ、アレン達の姿を見とめた者達が数人集まって来た。一般的な頻度で社交の場に出ていたアレンにはそれなりの顔見知りが居るのでこの状況は想定してた。
「今日はお前たちに構ってやる暇はないぞ?」
 本音を冗談に隠して言ってやれば友人達は愉快そうに笑った。
「そりゃ可愛いレディが隣にいればな」
「アレン、紹介くらいしてくれてもいいだろう」
 その言葉にちらりと横を見れば、少し緊張した面持ちのノエルと目が合った。綺麗な瞳の中に期待の色が見える。アレンはわかったよ、と言って友人達に向かってわざとらしくため息をつき、彼女の腰に手を添えた。
「こちらはノエル=マリク=リディア嬢。俺の婚約者だ」
「お初お目にかかります」
 そう言ってノエルが淑女の礼を執ると、今度は彼女に向かって言った。
「ノエル、こちらは俺の友人達だ。名前は覚えなくていいよ」
「おい、アレン!」
 軽口を言い合いながら各々好き勝手にノエルに名を名乗る彼らからそっと視線をホールの中へと巡らせる。まだティナリアは来ていないようだ。
「アレン様?」
 ノエルに呼ばれてハッと我に返ったアレンは彼らの話の輪に戻った。この程度では怪しまれてはいないだろうが、つい気がそぞろになってしまった、と内心で苦笑する。
 それから少し話をして満足したのか、友人達は他のところへと去って行った。
「何か飲み物を取ってくるよ」
 そう言ってノエルを人の少ない場所に待たせて飲食物が並ぶスペースへと向かう。
 足を運びながらアレンは襟元に留まっているタイピンにそっと触れた。碧い石がはめこまれたシルバーの土台は最初の頃よりも少しくすんだ色になっていたが、彼はそれ以外使おうとはしなかった。
 適当な飲み物を手に、ノエルの元に戻ろうとした時、人々のざわめきが水を打ったように止んだ。ゆっくり顔を上げ、彼らの視線を追う。
 その先にいたのは一際目を引く次代総督夫妻だった。
 深い緑のドレスを身に纏ったティナリアはあの日と変わらずに美しく、しかしルークに寄り添う姿はあの時よりもどこか自然に見えた。
 当たり前のような顔をしてティナリアの隣にいる男に、アレンは激しい嫉妬を覚えた。すぐにでも彼女に駆け寄り、その手から奪い去りたい衝動に駆られたが、必死に気持ちを鎮めて二人の様子を眺める。ここでルークに気付かれては元も子もない。
 だが、頭の中では冷静に抑えられても心はコントロールすることは出来ない。無意識のうちに自然と力が入り、アレンの手の中にあったグラスはきつく握りしめられていた。
 ホールの中にざわめきが戻り、それとほぼ同時にティナリアの顔色が一瞬翳った。どうしたのかと気になったが、そんなものは杞憂に過ぎなかったらしい。二人が何か言葉を交わした直後、不意にティナリアが笑った。
 それを見た周りの貴族たちはすっかり魅了され、アレンもまたその笑顔に釘付けになった。
「ティナ……」
 音にならないほど小さな声で愛しいその名前を呼ぶ。アレンの目は瞬きすら惜しいとでもいうくらいに、その姿を見続けていた。
 あの日から耳に入ってくるティナリアの噂は皆、病だ何だと物騒なものばかりであった。
 何のせいでそうなったのかは言うまでもないだろう。アレンも自覚していた。自覚していたからこそ、前と同じとは言わずとも元気そうなティナリアの微笑みに心の底から安堵したのだ。
 だが、安堵すると同時にその笑顔はアレンに不安を与えもした。

―― 考えるな…… ――

 心の奥底に芽生えた小さな不安を必死に打ち消すと、アレンは手にしたグラスを届けにノエルの元へと急ぎ戻った。
「ノエル、お待たせ」
 そう言いながらもアレンの意識はこれから来るはずのたった一度のチャンスを逃すまい、と完全にティナリアとルークに向けられている。
「ありがとうございます」
 にこりと笑うノエルの周りにはいつの間にか数人の女性が集まっていた。どうやら彼女の友人のようだ。
 アレンはこれ幸いと彼女たちに簡単な挨拶だけすると、ノエルに向かって言った。
「向こうに懐かしい友人を見かけたから少し話してくるよ。ノエルもご友人たちとゆっくり話すといい」
「ええ、わかりました」
 嘘だらけの言葉を一つも疑わないノエルの笑顔が余計にアレンの良心を締め付ける。

―― ノエル……ごめん… ――

 その場を離れてそっと後ろを振り返る。楽しそうにお喋りを続けるノエルに心の中で謝罪した。
 何も知らず、ただ己の我儘の為に巻き込んでしまった可哀想な女性。
 だけど、とアレンは前を見据えた。その瞳にはもう迷いも躊躇いもなかった。
 恨まれる覚悟も、そして地位も、財産も、家柄も、全て捨てる覚悟をも出来ている。

―― ティナリアをこの手に取り戻す為なら…… ――

 ノエルの側を離れてすぐ、チャンスは来た。彼らのもとに当主であるソワイエ伯爵が歩み寄って行くのが見えたのだ。
 二言三言、挨拶を交わしたとエリザがあっさりとその場を離れていくのを見て予想が外れたかと焦ったが、数分も経たないうちにルークがティナリアのもとを離れ、一人ホールの奥へと歩いて行った。そして目的のティナリアは彼とは反対に向かって歩いて行く。
 アレンの心臓がドクン、と高鳴った。
 逸る気持ちを抑え、アレンは周囲に気を配りながらティナリアの後をそっと追った。
 何処となく寂しそうに目を伏せながら中庭へと出た彼女は人気のない少し奥まったところにある木の近くで立ち止まった。胸のあたりで何かを握りしめたのか、その後ろ姿はまるで祈りを捧げているようにも見える。
 アレンは速度を緩めて近付くと彼女のすぐそばでその足を止めた。

―― やっと……この手が届く… ――

 永遠にも思えるような長い時間だった。どれだけ待ち続け、そして待たせ続けてきたことだろう。
 ティナリアがアレンを想っていたのと同じように、アレンもまたティナリアを想わない日など一日だってなかった。
 目の前にある細い身体を抱きしめ、離れていた時間の分だけキスをして、いますぐにでも攫っていきたい。
 そんな激情を懸命に堪え、アレンは掠れる声でその名を呼んだ。
「……ティナ…」
 その瞬間、目の前の華奢な肩がびくっと小さく震えた。




 自分の名を呼んだその声に、ティナリアの頭は一瞬で真っ白になった。

―― どうして……この声は…… ――

 忘れるはずがない。間違えるはずもない。
 ずっと、待ち続けていたあの人の声。そしてもう二度と届かないはずのあの人の声。
 身体は金縛りにあったみたいに振り向くことを拒絶し、ティナリアは背を向けたまま動けずにいた。
「ティナ」
 再度、アレンに名前を呼ばれ、ようやくティナリアはゆっくりと後ろを振り返った。夢でも幻でもない、紛れもなく本物のアレンがすぐそこに立っている。
「ティナ……やっと会えた…」
「……ア…レン…」
 絞り出すようにした声と同時に、ティナリアの脳裏にあの日の光景が一瞬にして甦る。
 アレンが一歩近付いたとき、無意識のうちに今にも泣き出しそうな表情で後ずさりしてしまっていた。躊躇いながら伸ばしたアレンの手がぴたりと止まる。
「どうして……」
「迎えに来たんだ」
「…え……?」
「迎えに来たよ、ティナ。今度こそ一緒に逃げよう」
 アレンは伸ばした手でティナリアの腕をそっと掴むと彼女の身体を自分の方へと引き寄せた。バランスを崩した彼女は倒れ込むようにその腕の中に納まった。
 突然のことに頭がついていかないティナリアは、ただアレンの腕にしがみつくことしか出来なかった。

―― どういう……こと…? ――

 抱きしめられた身体は懐かしい匂いに包まれ、それがさらにティナリアの頭を混乱させた。
「……迎え…に…?」
「ああ。ずいぶん遅くなってしまったけど……行こう、ティナ」
 あの日からずっと待ち望んできた言葉に、ティナリアの瞳に涙が溢れた。
 大好きだったアレンの腕の中はあの頃と何も変わらず優しく温かかった。けれどティナリアは彼の胸を両手で押しやって、大好きなその腕の中から逃れようと身を捩った。
 それでも彼の腕はなかなか解けず、離れようとしたティナリアの身体をぎゅっと抱き締め、引き止める。
 その温もりが、抱き締める腕の強さが余計に辛かった。
「……アレン……もういいよ……もう…」
「ティナ?」
 堪え切れずにぽろぽろと零れる涙はティナリアの頬を伝い落ち、ドレスの中に染み込んでいく。辺りはしんと静まり返って、ホールから流れてくる音楽すらも二人の耳には届いていなかった。
 その涙を見たアレンの腕がようやく緩んだ。肩に手を添えて覗き込むように身を屈める。
 困惑というよりもどこか悲しそうな表情のアレンに向かって、ティナリアは震える声で一番言いたくなかった言葉を口にした。
「……婚約者がいるのに……どうしてそんな嘘…」
「嘘じゃない!」
 アレンはティナリアの言葉を遮るように声を上げた。
 悲痛なその声にティナリアはびくっと身体を竦め、怯えるように彼の瞳を見つめた。肩を掴む手にもぎゅっと力がこもるのを感じた。
「あの婚約でティナを傷付けたのは分かってる……でも、ああするしかなかったんだ」
 想い出の中にいつもあった穏やかな顔は、いまは歯をくいしばるようにして辛そうに歪めてられている。
「……どういうこと?」
「他の誰が傷ついてもかまわない。ティナをこの手に取り戻せるのなら……」
「……アレン…?」
 ティナリアの問いに答えず、アレンは彼女の肩を引き寄せてもう一度強く抱きしめた。息も詰まるような抱擁のあと、そっと身体を離すとアレンは昔のように柔らかく微笑んだ。
 彼女の頬に伝う涙を指で優しく拭い、ついばむような口付けを落とす。
 記憶の中にある、優しいキス。ルークの求めるような情熱的なキスとはまるで違っていた。
 アレンはおもむろに上着の内側から小さく折り畳まれた紙を取り出してティナリアの手のひらに乗せると、彼女の手ごと包むようにしてそれをしっかりと握らせた。
「ここで詳しく話している時間はない。これに書いてあるからあとで読んで」
 握りしめた手の中には確かに紙の感触がある。ティナリアは不安そうな瞳をアレンに向けた。
「いまは信じてくれとしか言えない……俺を信じてくれ、ティナ…」
「………」
 アレンが嘘を言っていないのはすぐに分かった。
 真っ直ぐに見つめ返してくるその瞳は昔と何も変わっていない。それなのにティナリアは言葉を発することが出来ず、ただ黙ってアレンの瞳を見つめた。
「……愛してるよ…」
 何も答えられないティナリアの全てを包み込むように、アレンは小さく笑ってそう言った。
 それと同時に遠くから聞きなれた声が飛んできた。こちらに向かって駆けてくる足音も次第に大きくなる。
「……タイムリミットのようだ」
 名残惜しそうにティナリアの手をそっと離すとアレンは彼女から一歩下がった。
 掴まれていた手の温かさが消え、ティナリアの心の中に言いようのない気持ちがじわりと広がる。

―― この手を離したら…… ――

 悲しみ、後悔、そして恋慕。
 ウォルターに引き離されたあの夜のさまざまな感情が激流のようにティナリアの中に流れ込んできた。いま自分が立っているのがあの海辺のような錯覚すら覚える。

―― 離しちゃダメ……この手を掴まなくちゃ…… ――

 その想いがティナリアの思考を奪っていく。
 無意識のうちにアレンに手を伸ばしかけたとき、再びその声に名前を呼ばれた。






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